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最終話
「幸せになりなさい」
「……?」
「母親の分まで、幸せになりなさい。そしてセイランくんにも、その幸せを共有しなさい。……いつでも帰って来なさい。ただし、セイランくんが幸せを理解するまで帰ってこないこと。約束、できますか?」
「……はい」
ミハネの真剣な目を見つめていたルピナスは、素直に頷いた。それを見ると、ミハネはいつものように優しく柔らかく微笑む。それからキョトンとしていたセイランに向けて笑いかけた。笑顔の意味が分からないセイランは不思議そうに首を傾ける。
「さぁ、もう行きなさい」
「うん。……十八年、ありがとう。ミハネ」
「……ミハネさん」
「はい、なんでしょう。セイランくん」
「あ……、いや……、やっぱり止めときます」
「えぇっ!」
自ら声をかけたセイランだったが、向けられた温かな表情に戸惑い、ふいっと視線を逸らす。するとミハネは思わぬ撤回に声をあげる。ルピナスは隣でくすくす笑っていた。「言ってください!」「今度にします」の応酬を繰り広げる二人を眺めながら、ルピナスはわずかに目を細める。ルピナスには、なんとなくセイランが言いたかったことが分かっていた。だって、セイランは、あの人によく似ていたから。見た目とかの話ではなくて、その性格、雰囲気が。だからミハネは、あんな風に接していたのだ。
「フゥン……」
「ごめんなさい! ミュウ待たせてるから、また今度!」
「えぇ、私次まで待たされるんです!? 坊ちゃん! さっさとセイランくんに幸せを教えて帰ってきてくださいね!」
「ガンバリマース」
セイランは逃げるように先頭で待っていたミュゲの方へと走っていく。ミハネもあんなに格好つけていたのに、結局最後まで締まらない。この方がミハネらしいけれど。ルピナスは最後にもう一度、ミハネと視線を合わせると、深々と頭を下げた。それからミハネに背を向けて、セイランとミュゲの元に駆け足で向かって行く。
夜明けの快晴の下、一歩を踏み出した二人を王都から吹く風が後押ししている。まるで旅の祝福を願うように。高い空を見上げるセイランの瞳は、晴れやかだった。その瞳に、ルピナスは確かに天使を見る。
「……痩せたいなぁ」
「そっかぁ……、は?」
あまりにも旅立った後の第一声にふさわしくない言葉が隣から聞こえてきて、ルピナスは思わず気の抜けた声を出す。誰がどう見てもセイランが太っているなんて言わないだろう。それをなぜ今、この時に、そんな言葉が出たのか。
「えーーーーっと、なんで?」
「あ、ちがっ、声に出すつもりなかったっ!」
ルピナスが自分の方を見ていると気付いたセイランは、自分が考えていることを音にしてしまったと察して顔を真っ赤にして逃げるように野原に向かって走り出した。
「ちょっと! どういう意味か言うまで逃がさないよ!」
「うぁぁッ! 魔法はずるいぞ!」
「きゅっ!?」
ルピナスは駆け抜けていくセイランの足元の土地を隆起させ、足場を乱す。急に走り出した二人を追ってミュゲも走り出す。どんなにセイランの運動神経がいいと言っても、ぐらぐらと揺れる地面が延々続けばいつかはバランスを崩す。数メートルの追いかけっこの果てに、セイランはついに躓き倒れ込んだ。
「捕まえたっ! ほぉら言わないとお腹触っちゃうよ!」
「んんんん…………」
ルピナスは倒れたセイランの上に座り、唇を尖らせて頬を膨らませた。セイランは横目にルピナスを一目見た後、諦めたようにため息をついた。
「だってルピナスは、真っ白で、無垢で、細い指先に透き通った肌を持った柔らかい赤毛を揺らした儚げな子どもだったおれが好きだったんだろ? おれ、そんなに肌白くないし、剣握ってたせいで手は厚いし、ちゃんと切ってなかったから髪型適当だし、儚くない……」
「セイランは儚いよッ!」
「はい?」
頬を赤く染めながらぽつぽつと呟くセイランの言葉をルピナスが勢いよく遮る。
「確かにセイランはとっても頼りがいのあるカッコいい体つきかもしれない。でもボクはそんなセイランが好きなの。ボクがあの森でお前になんて言ったか忘れたの?」
言われてセイランは記憶を遡る。正直記憶はまだ安定していない。どの記憶が何回目のルピナスなのか分からなくなることが多々ある。だが、一番最後のルピナスのことだけは鮮明に覚えている。森、一番最後の「はじめまして」の場所。
「悪趣味って、言われないか?」
「あはは、セイランにそれ言われるの二十一回目! でも好きなんだもん、ボクよりもちょっとだけ大きい手で、背が高くて、それなのにボクよりも優しい背中。そんなセイランのことが、好きなんだ。あの時は少し曖昧な言い方したけど、ボクは好きなのはセイランだけだし、犯したいのもぐちゃぐちゃにしたいのもセイラ」
「もういいもういい! そういうところを悪趣味って言ったんだぞ!」
「二十二回目だ。こんな短時間に二度言われたのは初めてだよ」
「んんん、……あと五百回は言えるぞ」
照れて真っ赤になるセイランを、ルピナスは愛おし気に見つめる。そんな二人を早朝の健やかな風が撫でていく。風でなびくミュゲの白糸が美しい。
――あぁ、一人じゃない。
視線の向こうで揺れる白を眺めながら、セイランは幸せそうに眺めると、ゆっくりと口を開いた。
「なぁ、ルピナス」
「うん?」
「ルピナス、あの時言ったよな。本当は記憶を思い出さない方が良かったんじゃないか、こんなもの思い出したくなかったんじゃないか、って」
「……うん」
「あの時は分からないって言ったけど、やっぱり、さ。思い出せて良かったよ」
セイランはルピナスに笑顔を向ける。その笑顔に後悔は見られない。ルピナスが思案していた不安定さはどこにも見られなかった。
十年間、ずっと気になっていた。時折夢の中に現れた知らない声。優しい手。「セイラン」と呼んでくれる幼い声。この名前をつけてくれたのはこの人なのか、魔法を使えない自分を捨てたのはこの人なのか。その答えを、思い出すことが出来た。
温かなあの日の記憶。それが今、ここにある。
白髪に桃色の瞳を宿した可愛らしい顔立ちの少年が微笑む。
「お前の名前は、セイランだ!」
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