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第29話 薄明 2

「それは⋯⋯!」  男が持っていたのは、昼食の入った籠だった。  料理人のマルクは普段から小食な私の為に、様々なものを詰め込んでくれていた。籠の中身は、食べきれずに大半が残っている。 「雪の中に、ぽんと籠が落ちているのも変な話だ。しかも、中には葡萄酒やら、鴨の燻製やら、驚くようなものが入っている。そのうち、匂いを嗅いでいたこいつが、食いもせずに森に向かって走り出した」  男が頭を撫でると、犬は鼻を鳴らす。 「後を追えば、木の根元にあんたが座っていた。一瞬、死んでいるかと思ったが、触れてみれば息がある。そこで慌てて、小屋に連れてきたんだ」  ひとしきり犬の体を撫でたあと、男は床にどっかりと座った。 「こいつの名はガイロ。あちらのミーナと兄弟だ。ガイロはお前さんが気になって、ずっと張りついていた。それを見たミーナもだ。あんた、ずっと犬たちに温められていたんだよ」 「⋯⋯ガイロ。⋯⋯ミーナ」  小さく犬たちの名を呟けば、それぞれの耳がピクリと動いた。  ずっと体が温かかったのは、おまえたちのおかげだったのか。  二頭の犬がじっと、私を見た。  ガイロがのそりと起き上がった。自分より体重がありそうな体に恐れを感じたが、そっと手を伸ばした。おそるおそる頭を撫でると、ガイロはぺろりと、私の手を舐める。不思議な気持ちだったが、黒い瞳は何かを訴えかけているようだった。 「あんたが上等な毛皮を何枚もしっかり着込んでいたのは良かった。体が雪で濡れていなかったしな。それでも、あと少し気づくのが遅かったら危なかった」 「⋯⋯それでも」 「ん?」 「よかったのに⋯⋯」  男の眉が途端に曇る。 「⋯⋯それは、死んでもよかったという意味か? 馬鹿なことを言うな。守り木の元にいた者が生を全うせずに死んだら、それこそ罰当たりだろう。それに、あんたは、どう見ても俺より若い」  そう言いながら、男は傍らに置いた木の器を取った。 「起き上がれるか? 少しずつ飲むんだ。体が渇けば命に関わるからな」  手際よく片手で私の体を支え、口元に器を差し出した。中の飲み物を口にした途端、思わず吐き出しそうになる。 「おい! どうした!!」 「⋯⋯こ⋯⋯れは」 「俺の一族に伝わる薬だ。俺は元々、この村の出身なんだよ」  衝撃で、男の顔から目が離せなかった。  何と言えばいい。  この男に何と言って謝ればいい。  柔らかな甘みが口の中に広がっていく。それはいつだって優しい思い出と繋がっていたのに、今はもう、罪の味でしかない。  ──どうして。  一気に涙が湧き上がり、頬を濡らす。いくら止めようとしても、止めることができない。  心の中に何度も謝罪の言葉が湧き上がる。 「どうした? どこか痛むのか?」  小さく首を振れば、ふさふさとした毛並みがすぐ側にきた。  大きな犬の瞳には(いたわ)りがあった。共に痛みに耐えてくれるかのように、頭をすり寄せてきた。 「⋯⋯すま⋯⋯ない」  男は不思議そうな顔をしたが、何も聞かず、私と犬を見守っていた。  話は明日だと男は言い、小屋の中は眠りについた。  私の隣には、二匹の犬たちが体を寄せていた。どちらを向いても、ふかふかと温かな毛並があった。  何度目を覚ましても、温もりは離れることがない。  目を閉じれば、侍従の涙が浮かぶ。  男はその後も蜜を溶かした水を勧めてくれたが、どうしても口に出来なかった。  殺されかけたのも  救われたのも  ⋯⋯同じ一族だなんて。  ものを考えるには、あまりにも、身も心も疲れすぎていた。

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