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第26話 寂寥 3

「殿下。お別れです」  侍従は、私の目を見てはっきりと言った。そして、踵を返し、まっすぐに馬車に向かって走った。  一陣の風が吹き、雪が舞い上がる。  細かい羽毛が舞うように、視界が一面の白に染まる。目を開けた時、馬車は雪の中を滑るように走り出していた。  待てと叫ぶ気持ちも、追いかける気持ちも起こらなかった。馬車は見る間に点のようになり、視界から消え失せる。  後ろから、鳥たちの羽ばたきが聞こえた。  振り返れば、銀色に輝く湖があった。  天からの光が、湖面に立つ細波(さざなみ)に溢れんばかりに注がれている。  何かに惹きつけられるように、私は湖に向かって一歩一歩進んだ。  舞い降りる鳥たちの中に、体が幾分小さいものがいた。懸命に羽を動かし、湖に降り立つ。群れの中に入ると、他の鳥たちの中で羽を休めていた。小さな体躯に寄り添う他の鳥たちから、目が離せなかった。  ──いつか必ず、帰るから。  鳥たちは毎年帰ってくるのに、自分の村はない。  彼は、どんな思いで私をここに連れてきたのだろう。  見つめていた鳥たちの姿が、不意に滲んだ。ゆらゆらと歪んで、形を捉えられなくなる。  頬にいくつも熱いものがこぼれていく。  生きている意味とは、何だろう。  懸命に生きていた者たちの生活を、命を奪って。  ただ日々を穏やかに過ごしていた者たちの幸せを、踏みにじって。  そうまでして、生き長らえる意味とは何だろう。  見渡す限り、周囲には人影も馬車の姿もなかった。  侍従が言ったヴァンテルの誘いは、全て偽りだった。考えてみれば、おかしな点はいくつもあったのだ。私は深く考えることを拒んで、迂闊(うかつ)にもここまで来てしまった。  雪の上に、輝く羽が落ちていた。手に取れば、羽についた雪の粒が朝露のように光る。  この羽をもつ鳥たちを見たくて湖に来た。  鳥たちはあんなにも美しいのに、雪の下には哀しみがある。  小さく息をつけば、体は雪の上に佇む間に冷え切っていた。巻きつけられた毛皮があっても、この体は外で夜を越えられはしないだろう。  侍従が直接手を下すまでもなく、彼の愛した土地で最期を迎えるのだ。そう思うと、ほんの少しだけ心が安らいだ。  わずかなりと、彼の気は済んだだろうか。  離宮に来てからずっと、側にいてくれた。  知らなかったとはいえ、今日まで彼の一族の蜜のおかげで命を繋いできたのだ。  この命一つで(あがな)えるものではなく、許してほしいとは言えない。ただ、別れを告げた彼に、一言なりと詫びることが出来たらよかった。  すまなかった⋯⋯と。  少しずつ感覚を失くしていく体に、疲れと眠気が忍び寄る。  雪の上から移動して、ほんの少しでも体温を保ちたいと思ったのは、本能なのだろうか。  立ち上がって、よろよろと湖を囲む森に向かった。大きく枝を張った木々の中でも、根元が窪みのようになった大樹に座り込む。そこは、雪で覆われてはいなかった。太い幹に背中を預けると、山間に陽が落ちようとしているのが見えた。  目の端には、湖で寄り添い合う鳥たちの羽が光る。彼らは、足を一本ずつ浅瀬につきながら、眠りにつこうとしていた。  心に浮かんだ名前を、そっとつぶやいた。今ならば、何を気にすることもなく口にできる。  ──クリス  忘れたいのに、忘れられない。  その名を繰り返しながら、目を閉じた。

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