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第4話

「敬様、敬様……」 ぼんやりと名前を呼ばれる声が聞こえた。 玲奈さんの声だった。 「う〜ん、……はぁぁ……」 ぐっすり眠っていたぼくは、大きなあくびをして、 目ににじんだ涙を手の甲でごしごしと拭いた。 ぼんやりとした視界の中に、真っ青な顔の玲奈さんが見えた。 「ごめんなさいね、起こしてしまって……でも、今は大事なお話があるの。 敬様、少し一緒に来てくださいますか?」 玲奈さんの声は、いつもよりずっと静かで、 少し震えていて――どこか、泣くのを我慢しているように聞こえた。 「……うん」 そう答えたとき、ようやく自分が車の中にいることに気づいた。   「抱っこしますので、しっかりつかまっていてくださいね」 「はーい」 ぼくは小さく返事して、玲奈さんの腕に抱えられた。 そのまま、車のドアが開き、外の空気がひんやりと頬を撫でた。   遠くから、人の声が聞こえてくる。 怒鳴り声、泣き声、バタバタと走る音。 ぼくの意識はだんだんと冴えていき、 胸の奥がざわざわしてきた。   「玲奈さん、ここ……どこ?」 抱かれたまま、ぼくは耳元でたずねた。 「……病院です」 玲奈さんは、前だけを見つめたまま歩きつづけた。 その腕の中で、ぼくは思わず彼女の胸に顔を押しあて、 前方を覗きこんだ。   病院の入り口をくぐり、奥の廊下へと進むと―― そこに、床に座り込んで泣き叫ぶ人たちの姿があった。 おばあちゃんだった。 ママのママ――三条家のおばあちゃんが、 大声をあげて、泣いていた。   「大旦那様、大奥様、敬様をお連れしました」 玲奈さんの声が、響く。   「わぁあああ……霞ぁ……! 霞……!」 おばあちゃんは、玲奈さんの声に気づくことなく、 うずくまって泣き叫んでいた。 おじいちゃんが、その肩をそっと支えながら、 厳しい顔で何かを堪えているように見えた。   「大旦那様、敬様が到着なさいました」 膝をついていた執事さんが声をかけると、 おじいちゃんがようやくぼくに気づいて顔を上げた。 その目には、赤く滲んだ涙の跡があった。   「敬……来たか。……医者に伝えよう」 おじいちゃんは、短く言い、 傍にいた執事に指示を出した。 「承知いたしました」 執事さんが立ち上がり、廊下の奥にある病室へと歩いていく。 ぼくはその背中を、ただ呆然と見つめていた。   「佳奈……孫が来たぞ。中に入ろう。……しっかりするんだ」 おじいちゃんの言葉が、 どこか遠くの音のように聞こえた。 おじいちゃんは、おばあちゃんの肩を支えながら、ゆっくりと立たせた。 泣きすぎて力が抜けてしまったおばあちゃんの体は、ぐにゃりと柔らかく、足元がおぼつかない。   そのとき、病室の奥から執事さんが戻ってきて、おじいちゃんの前に静かに立ち、頭を深く下げて言った。   「ご準備が整いました。どうぞ、お入りください」   「……ああ、わかった」 おじいちゃんの声は、掠れていた。   この場にいたのは、ぼくを抱いている玲奈さんと、三条の祖父母。 ほかにも、黒いスーツ姿の執事さん、メイドの女性たちが数名。 それから、ママの仕事をずっと手伝っていた林さんと河野さんというふたりの部下の人たちもいた。 みんなが、目を赤くしながら静かに立っていた。   「敬、ついてきなさい」 おじいちゃんがそう言って、おばあちゃんの肩を抱えながら歩き出した。 その隣には、メイドの一人が付き添い、おばあちゃんの腕を支えている。 ぼくも、玲奈さんに抱かれたまま、みんなの後ろについて歩き始めた。   アルコールのにおいと、どこか甘くて鉄っぽいにおい―― 血のようなにおいが、ふっと鼻の奥に入りこんできて、思わず眉をひそめた。   部屋の入り口に近づくと、白衣を着た医者たちが廊下の左右に並び、 誰もが深く頭を下げていた。 10人ほどいたと思う。 そのどの人も、一言も発さず、ぼくたちが通り過ぎるまで、 ずっと地面を見つめていた。   (なに……これ? どうして、みんな下を向いてるの……?) ぼくはその異様な光景に、胸がざわざわしはじめた。 何も言わず、表情ひとつ変えずに並んでいる大人たち。 見えない何かが、この空間をぎゅっと押しつぶしているみたいだった。   玲奈さんの胸元に顔を埋めながら、ぼくは無意識に、 彼女の服をつかむ手に力を込めていた。 この中で、なにが起こっているのか、 理解できていないのは――たぶん、ぼくだけだ。     部屋の中に入ると、すぐに年配の医師がベッドのそばに立っていた。 その人は、姿勢を正したあと、深く頭を下げて言った。   「……お力及ばず、大変申し訳ございませんでした」   その瞬間、病室の空気が凍りついたように感じた。   「……うん。いいんだ。……みんな、一生懸命頑張ってくれたのは、分かってる」 おじいちゃんの声は、震えていた。 けれど、泣いてはいなかった。 ただ、背筋をまっすぐに伸ばして、 目の前の現実を受け止めようとしているようだった。   その後ろで、おばあちゃんはまた、声を出して泣き始めた。 メイドさんがそっとハンカチを差し出していたけど、 おばあちゃんはそれを受け取ることもできないまま、 うつむいて肩を震わせていた。 「……大旦那様、敬様に……」 玲奈さんがそう言いかけたが、最後の言葉は声にならず、 喉の奥でかすれて消えた。 そのまま、ぽろぽろと涙が頬を伝ってこぼれ落ちる。   ぼくは、玲奈さんの顔を見上げ、 そっと手をのばして、彼女の頬を指でなでた。 「泣かないで、玲奈さん……」 小さくそう呟いたぼくに、玲奈さんは何も言わず、 自分の額をぼくの額にそっと重ねてきた。   ふたつの額が触れ合うと、 玲奈さんの涙が、ぼくのほっぺたに落ちた。 ぬるくて、ちょっとしょっぱい感触。 それをまた、ぼくの指で拭ってあげた。   しばらくそうしていると、玲奈さんが静かに額を離した。 その顔は、少しだけ落ち着いたように見えた。   ぼくは、玲奈さんの腕の中に抱かれたまま、 顔をそっと外に出して、病室の中を見渡した。   すると、目の前に並ぶふたつのベッドが目に入った。 その上には、人のかたちをした何かが、シーツの中に静かに横たわっていた。 (誰か、具合が悪いのかな……?) そう思ったとき、おじいちゃんの声が聞こえた。   「敬……そばにいてあげなさい」   玲奈さんがゆっくりと歩を進め、 ぼくをそのうちの一つのベッドサイドまで運んでくれた。   近づいて、ようやく見えた顔――それは、ママだった。   「……ママ?」 小さな声でそう呼ぶと、 ママはいつもみたいに、うっすらと笑っているような顔をしていた。 でも、目は閉じたまま、動かなかった。   ぼくは、玲奈さんの腕からするりと体を抜け出し、 ママのそばに駆け寄って、ベッドに座った。 「ママ、ママ……どうしたの? ねえ、具合悪いの? 起きてよ……敬、ここにいるよ?」 ママの肩にそっと触れて、揺らしてみる。 「ねえ、玲奈さん……ママ、どうしたの?」 振り返って玲奈さんにたずねた。 でも、玲奈さんはなにも言わず、ただ口元をきゅっと結んでいた。   ママは動かない。 何度呼んでも、目を開けてくれない。 ママがまったく動かないことで、 (ただ具合が悪くて、眠っているだけじゃないのかもしれない) ――そう思った瞬間、ぼくは無理に体を揺らすのをやめた。   (ママはきっと、疲れてるんだ。すごく大きなお仕事を終えたばかりだし……) (今はただ、ぐっすり眠ってるだけなんだよね)   そう言い聞かせながら、 ぼくは自分の中の“冷静さ”を無理に呼び戻していた。     そのときだった。 後ろから、おばあちゃんの泣き声が近づいてきた。 「うぅ……ううぅ……霞……! 霞ぁ……!」   おばあちゃんは、ママの反対側のベッドサイドに膝をついて、 ママの体にすがりつくようにして、泣きじゃくった。 「お願いだから、起きて……。霞……聞こえてるんでしょ? 目を開けて、返事して……!」   おばあちゃんの手がママの頬をそっと撫でる。 声はだんだんかすれて、力を失い、 そのまま、おばあちゃんの体がぐらりと倒れ込んだ。   「大奥様!」 「佳奈っ!」 「奥様、しっかり!」 部屋中が一瞬にしてざわついた。 メイドたちと医者たちが駆け寄り、 おばあちゃんの体を支えて、緊急処置室へと運んでいった。   「妻を頼む……」 おじいちゃんは、医師たちに短くそう言い、 ママのそばにしゃがみ込んだ。 そして、ママの頬に手を添えながら、 声を震わせて言った。 「霞……おまえは……立派だった……。あまりにも、早すぎる……」   それを見ていても、ぼくの中では、まだ“死”の意味がわかっていなかった。 ただ――ママがとても、とても具合が悪いんだということだけは、 本能でわかった。   ぼくは、そっとママの手を探し、両手で包み込んだ。 「ママ……早く元気になってね」 ぼくは、涙をこらえながら微笑んでみせた。 「ぼく、ママのために折り紙でお鶴を折るから……。だから、早く治ってね」   ママの手を、そっと自分の頬に当てた。 それから、手の裏にキスをして、最後にママの額にもそっと口づけた。 ママの肌は、いつもより冷たかった。   玲奈さんは、何も言わずにぼくの背中をそっとさすっていた。 でも、肩が震えていて、ぼくの耳元にこっそり落ちてきた涙のしずくがあった。   「さあ、敬様……。今度は、パパのところへ行きましょう」 玲奈さんがそう言って、再びぼくをやさしく抱き上げた。   病室のもう一つのベッドへ、足を進める。   「……パパ」 ぼくは、パパの顔を見た瞬間、 反射的に玲奈さんの腕から飛び降りた。 そして、ベッドの横に駆け寄って、パパの手をぎゅっと握った。 「ねえ、パパも具合悪いの? お仕事、がんばりすぎたんでしょ? ぼくが、治してあげるよ……」   そう言いながら、パパの胸に顔を当てたけど―― 何も聞こえなかった。   でも、ぼくはそれを不思議に思わないふりをした。 心のどこかで、「おかしい」と感じているのに、 頭がそれをはっきり認めるのを拒んでいた。   (パパも疲れてるんだ。たぶん、ぐっすり眠ってるだけ……)   玲奈さんはぼくのそばで、じっと何も言わずに立っていた。 その顔を見上げたとき、彼女がまた涙をこらえていることに気づいた。 でも、ぼくは何も言わなかった。 言葉にしてしまったら、なにかが壊れてしまう気がして。   ベッドの上で静かに眠るママとパパ。 その姿は、いつもよりずっと静かすぎて――少しだけ怖かった。 おばあちゃんは泣きすぎて倒れて、別の部屋に運ばれた。 おじいちゃんは、ずっと黙ったままママの手を握っていた。 玲奈さんも、メイドさんたちも、林さんも河野さんも、 誰もぼくに話しかけようとはしなかった。   ただ、みんながそっと見守っているだけだった。 まるで――何も言わないことで、すべてを伝えようとしているみたいに。   でも、ぼくはその沈黙の意味を、理解しようとしなかった。   ぼくは、ただママとパパのそばに座っていた。 ママの冷たい手を握りしめて、ずっと握っていた。 そして、ときどき顔を見ては、心の中で何度も言い聞かせた。   (大丈夫。すぐに目を覚ます。 いつもみたいに、にっこり笑って「おはよう」って言ってくれる) (パパも、目をこすりながら「よく寝た」って起きてくる) (今日は、誕生日なんだから。プレゼントもケーキも……きっと、あるはずなんだから)   なぜか、涙は出なかった。 出そうで出なかった。 胸の奥がぎゅっとしているのに、 頭の中はふわふわしていて、現実じゃないみたいだった。   時間がどれくらい経ったのか、わからない。 けれど、誰かが静かに声をかけてきた。 「……敬様、お時間です。……お部屋を、出ましょうか」 玲奈さんの小さな声だった。 ぼくはうなずいて、彼女の手にそっと身を委ねた。   もう一度だけ、ママの顔を見て、 その頬にキスをした。   パパにも、同じようにした。 そして、何も言わずに、病室をあとにした。     ――ぼくは、まだ知らなかった。 この日を境に、世界がまったく変わってしまったことを。 そして、二度と戻らない“家族”のかたちを――。   ただ、小さな心のどこかで、 どうしようもない「違和感」だけが、 ずっと、静かに、ざわざわと鳴り続けていた。

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