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後編

 二階に用意されたルトラウデの部屋には、物書き机と大きな本棚、それに脚付きの美しい寝台がしつらえてあった。さらには、一週間の長旅を労うコンラートが手ずからたらいに湯を張り、リンデンとカモミールのチンキを溶いてくれる。足を浸すとじわりと温かく、立ち昇る湯気に乗って甘く爽やかな香りが漂い、心までほぐれるようだった。コンラートは枯葉色の毛に覆われた大きな手でルトラウデの髪を羽根のように軽く撫で、 「今日はゆっくりお休み」  そう言い置いて部屋を出ていった。  目を閉じて、遠のく足音に耳を澄ませる。やがてそれも消えてしまうと、ルトラウデはほっとため息を吐いた。  キャラバンに混じって過ごした夜は、どこか冒険のようで心浮き立つものがあった。時々はもう帰れない家のことを思って泣いたりもしたが、陽気な歌や踊りが気持ちを明るくしてくれた。今夜からの自分は、一体、何を思って過ごすのだろうか。  湯が冷めるまで浸していた足を、真新しい布で拭き、荷解きを始める。この屋敷へ持ち込んだ荷物は少なく、母から譲り受けた数冊の本とレシピ、姉からもらった櫛とナイフ、一番底には白い寝巻がたたんである。  よそ行きの服を脱いで、身体を拭いて、その白い寝巻に初めて腕を通す。身体を包むきめの細かい生地は、ひんやりと冷たい。髪を梳かす時の、一房の短い手触りにもやっと慣れてきた。透けるほど薄い金色の髪を、姉たちはよく褒めてくれたものだ。水差しの水でうがいをし、一度はランプを持って扉を開けたが、廊下にも淡い明かりが灯っているのを見て、ランプを置いて部屋を出た。  ひたひたと石の廊下を歩き、隣室の扉をノックする。  ややあって、どうぞ、とくぐもった返事が聞こえ、ルトラウデは重い扉をゆっくりと開けた。 「どうした?」  寝台の上で本を読んでいたコンラートは、片手でそれを閉じると、投げ出していた脚を下ろした。 「眠れないのかい?」  ルトラウデを隣に座らせ、穏やかに顔を覗き込んでくる。その優しい瞳が昼間と異なることに気付き、思わず手が伸びる。明け方の空のように深い青は、今、鮮血より澄んだ艶めかしい赤だった。 「コンラートさま、瞳が……」 「ああ。私の目はね、太陽の光では青く、ランプの炎では赤く見えるんだ」 「……ほんとうに宝石みたい」 「気味悪くはない?」 「なぜ?とてもきれいです」  ガウンの肩に手をかけ、顔を近づけると、コンラートはふいと顔を背けてしまう。 「眠れないのならミルクを温めよう」 「いいえ、コンラートさま」  声が擦れた。 「ぼくを、あなたの妻に……」  少女と聞き違えることのできないこの声では、甘く響かないだろうか。腕に縋りつくルトラウデを彼は無下にこそしなかったが、抱き返してもこなかった。 「無理をするものじゃない。この先、きみにとってあまりに長い時間、一緒にいることになるのだから」  この世に生まれ落ちる前から決まっていた夫。  彼には、ルトラウデの不安は理解できないのかもしれない。  コンラートの手を取り、自ら寝巻の下へ導く。毛並に覆われた大きな手が内腿へ触れ、身体が震える。下着をつけていないことに気づいたのだろう、その手は弾かれたように遠ざかってしまう。彼がかすかに触れたのは、突き出した男のしるしだった。 「ぼくが、こんな身体だから……」 「そうではないよ」 「じゃあ」 「きみはまだ子供だ」 「あなたの妻です」 「ルトラウデ」 「あなたが、ぼくを、ここへ連れ去ったくせに」  十六でうつし世を去る運命を慰めることができるのは、会ったこともない夫だけだった。コンラートは枯葉色のたてがみを振ると、広い胸にルトラウデを引き寄せる。柔らかく温かい毛並に零れかけた涙が吸い込まれ、また溢れた。 「ごめんなさい、ひどいことを言って……」 「構わないよ。ルト、と呼んでも?」 「……はい」 「ルト、私に口付けを」  漆黒の鼻先が寄せられ、長い髭が頬をくすぐる。  開いた口から鋭い牙を覗かせ、生暖かい息でルトラウデを総毛立たせると、舌でべろりと唇を舐める。宙に浮いたと思った瞬間にはコンラートの膝の上に抱え上げられ、ルトラウデは夢中で彼に口付けた。  ぐるる、獣じみた唸り声が悦びの証だとわかり、それに誘われて牙を舐める。頭ごと呑み込まれてしまうような口付けになった。  吐息が混じり、髪が絡む。長い長い口付けが終わる頃には、ルトラウデは溺れる寸前のように激しく喘ぎ、寝巻の中で燃える身体が恐ろしく、わけもわからずむせび泣いていた。 「メイドたちが戻ったら、結婚式を挙げよう。他には誰も呼べないが、きみは祝福されるべき花嫁だ」  毛並に覆われた大きな手が、ルトラウデの髪を優しく撫でている。地鳴りのように低い声も、今は子守唄のように心地よい。うとうとと落ちる目蓋の隙間から、赤い宝石の瞳を見つめる。 「ルト――私の愛しい妻。今度こそ、ゆっくりお休み」  ルトラウデはうっとりと、夢のみぎわへ滑り落ちていった。

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