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第16話

 しかし、不思議と今のルピナスに対して不安はなかった。理解が出来ない恐怖はあるけれど、少なくともこの腕の中は心地がいいから。セイランは詮索することは避け、口をつぐんだ。あれだけバランスを崩していたセイランの精神は、すでに自分の足で立とうとしていた。 「さぁ、完全に陽が昇る前に行こう。セイランの可愛い声を聞いた誰かが追っかけて来ちゃうかもしれないしね」 「……声? かわいい……?」  ルピナスに言われて、セイランは首を傾げる。宿を出て以降、声を出した記憶はない。まして、「可愛い」と表されるような声なんて、普段から出しているつもりはない。ルピナスはそんなキョトンとした顔をするセイランを見つめ、くすりと笑む。 「あんなに良い声で鳴いてたのに、忘れたの?」 「え……あ、へ? お、おれ、声、でてた?」 「そりゃもう、餌を求める雛鳥くらい囀ってたよ」  楽し気な笑みを湛えながら、ルピナスはセイランの頬を撫でていく。その頬に、ぶわっと熱が覆っていく。堪えていた、つもりだった。セイランは必死に記憶を遡ろうとするが、途中からただ気持ちが良かったことしか考えていなくて、考えられなくて。声のことなんて、考える余裕もなかった。そういえば、心なしか喉が微かに掠れているようにも感じる。セイランは反射的にばっと身を引いてルピナスから離れ、口に手を当てた。 「いや今押さえても」 「う……、っそ、そんなに出てたのか? 周りに聞こえるほど?」 「……ふふっ、さぁ、どうだろう」 「んん……ごめん、萎えなかったか……?」 「は? 萎えてたらお前さっき何で感じてたの?」  目元に熱を溜めて、真っ赤になったセイランにルピナスはもう一度近づく。セイランの空いた手を取って、ルピナスはセイランの赤紫を覗き込んだ。セイランの表情は、声を堪えきれなかったことに対する申し訳なさからか不安で満ちていた。ルピナスは一言もそれを責めていないというのにも関わらず。ルピナスはそんなセイランの表情に対して、まるで安心させるように穏やかに微笑んだ。 「ボクは好きだよ」 「…………え?」 「セイランのかわいー声。たくさん聞きたいもん」 「す、き……?」  唐突なルピナスの告白に、セイランは目を白黒させる。きょとんとしたまま固まってしまうセイランにルピナスはより身を寄せ、顔と顔を近づける。二人の唇が重なるまで、あとほんの数センチ。という瞬間だった。セイランは再び慌ててルピナスから身を引いて逃げ出す。 「あ、あんたな! 隙を突いて朝っぱらからおっぱじめようったってそうはいかないんだからな!」 「ちっ……、あと少しだったのに」 「それに軽い言葉で言いくるめようったってダメだぞ! そんな言葉、信じないからな!」 「えー? セイランの声が好きなのは本当だよ?」 「っ……、騙されないからな……」  セイランは赤いままの顔を隠すように、びっとルピナスを指差しながら声を荒らげる。一切動揺は隠しきれていなかったが。そんな素直なセイランを眺めながら、ルピナスは余裕そうに向けられた人差し指に、自分の指を絡める。 「本当に好きだよ、セイラン」 「……、ダメだ。そういうのは、あんたにとって大切で、あんたの言葉が必要な人に言うもの、だと思う。おれなんかに軽く言ってたら、もったいないよ」  まるで恋人にでも囁くようなルピナスの声音に対し、セイランは逃げるように身を竦めた。その仕草はルピナスがその先に踏み入ることを拒んでいるように見えた。セイランはそれ以上は何も言わず、マフラーで口元を隠してしまう。  次いで伏せられたセイランの瞳は、言葉通りルピナスの「好き」を冗談と捉えていることを暗に示していた。その瞳に、ルピナスが一瞬だけ見せた表情は映らない。 「そんな顔しないでよー? ボクは声が好きって言っただけなのにいじめてるみたいじゃん。素敵な声なんだから誇りなよ」 「……」 「ん、まぁこんなところで話し込んでても仕方ないか。ほら、行こう? リリィエに行くんでしょ?」 「……うん」  ルピナスは俯いたままのセイランの手を取り首を傾げる。それに対してセイランが頷いたのを確認すると、「よし!」と笑いかけ半ば強引にその手を引く。セイランはそんなルピナスの手を振り払うことはなく、静かに歩幅を合わせて後を追いかけた。  昇り始めた太陽が、明るい空色を描き出している。二人はまるでそんな光から隠れるように、陽の光の届かない森の中へと向かっていった。

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