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第1話
小さい頃、酒を飲んで記憶を失くしたと言う大人が信じられなかった。
正直、今も信じてはいない。酔ったせいにして忘れたフリをしているんじゃないかと思う。だって、そんな都合のいいことがあるだろうか。
そう思うのは、単にこれまで自分がどんなに酒を飲んで酔っ払っても記憶を失くしたことがないからかもしれないけれど。
ただ、今夜はできることなら自分もそうなりたい。
村瀬真翔 は、入ったこともない小洒落たバーのカウンターで、もう何杯目かも分からないビールを飲んでいた。
カウンターの頭上には指紋一つないグラスが列を乱すことなく吊るされている。見上げているせいか頭がふわつく感覚がして、視線を斜め上から正面へと戻した。
酔ってはいるけれど、残念なことにまだ今日あったことははっきりと覚えている。もっと、とまだ半分ほど残っているグラスに手を伸ばすと、掴む前に横から取り上げられてしまった。
「さすがに飲みすぎ」
隣のスツールに座った男が言う。
「まだ酔ってない」
「酔っ払いは総じてみんなそう言うんだよ」
反射的な言葉にため息を返された。
「……明日の朝、記憶が残ってたら絶対に恨むからな」
言いながら、落ち着いたはずの涙がじわりと滲んで、視界をぼやけさせる。慌てて目元を拭った。情けない。
男は、そんな真翔を頬杖をついてただ見ている。
「なあ。そんなに好きだったの?」
まるで呟くような問いかけだった。
数時間前、真翔は恋人に振られた。
付き合ってもう少しで半年、という時だった。
別れたいと言われて、「そっか」としか言えない真翔に彼女は深いため息を吐いた。
――真翔って、優しいんだけど――。
「……」
思い出して、胸が詰まる。
「それで、別れた原因は?」
隣の男が見計らったかのようなタイミングで聞いてくる。だけど、胸の詰まりと喉が直結しているのか、「あー……」と言葉に詰まった。
そんな真翔に気づいているのかいないのか、男は店員に「お冷一つください」と注文する。
真翔は男をちらりと見やった。
自分よりも背が高いのが座ったままでも分かる。無難なダークスーツの下は、薄くストライプの見える白シャツに小紋柄の散った濃紺のネクタイを締めていて、外し過ぎない着こなしをしている。整った目鼻立ちのせいか少し冷たそうな印象を受けるけれど、人の目を惹く顔立ちだと思う。
隣に座ったその男と出会ったのは、一時間ほど前のことだ。
振られて酒を飲むなんてベタなこと、いつもなら絶対にしない。だけど、まだ冷たい春風が吹く中、傷心でぼんやりした頭のままふらふらと歩いていたら、隣駅まで歩いてしまっていた。自分で思っている以上にショックが大きかったらしい。歩いた距離を意識すると遅れて疲れがやってきて、ふと目についたこのバーに入った。
そしてこれまた、いつもなら絶対にしないのに妙に大胆な気持ちになって、なんだかつまらなそうに酒を飲んでいた隣の男に「それ、なに飲んでるの?」と真翔から声をかけていた。
誰かに聞いてほしかったのかもしれないし、話すことでさっさと過去のことにしてしまいたかったのかもしれない。
本当のところは真翔自身もよく分からない。もしかしたら、酔っているせいかも。ああ、酒……というか、大人って便利だ。
無視されずに「シンガポール・スリング」と答えた男に気をよくして、実はついさっき振られたんだよねと話すと、向こうが「俺も」と言うから、さすがに驚いた。
それからお互いの振られ話をしている。とは言っても、今のところ真翔の話を主に聞いてもらっているのだけど。
男は、ただ真っ直ぐに真翔の話を聞いているだけなのに、不思議と会話が途切れない。途切れそうになる度、向こうから真翔の話を促す話題を振ってくるからだ。
俺にはできない……。自分とは違うコミュニケーション能力の高さに、勝手に劣等感を覚える。どうしたらこういう風にできるようになるんだろうか、と考えていると――
「ほら」
「え?」
水の入ったグラスを差し出された。
「飲んでおけよ」
「えー」
「ゲロ吐いたら困るだろ。代わりにって訳じゃないけど、話は聞くから、そっちは好きなだけ吐けばいい」
しぶしぶグラスを受け取ってちびちびと飲むと、思っていたよりも酒が回っていたのか、冷たい水にほっと息が漏れる。
「名前」
「ん?」
息と一緒に零れるように単語が出た。
「そういえば名前言ってなかったなと思って。なんか今さらだけど……俺、村瀬っていいます。えっと……」
こういう時、なんて聞くべきだろう。苦手な上に慣れないことをしているせいで、言葉が出てこない。スムーズにいかずに焦っていると顔に出ていたのか、男が少し困ったように苦笑した。
「やっぱ分かんないか」
「はい?」
「いや、なんでもない。俺は佐野」
「佐野さん……」
「変に改まらないで呼び捨てでいい。俺も村瀬って呼ぶから」
たしかに、それこそ今さらだなと思って、真翔は頷いた。
「仕事がどんなに忙しくても、デートができない理由にしたくなくて愚痴らないようにしてたのにさ。それが重いんだって」
もはや姿勢を保つ気力もなくなってきて、真翔は頬をテーブルにつけて口を尖らせた。
「……それ、水だよな?」
「おい、ちゃんと聞けよ」
「聞いてるって。それでも時間見つけてデートには行ってたんだろ?」
ほら、ちゃんと言葉を拾ってくれる。
延々と愚痴を言う真翔に付き合う佐野は、飽きもせずに話を聞いて会話を繋ぎ続けていた。その安心感からか、自分の口がいつもよりも軽くなっていることに気づいてはいるけれど、まあいいか、と思う。どうせ、相手はこの店を出ればもう会うことはない他人なのだから。
「俺、食品会社の社内システムエンジニアをやってるんだけどさ、繁忙期の波が激しいんだよ」
「……ああ」
途切れた会話に、あれ? と思う。「どんな仕事なの?」と聞いてくると思っていたので、予想外の反応に新鮮さを感じなくもない。
「そっちは? なんで別れたの?」
「向こうに浮気相手がいた」
「うわー……」
もしかしたら、自分の仕事の話をしたくないのかもしれない。そう思って話題を逸らしたのが半分、そろそろ自分の話ばかりじゃなくて相手の話も聞きたくなってきたのがもう半分で水を向けたものの、予想外の答えで思わず心のままに声が出てしまった。
「それで?」
「別れた」
「それは端折り過ぎでしょ」
という、突っ込み待ちだと思って乗ったつもりだったのに、佐野は意味が分からないと言わんばかりに小さく首を傾げただけだった。マジか。
「浮気相手がいるのに気づいて直接聞いたら、じゃあ別れようって言われて振られた」
「……はあ?」
まるで精度の低いAIがインプットされた言語をただなぞるような無感情さに、反応が遅れる。
それは『振られた』という表現で合っているのだろうか。
「相手も相手だけど、あんたはそれでいいわけ?」
「いいもなにも……というか、なにを怒ってるんだよ」
「えー……」
俺がおかしいの? と今度は真翔が首を傾げる番だった。
「あのさ、それって本当にその彼女のこと好きだったのかよ?」
「……どうなんだろうな」
視線を真翔からすっと外した佐野の目は、どこか遠くを見ているような、それでいてどこも見ていないような気がした。
「ごめん、今のなし。俺もだし」
その表情がとても寂しいもののように思えて、慌てて取り消すと同時に、余計なことまで言ってしまう。やっぱり口が滑りやすくなっているらしい。佐野は視線を真翔に戻して不思議そうに見てくる。
「どうして謝るんだよ?」
「……俺、女の子に告白されると付き合っちゃうんだよ。例えばそれが知らない子でもさ。それから好きになろうっていつも思ってるんだけど……今さっき別れた彼女も、本当に好きだったのかって聞かれると、俺だって分かんないから」
すると、佐野がふっと笑った。
「村瀬って、真面目だね。そんなに正直に言わなくてもいいのに」
「わ、笑わなくてもいいだろ」
「ああ、悪い。ありがとうな」
「別に礼を言ってほしかったわけじゃ……」
なんて返せばいいのかと視線をさまよわせて、真翔は佐野の前にある空いたグラスに瓶ビールを注いだ。
「お互い、今日はとことん飲もう」
ちゃっかり取り上げられたグラスを取り返して掲げて見せる。
すると佐野がまたおかしそうに笑って、あ、と思う。
さっきは気づかなかったけど、笑うと目じりが垂れて、すごく優しく見えた。
「どうかした?」
「……ううん、何でもない」
言いながら、真翔はグラスを合わせたのだった。
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