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第3話
『ママ、すぐ帰るからね。ちゃんとごはんを食べて、お風呂に入って、あたたかくして寝るのよ。
夜中には家に着くと思うけど、敬の大切なお誕生日には間に合うように、パパとふたりでお仕事を頑張ってるの。
発表会が終わったら、すぐ車で帰るからね』
電話の向こうから、ママのやさしくて、ちょっと急いでいる声が聞こえてくる。
ぼくのママは、今パパと一緒に名古屋で開催されている医学の研究発表会に参加している。
五歳のぼくには、“研究”や“医学”といった言葉はまだ難しくて、よくわからない。
でも、パパがつくったお薬が、病気の人を助けるってことはちゃんと知っている。
ぼくのパパは、日本でも世界でも有名な脳の専門医。
ママの話では、これまで誰にも治せなかった難しい病気を治す手術と、
それに効く特別なお薬を開発した“世界でたった一人の医師”なんだって。
テレビでも、ニュース番組や特集コーナーで、パパの写真や名前がたくさん紹介されていた。
大人たちはみんな、すごく興奮してその話をしていた。
東京、京都、大阪、アメリカ、イギリス、フランス――
いろんな国や都市で、何度もお祝いの式典が開かれた。
今日のパーティーは、その最後らしい。
「うん、わかった。ぼく、ちゃんとごはん食べるよ。
でも、そんなに急がなくていいよ。
明日は夜遅くなっても、ぼく待ってるから。
ゆっくり、お仕事してね」
今は、2月28日の夜7時すぎ。
名古屋にいるママと、家の固定電話で話しているところだ。
明日――3月1日は、ぼくの6歳の誕生日。
毎年どんなに忙しくても、ママとパパは、ぼくの誕生日を絶対に忘れない。
一週間くらい前から予定を調整して、行きたいところに連れていってくれたり、
本家のおじいちゃん・おばあちゃんの家に連れていってくれたり、
なんでも「いいよ」って笑って聞いてくれる。
『敬ったら、そんな寂しいこと言わないで。
ママとパパのほうが、あなたに会えないのが寂しくて、涙が出ちゃうわよ〜』
ママの甘えるような声が、電話越しにくすぐったく響いてくる。
ぼくは笑って言った。
「うふふ、ぼくもママとパパに癒してあげたいな〜」
すると、ママの声がふわっと柔らかくなって返ってきた。
『もう……ほんとに敬は、嬉しいことを言ってくれるのね。
ママは世界で一番幸せな人間だわ。……愛してるわよ、私の天使』
ママもパパも、ぼくのことを“天使”ってよく呼ぶ。
それがちょっとくすぐったくて、でもすごく嬉しい。
「ぼくも、ママとパパのこと大好きだよ。
お仕事、がんばってね。車の運転も気をつけて」
ママが安心して電話を切れるように、ぼくはそう言った。
『敬に直接キスしたい気持ちを我慢して……ん〜〜ムワッ!
おやすみなさい、敬』
ママのキスの音が聞こえて、ぼくの顔がニンマリとゆるんだ。
「おやすみなさい、ママ」
電話を切ったあとも、しばらくその余韻が残っていた。
その隣で、静かに見守っていた玲奈さんが声をかけてきた。
「霞様は、なんと仰っていましたか?」
玲奈さんは、ぼくの乳母。
ママの実家・三条家の分家、篠原家の次女で、
上級ベータとしての教養や立場を持ちながらも、
ぼくのそばにいてくれている大切な存在だ。
おっとりした話し方と、いつもやさしい笑顔。
玲奈さんのそばにいると、心があたたかくなる。
「お祝いパーティーが終わったら、すぐ帰るって言ってたよ」
そう答えると、玲奈さんはちょっと困ったような顔で微笑んだ。
「まあ……そんなに夜遅くに車を運転して帰ってこようなんて。
敬様に早く会いたい気持ちは分かりますけれど……ご両親ともに、ほんとに困った方々ですわ」
でもその言葉の裏には、あたたかい愛情がちゃんとこもっている。
この世界には、アルファ・ベータ・オメガという“第二の性”がある。
でも、それだけで人の価値が決まるわけじゃない。
昔のような“身分制度”はもう存在しない。
けれど今もなお、「上級」「中級」「下級」と呼ばれる目に見えない階層が残っている。
アルファは全体の2割。
優れた能力と魅力を持ち、国家のリーダーや企業のトップになることが多い。
ベータは7割。
特別な体質はないけれど、努力や知識で上に登る人もたくさんいる。
オメガは1割。
数が少なく、体質も特別で、過去には差別の対象にもなっていた。
けれど最近では、その希少性と能力に価値が見直され始めている。
とはいえ、現実には生まれた家や資産、教育環境などで
人生のスタート地点は大きく違ってくる。
名門家に生まれたベータやオメガは「上級」とされ、
努力や才能で昇格する人もいれば、
逆に、アルファであっても“下級”に分類されることもある。
ママはよく、こう言っていた。
『第二性は“特徴”であって“価値”じゃないの。
敬は敬。あなたは、自分の階段を登ればいいのよ』
だから、ぼくはこの社会の仕組みを、少しずつ学び始めている。
そして、玲奈さんがどうしてこの家にいてくれるのかも、ちゃんと分かっている。
玲奈さんは、ママが弁護士になったとき、
「お傍にいたい」と自ら乳母に志願してくれた。
家業ではなく、“法の力で人を守る”というママの生き方に心から共鳴して。
家族がいて、自分の生活もあるのに、
それでもぼくのそばにいてくれる。
それが、どれほど大切でありがたいことか――ぼくはよくわかっている。
「明日になったら、ぼく、小学生になるんだよ」
なんとなくそう言ってみたら、玲奈さんは目を細めて、あたたかく笑った。
「ええ、知っていますよ。敬様は、きっと立派な小学生になりますわ」
ぼくのまわりには、愛と優しさがあふれていた。
パパとママと、玲奈さん。
ぼくは、毎日が幸せで、毎日が誇らしかった。
――このときまでは。
明日が、誕生日じゃなければよかったなんて。
そんなふうに思う日が来るなんて、
このときのぼくは、まだ何も知らなかった。
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