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第18話 追憶 5

   夢から覚めた時には、日は既に暮れかけていた。吹雪は止んだのか、何も聞こえはしない。  部屋の中はしんと静まり返り、私はずっと眠っていたのだと侍従が教えてくれる。  彼は私の言葉を守り、二人の宮中伯の取り次ぎを一切拒んでいた。  心にはもう、何も残ってなかった。  幼い日の温かな思い出も、明日を信じて励んだ日々も。  雪と氷に囲まれて暮らす今、全てが心の奥に沈んでいく。  見るともなしに見た小卓の上には、何もない。薔薇の残り香すらも、感じられはしなかった。 「ヴァンテルと二人だけで、話がしたい」  侍従に言付(ことづ)けを頼んだ。夜の(とばり)が下りようとしていた。  ヴァンテルは所領にある屋敷に向かわず、凍宮に滞在したままだった。  応接室で待っていると、私の顔を見るなり、眉を(ひそ)める。 「⋯⋯今日は、何か少しでもお召し上がりになりましたか」 「ずっと寝ていたから、特に空腹を感じなかった。最近はしっかり食べていたから問題ない」 「お待ちください。マルクに、すぐに何か用意させます」 「⋯⋯いらぬ。必要ない」  侍従を呼ぼうとするのを引き止めた。  ヴァンテルが急に立ち上がって、つかつかと目の前まで歩いてくる。  いきなり私の手首をつかみ、吐き捨てるように言った。 「こんな細い腕で、何を仰るのです! 確かにここに到着された時よりは、多少ましになっている。ですが、これではまたすぐに、お倒れになるでしょう。レーフェルトの冬は、これからますます厳しくなるのです」 「⋯⋯このままでは、耐えられないと?」 「そうです。無理をされてでも召し上がらなければ、体に力をつけることはできません」 「⋯⋯意味がないではないか」 「意味?」 「そうまでして、この命を繋いで何になる?誰にも、何も求められてはいないのに」  ヴァンテルの瞳が大きく見開かれた。  心に轟轟(ごうごう)と風が吹く。一面の白に埋まる世界だ。広大な大地に上も下もわからぬほどに、雪が降り積もる。 「小宮殿にいた時と何も変わらない。籠を移ったところで、飛べない鳥は飛べないままだ。息も絶え絶えの鳥を、いつまでも飼っていて何になる」  ヴァンテルが何か言おうとしたが、その言葉を遮った。 「お前は確かに言った。今までと変わりない生活を与えると。お前の言うに、私が王太子だった日々はない」  凍宮での日々は、幼い子どもの時と同じ。与えられ受けとるばかりの日々。 「⋯⋯期待など、見せなければよかったのに」  堤から溢れる水のように、押し殺した想いが声になる。 「人に求められ、応える喜びなど、教えなければよかったのに」  兄が亡くなって東の宮殿に移された時。  応接室で待っていたのは、お前とライエンだった。 「私たちがお助けします。どんなお気持ちも迷わずお話しください。殿下の御為に身命を尽くしましょう」  兄の死を受け止めるだけで精一杯だった。王太子という言葉が、虚ろに耳に響く。所在なく項垂れる私の手を取って、お前は言った。 「貴方なら、お出来になります、アルベルト殿下。どうぞ私たちを信じて、共に歩むことをお許しください」  生まれて初めて、人に求められることがあるのだと知った。  共に歩いてくれる者がいるのだと思った。  それは瞬く間に、生きるための灯火になった。 「知っていたか、ヴァンテル。東の宮殿で、お前たちに王太子として迎えられるまで。私は人に何かを求められたことなど、なかったのだ」  深い青の瞳の中に、激しい動揺が浮かぶ。  ただ息をしているだけの私に。  お前の差し出した期待と信頼は、劇薬だった。  ──さびしい。  ──寂しい。  ──さびしい。  ごうごうと、ただ雪の舞う大地に立ち尽くす。  胸の中に吹く風は、子どもの時よりも激しくなり、世界を白く塗りつぶす。  この気持ちの名前など、知らなければよかった。  

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