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第5話
その日は朝から、いつもと違う空気だった。
部屋のカーテンは閉められたままで、
いつもは香っていたアロマの匂いも、どこかに消えていた。
玲奈さんは、ぼくの着替えを手に持って、ベッドのそばに立っていた。
「敬様、今日は少しだけ、大人の服を着ましょうね」
そう言って差し出されたのは、黒いジャケットとネクタイ。
見慣れない色だった。
「今日は、パパとママに会えるの?」
ぼくがそう聞くと、玲奈さんは一瞬だけ、言葉に詰まったような顔をした。
でも、すぐにやさしく微笑んで、
「……ええ、きっと、会えますよ」
と、静かに答えた。
(やっぱり……二人とも、まだ寝てるだけなんだよね)
そんなふうに、まだ自分に言い聞かせていた。
車の中でも、大人たちはみんな黙っていた。
車窓の外には、黒いスーツの人たちが、たくさん、たくさん見えた。
知らない人ばかりだった。
でも、みんな、同じように俯いていた。
会場に着くと、大きな建物の前に黒い幕がかかっていた。
「告別式」と書かれた白い札がかかっていたけど、
それが何を意味しているのか、当時のぼくにはまだわからなかった。
ただ――胸が、ずっときゅうっと締めつけられるような、
そんな感じがしていた。
涼兄が駆け寄ってきて、ぼくの手を握ってくれた。
「……けい」
声が、少しだけ震えていた。
ぼくはその手を見つめた。
涼兄の手は、すごくあったかかった。
中に入ると、白いお花に囲まれた祭壇があった。
その真ん中に、大きな写真が二枚、並んでいた。
一枚は、ママの笑った顔。
もう一枚は、パパがちょっと照れたように笑っている顔。
(……これ、なんで飾ってあるの?)
お花の香りが強すぎて、少しだけむせそうになった。
その奥に、大人たちがずらりと並んで、静かに目を伏せていた。
ぼくが入ってきた瞬間、誰もが顔を上げ、
そして、またすぐに視線を逸らした。
「敬様……こちらに」
玲奈さんがぼくの手を取って、導いてくれた先には――
白い布で覆われた長い箱が、ふたつ、並んでいた。
(これ、なに?)
聞こうとしたけれど、言葉が喉につかえて出てこなかった。
ただ、ぼくの手をぎゅっと握っていた玲奈さんが、
震えていることだけは、すぐにわかった。
大人たちが、順番に手を合わせて、なにかを呟いていた。
ぼくの前に立った涼兄が、目を赤くして手を合わせたあと、
ママとパパの写真を見上げて、小さくつぶやいた。
「……けいのことは……俺が絶対に守ります。だから……どうか、安心して眠ってください……」
敬の胸に、また小さなざわめきが生まれる。
なにかが、おかしい。
わからないけど、これは――普通じゃない。
でも、まだ、その“違和感”に名前をつけることができなかった。
やがて、玲奈さんに促されて、ぼくは二人の棺の前に立った。
布が、そっとめくられた。
そこには、静かに眠るママとパパの姿があった。
昨日、病院で見たままの姿。
でも、今は――ずっと冷たくて、ずっと静かで、
まるで時間が止まったみたいだった。
(……なんで、起きないの?)
心の中でそう呼びかけても、返事はなかった。
周りの大人たちの目から、また涙があふれはじめた。
玲奈さんは、ぼくの肩にそっと手を置いた。
そして、初めて、ほんの少しだけ――こう呟いた。
「……お父様とお母様は、きっと、空の上で見守ってくれています」
その言葉が、ぼくの胸の奥に、
ゆっくりと、静かに、沈んでいった。
(……空の上?)
その意味を、完全に理解したわけじゃなかった。
でも――少しだけ、なにかが壊れたような気がした。
ママとパパの姿を見ても、
ぼくの中ではまだ、どこか「夢の中にいるような感覚」が続いていた。
ずっと続いていた、昨日の「違和感」が
少しずつ、形にならずに積み重なっていく――そんな感じだった。
そこへ、三条のおじいちゃんとおばあちゃんが歩いてきた。
二人とも姿勢はまっすぐで、威厳があり、着ている喪服も完璧に整っている。
でも、ママの棺の前に立った瞬間、
おばあちゃんは、今にも崩れそうなほど顔を歪めながら、
そっとママの手を取った。
「霞……あんなに……立派になって……」
かすれた声に震えが混じり、言葉は途中で切れてしまった。
「もう泣くのをよせ。娘がぐっすり眠れなくなるじゃないか」
おじいちゃんが、そっとおばあちゃんの肩に手を添えて言った。
その声は、あくまで静かで穏やかだったが、
目元には、隠しきれない赤みがにじんでいた。
二人はそれぞれ、ママの頬にそっと口づけをした。
そして、おじいちゃんが静かに言った。
「霞、お前は……俺の自慢の娘だ。
……和樹は夕方に着く。お前の兄も、すぐに駆けつける」
まるで生きている娘に語るように、
柔らかく、確かな声で。
その言葉に、おばあちゃんはまた嗚咽をこらえながらうなずいた。
敬は、ただその光景を見ていた。
「眠っているだけ」――
そう信じようとしていた心に、
少しずつ、ひびが入っていくのを、感じながら。
*
――そして、少し時間をおいて、パパの両親がやってきた。
二人とも背筋が伸びていて、強い意志を感じさせる目をしていた。
イギリス出身の祖母と、伊集院家の当主である祖父。
その祖母が、まっすぐぼくの前に来て、膝を折った。
その動きに、年齢の弱さはまったくなかった。
それどころか、どこか「誇り」と「気高さ」をまとっていた。
けれど――その瞳には、涙がいっぱいに溜まっていた。
「ケイ」
祖母はやさしい声で、ぼくの名前を呼んだ。
「あなたは、とてもがんばっているわね。えらい子よ」
そして、ぼくの手を両手でそっと包みながら、こう続けた。
「……ケイ。あなたのパパとママは……
昨夜、空へ旅立ちました。もう、この世界にはいないの」
言葉はやさしかったけれど、
そのひとつひとつが、胸に深く刺さっていった。
横で立っていた祖父――伊集院グループの当主である人が、
ぼくの肩に手を置いて、短く言った。
「敬……両親はもういない。だが、家族はまだ、ここにいる。
お前は一人じゃない」
ぼくは、言葉を失った。
心のどこかで、ようやく“答え”が届いた気がした。
(ママとパパは……いない?)
その意味が、はっきりと形を持ち始めた瞬間――
胸の中がぐしゃぐしゃになった。
でも、泣けなかった。
涙は、まだ出てこなかった。
「……ありがとう、おばあちゃん。……ありがとう、おじいちゃん」
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