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前編

 魔女の名を国じゅうに響かせる母の元には、隣国の商人までも噂を聞いて訪れた。頭痛を治める薬、不眠に効く薬、白髪に色を蘇らせる薬。誰もが魔女の薬を欲しがった。  魔女には三人の娘がいた。長女は母の跡継ぎと目され、次女は美貌を買われて大臣の甥の妻となった。身体の弱かった三女は、魔女たちの心を込めた薬によって十六まで生きて、今は工房の裏の、愛らしい野ばらに囲まれた小さな墓石の下に眠っている。 「心配することはないわ」  母の力強くも優しい抱擁が解け、穏やかな春風が二人の間を吹き抜ける 「侯爵は良い方よ」  皺の増えた硬い手のひらに頬を撫でられ、ルトラウデは小さく微笑んだ。 「手紙を書きます……侯爵は許してくださる?」 「もちろん。あの方は、とても良い方なの」  西隣の国境の山脈一体を治める侯爵は、母の古い友人だった。二人の間にはとある盟約があり、それは、ルトラウデの人生そのものでもあった。  三番目の子供を妻に。  腰まである髪を切り落とし、母と、二人の姉と、墓石の下に寄せた。  ルトラウデは西の国境の侯爵と、結婚するのだ。  西へ向かうキャラバンに混じり旅をし、麓で彼らと別れた。  細い山道を荷車に乗って上るうちに、やがて、石畳も途絶える。  御者を務めた宿屋の主人は朴訥な老人で、荷車を引く無愛想なロバとそっくりな顔をしていた。生まれて初めて見る、雲に近い高さからの景色。山道の脇に咲く様々な花が、心を和ませてくれた。  やがて屋敷の門が見える。屋敷は思い描いていたよりずっと小さく、ハーブの咲き誇る庭はまるで生まれ育った家のような趣だった。 「お嬢様、あたしはここで。都じゃ悪い噂もあるようだが、あたしらにとっては良い領主様ですよ」  気遣わしげに言う老人の手を借りて荷車を降り、途中で摘んだ白菊をリボンで束ねたブーケを贈った。彼は少し驚いたように、次に嬉しそうに笑って、ブーケを持った手を振りながらゆっくりと来た道を戻って行った。  西の国境の侯爵は、百年生きる魔術師である。いや二百年生きる彼こそが魔の物である。城下に暮らしていれば一度は聞かされる噂話も、ルトラウデにとっては意味が違った。  山間の冷たい風が、帽子のつばを煽る。背の高いカモミールを一斉に揺らし、告げるのは、この屋敷の――この山の主の気配だ。  彼は深い藍で織られたローブを頭から被っていた。 「ルトラウデ、よく来たね」  呻るように低い声は、しかし、恐ろしくはない。  フードの隙間からこぼれる髪は、よく晴れた秋に見る枯葉のような色だった。 「私はコンラート。今日からきみの夫だ」  胸に手をやり、片脚を軽く後ろへ引く、紳士の礼。  ルトラウデもまた、スカートの裾を持ち上げて腰を沈めた。 「もう少し、顔を見せてくれるかい?」  震える手で帽子のリボンを解き、胸に抱く。 「ああ、ヴェロニアによく似ているね」  三人の中でルトラウデが最も母似であることは、誰もが頷くところだろう。こくりと顎を引くと、侯爵はフードの中で笑った。 「何か喋ってはくれないだろうか」  背筋が強張ったかもしれない。 「会う前からきみに嫌われていたとしても、不思議はないがね」  苦笑まじりに言われて、ルトラウデは大きくかぶりを振った。一度、二度、小さく息を吸って、擦れた声を出す。 「侯爵さま、はじめまして……ご無礼をお許しください……」  心配するなと母は言った。侯爵は良い方だと。  それでも。十四の時に、まずは身体が変わった。それから、ひどい風邪のように喉が痛み始め、それが治る頃には透き通った声を失った。伸びた手足、喉の真ん中に尖って突き出した小さな骨。 「ぼく、あの、こんな……ごめんなさい……」  魔女の三番目の子供は、男児だった。  盟約の婚姻は、果たしてこの身で足りるのか。これが、人間どうしの口約束などではないことくらい、魔女の子供であればわかる。この世ならざるものの棲む世界の話だ。もし、違反の咎が母や姉たちに及ぶことがあれば、この世に生まれた意味など、どれほどかあるだろう。  押し殺していた不安が堪えきれずに溢れ、涙となって落ちる。 「ルトラウデ」  大きな影が差す。  肩をそっと撫でるのがローブ越しのコンラートの手のひらである気づき、顔を上げると、枯葉色の髪の奥に、穏やかな光を湛える青い瞳があった。 「優しい子だ。生まれてくるきみが男の子だということは、私も、ヴェロニアも承知だったのだよ。あの時のことはいつか、私の口からきちんときみに話そう。約束だ」  驚いて瞬くと、また、ぽろりと涙が落ちる。  コンラートはそれをローブで優しく拭うと、淑女にそうするように、慎重にルトラウデの背中を押して言った。 「さあ中へ。お茶を淹れるよ」  西の国境の侯爵の屋敷には、宝石を散りばめた調度品や、世にも珍しい渡来の品などはなかった。よく磨かれた家具、使い込まれて柔らかく光る食器、丁寧に織られた絨毯、どれもが豪奢さとは無縁な温さで、ルトラウデを安心させる。  ばさり、背後で重い音がする。 「今度は私が、少しばかりきみを驚かせるかもしれないが……」  振り返ると、そこには赤毛の獅子が立っていた。  ローブを脱いだ侯爵は、美しい獅子だった。顔も、服から出た手も、毛並に覆われている。鼻先から口元の流麗な曲線、宝石のように輝く青い瞳、そして、枯葉色のたてがみ。 「侯爵さま」 「コンラートと」 「コンラート、さま」 「恐ろしいか?」 「いいえ、とてもきれいです」  家々がこぞって刻んだ紋章など霞むほどの、雄々しい姿。心から賞賛すると、彼は口元に手をやって小さく笑った。 「カモミールは好きかい?」 「はい」 「では、カモミールティーにしよう。さあ、座って」 「あの。僕がお茶を淹れたらいけませんか?」 「きみは賓客だ」 「いいえ、今日、あなたと結婚しました」  数少ない取り柄の一つが、お茶の腕前だった。信頼を勝ち取りたい一心で言ったせりふが、ふふ、とコンラートを笑わせる。 「嬉しいことを言う」  言葉通り嬉しそうな口ぶりに、遅れて熱くなる頬を隠す術はなく、ルトラウデは両手で頬を押さえた。  母譲りのカモミールティーに、コンラートは何度も感嘆した。ルトラウデはといえば、この日のために作らせたという、干し無花果を混ぜたビスケットにたっぷりクリームをのせた菓子に、涙を浮かべるほど感激して彼を笑わせた。 「メイドたちもきみを気に入るだろうな」 「お屋敷の皆さまは、今どちらに?」 「新婚の邪魔になると、揃って暇を取っている」 「ほんとうに?」  狼狽えたルトラウデに、うん、とも、ううん、とも言わず、肩を竦める。 「それに、皆、というほどの数ではないんだよ。使用人は三人、ほかは私の仕事さ。こんな姿だからというのもあるが、まあ、きみが思うよりずっと暇な暮らしだ。きっと退屈するだろうが、許してくれ」 「そんなこと……素敵な庭とお屋敷と、きっと、素敵な方々なんでしょう?」  青い瞳が穏やかに光る。それが答えなのだろう。 「ああ。きっと、きみも気に入るよ」

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