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第73話

 光のない赤紫は、虚ろにルピナスを見つめている。そこにはすでに、『セイラン』はいなかった。セイランの姿をした、意思なき傀儡。感情を持たない、ただ死んでいないだけの存在。術者の指示だけを聞く人形。そんなことを認められるはずがなかった。  気づけば、走り出していた。本当に傀儡術を使っていたのだとしても、まだ術をかけられてそんなに時間は経っていないはず。術が身体に浸透しないうちに、セイランを呼び戻せば、心を取り戻せば、術は解けるかもしれない。確証がないことだとしても、ルピナスはもうそう信じるしかなかった。  ストリキの前に立っていたセイランに駆け寄ったルピナスは、セイランの両頬を包み込み光のない目を覗き込む。背伸びをして出来る限り視線の高さを揃えて、強引に目を合わせる。まるでガラス玉のようなセイランの目に映るのは、今にも泣きだしそうなほど歪んだルピナスの弱弱しい表情だった。 「セイラン? セイラン、ボクだよ? ねぇ、わかるでしょ?」  セイランの瞳は暗いまま。 「ほら、呼んでよ。お前の優しい声で、ボクのこと呼んでよ……」  セイランの口は動かず黙ったまま。 「いつか、いっしょに逃げよって……、約束したでしょ……? ねぇ、セイラン……」  次第にルピナスの語尾が弱まっていく。いつの日か、二人が大きくなった時。共にこんな場所から抜け出して、二人で逃げ出そうと、二人で広い世界を見に行こうと、約束した。その約束を覚えているのは、ルピナスだけ。それでもルピナスはその約束を果たすことを願った。それは幼い日のセイランが、確かに望んだことだから。セイランがすべてを忘れてしまっても、思い出せなかったとしても、自分が覚えているから。その願いを、叶えるから。  これまでただその一身で生きてきたのに。どうにかしてストリキの先天術からセイランを解放できないか調べたり、何度もセイランに忘れられても最初からの関係を築いたり。ただ、セイランと共に生きるために、必死だったのに。 「せい、らん……」  この手では、救えないのか。ルピナスの前にあるのは、残酷な現実。自分も、彼も、結局この男の道具として使われて、捨てられるのか。 「何を泣いている。これの治癒術と、お前のマインドコントロール。最強の魔力と天力、この二つがあれば我らラピュアの魔法使いに敵うものなどいない。ゆくゆくは隣国のみならず、世界を手中に収められるだろう。そうなれば、お前は全土統一者の子となれるのだぞ」  ルピナスは静かにセイランの頬から手を放す。セイランは遠くを見つめたまま、ルピナスを追うことはしなかった。頭が熱い。瞼が熱い。世界で一番大嫌いな声がする。聞くだけで不快になる、畜生の声。 「安心しろ。戦争が終わった暁には、それはお前の傀儡にしてやろう。大層気に入っているようだしな。あの鳴き方もお前が教えたのか? あぁそうだ。抱かれるときだけは鳴くようにこの傀儡に教えておいてやろう。よいものだったぞ、泣き喚いて助けを求める顔は」 「……ふざけるな」  笑い交じりのふざけた声。セイランの大腿を伝っていた赤い雫が、はたと床に落ちる。呼吸が苦しくなる。ルピナスにはもはや、自分が今どんな表情をしているのかさえ分からなくなっていた。ただ、体内に全てが煮えたぎっているような熱を感じる。 「ふざけるなふざけるなふざけるなァッ! セイランに何をしたッ!」  激しい怒りが、全身の血を沸かせていた。ルピナスが手のひらが鋭い風の針をストリキに向けて放つと同時に、ルピナスの背後を白が駆け抜ける。それはルピナスの攻撃をきっかけにあの白い生物が飛び出した残像だった。針はストリキを串刺しにするように同時に一点に向かっていく。それに合わせて青白い光の玉が空を駆け抜けストリキへ向かう。 「何かと思えば、あれは天恵物か? 面白い」  ストリキは二方向から迫る攻撃に対し、余裕の表情を浮かべる。ストリキは一瞬で凄まじい強風を起こし、まずルピナスの風の針をかき消す。そしてその強風をそのままその場で回転させ竜巻を作り出すと光の玉を飲む込み、あらぬ方向へと吹き飛ばした。竜巻はそのまま勢いを増し、ルピナスに迫る。逃げようとしたルピナスの目に、ストリキの方へと近づいてくセイランの姿が止まってしまう。それによって判断が遅れたルピナスの体が竜巻へと引き寄せられる。体が浮き上がる直前、間一髪のところでルピナスのローブを何かが掴む。それはそのままルピナスを連れて竜巻から距離を取った。 「アゥゥ……」 「あぁ、ごめん。集中しろって言いたいんだよね」  白い毛並みをなびかせながらルピナスをぽとっと落としたその生物は、前を見据えたまま何か文句を言う。ルピナスは頬を濡らしていた涙をぐいと拭いて、改めて前を見据える。ルピナスたちが離れたと見ると、ストリキはその竜巻を消滅させた。それからストリキは側に来たセイランを見る。 「おい、治せ」  ストリキが指差したのは吹き飛ばしきれなかった一本の針が裂いた頬の傷だった。セイランはその言葉に対して初めて反応を示す。ぺたぺたと歩いてストリキに身を寄せたセイランは、その傷に向かって手を翳す。その手が傷を撫でるようになぞっていく。その手が通り抜けると共に、頬の傷は跡形もなく消えていった。 「セイラン……」  セイランはそれきりまたストリキの傍らで動かなくなった。隣からは敵意をむき出しにした唸り声が聞こえる。ルピナスが攻撃を仕掛ければ、また上手く合わせてくれるだろう。  ……だが、それでどうする。  微かに冷静さを取り戻したルピナスの頭の中でそんな疑問が生じる。怒りに任せてストリキを攻撃した。だが、ストリキを倒してどうなる。恐らく、ストリキを殺せば傀儡術は解けるだろう。そうだとしても、それでいいのだろうか。傀儡術が解けたところで、壊れたセイランの心は返らない。それではなだめだ。ルピナスが求めているのは、ただセイランの傀儡術が解けることだけではない。  本当の望みは、セイランがまた笑ってくれること。あの頃と同じ、少しだけくすぐったそうな優しくて儚げな笑顔。そんなセイランに、また会いたいだけだ。 「いい機会だ。魔法が順調に成長しているか見てやろう」 「っ!」  ストリキが低く笑ったかと思うと、炎の熱と風を絡めた熱波がルピナスを襲う。呼吸が出来なくなるほどの熱にルピナスは息を詰まらせるが、目の前から蛇の形状の炎が迫ることに気付き咄嗟の水の壁を作り出し蛇を防ぐ。ルピナスはその水の壁を急速に冷やし氷の壁にすると、それを衝撃波で砕き風を纏わせ細氷を作りストリキへ向け放つが、ストリキはそれを一閃の炎で溶かしてしまう。

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