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第6話
戸惑いながらも頭の中を整理しようとしていたその時、急に話し声が近づいてきたかと思うと、ヨーロッパ系らしき数人の男女が部屋に入ってきた。彼らは室内を見回しながら「なにか違う」というように互いに顔を見合わせている。
男性のひとりが歩に向かってイタリア訛りの英語で「すみません」と声をかけてきた。聞けば、迷子になってしまったらしい。フロアマップを広げながら目的地への行き方を説明してやると、彼らは何度も礼を言いながら展示室を出ていった。
よくあることだ。仕事でも案内を頼まれるし、こうも展示室が多いとわからなくもなるだろう。驚いたのは、彼らがミハイルに一瞥もくれなかったということだ。歩のすぐ横に立っていたにもかかわらず、まるで透明人間のように扱われた。
「ほんとう、だったんだ……」
誰の目にも映らない、自分にしか見えない存在。
ミハイルは落ち着いた様子で「言ったとおりだったろう」と微笑んでいる。それを見て愕然とした。彼にはこれが当たり前なのだ。たくさんの人に囲まれながらたったひとりで生きる世界が。
ツキン、と胸が痛んだ。
「そんなことして……ぼくがここに来る保証なんてなかったのに。もし会えなかったら、あなたは一生ひとりぼっちだったかもしれないのに」
「そうだな。だが、そのために祈りを捧げる時間も私にはしあわせなものだったよ。いつおまえに会えるだろうかと、そんなことを考えながらな」
ミハイルがおだやかな声で語る。それほどに彼はかつての恋人を待っていたのだ。時を超えて、また生まれ変わってくることを。
「そうだったんですね。それなのに……覚えてなくてごめんなさい」
「どうした。なぜ謝る」
「だって、ほんとうはレナートさんに会いたいでしょう? しあわせになれなかった分、これからやり直したかったでしょう?」
「アユム」
名を呼ばれると同時に、両方の肩に手を置かれた。
「おまえをレナートの代わりにするつもりはない。もしそう聞こえたのなら私の言い方が悪かった。すまない」
「ミハイル様」
「私は、レナートの魂を継いだアユム、おまえに会えてうれしいのだ。昔のことを覚えていようがいまいが関係なく、おまえがここにいてくれることがなにより尊い。だから謝らないでくれ。おまえの負担にだけはなりたくない」
まっすぐに見下ろされ、至近距離で見つめ合う。なんだか気恥ずかしくなって俯くと、確かめるようにもう一度「アユム」と名を呼ばれた。
「おまえは心やさしい青年だ。私の話に耳を傾け、存在を否定せずに受け入れてくれた。良い環境で生まれ育ったのだな。……長い間思いを馳せていたのだ。どんなところで生を受け、どんなふうに育っているのだろうかと。今のおまえを見て安心した」
慈しむような微笑みに、自然と気持ちが解れていく。
「ぼくが生まれたのは日本です。ぜひミハイル様もいらしてみてください。四季があって良いところですよ」
「そう…、だな。そうしたいのは山々だが、私は宮殿からは出られない。不可視となる代償としてここに永遠に縛られることを選んだ」
「そんな」
「すべて自分で決めたことだ。私は後悔していない。こうしておまえに会えたのだから」
大きな手でやさしく頬を包まれる。はじめて会った人なのに、しかも相手は同性なのに、不思議とそれを嫌とは思わなかった。
「もしも我儘が許されるなら、明日もここに来てくれないか。いや、明日だけと言わず、毎日訪ねてきてほしい。そして朝から夜までできるだけ一緒に過ごしたい。……嫌か?」
ミハイルがどこか不安げに瞳を揺らす。
さっきまであんなに堂々としていたのに、返事を待つ彼はひとりぼっちの子供のようだ。これまでの事情を思えば無理もなかった。
この再会に彼は賭けていたのだ。それがようやく叶ってもなお、我を通すのではなく、歩の意向を確かめてくれるところにミハイルの人柄が現れている。
歩はまっすぐにペールブルーの目を見上げると、「よろこんで」と笑顔で応えた。
「旅行中は毎日通うつもりでチケットも取ってありますから」
「ほんとうか!」
その瞬間、ミハイルは花が咲いたようにパッと顔を輝かせる。
「そうか。これからは毎日おまえに会えるのだな。なんとしあわせなことだろう」
「そんなによろこんでもらえると、ぼくもなんだかうれしいです」
「ありがとう、アユム。今日はほんとうにすばらしい日だ」
満面の笑みを浮かべた後も、ミハイルは何度も「良かった」「うれしい」をくり返した。
不死の生きものと言いながら、話していると普通の人間そのものだ。なにより彼はよく笑う。とろけそうに甘い眼差しを向けられると落ち着かない気分にはなるのだけれど。
───でも、いい人なんだろうな。
そんな彼、もとい、元皇帝陛下と美術館巡りができるなんてなんだかおもしろそうだ。
「明日から楽しみですね、ミハイル様」
「あぁ。夢のようだな」
ミハイルの眼差しから蜜が滴る。
不思議な存在と巡り合わせに運命を感じながら、歩はこれからの日々に思いを馳せた。
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