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第30話 薄明 3

   夜更けだった。  遠く馬が駆ける音がする。  夜に雪の中を駆けるなんて、よほどのことだろう。  静かに扉が開く。男が、音もたてずに外へと出て行った。  扉の隙間から、月明かりと冷え切った風が忍び込む。ぶるりと体をすくめれば、犬が動いた。確かめるように手で触れると、温かさに安心して、また眠りにつけた。  瞼を開けた時、室内には自分と犬しかいなかった。  閉じた窓の間からも冷えた空気が入り込む。木々を渡る小鳥のさえずりが聞こえた。  いつの間に、朝になったのだろう。  少しずつ起き上がると、ガイロが、むくりと体を起こした。 「おはよう」  丸い目が喜びを映して、満足げに尻尾が揺れる。  ⋯⋯毎朝、こうして話しかけられてきたのだろうか。真っ直ぐな愛情に、眩しいものを見るようだった。  立ち上がって、体の動きを確かめながら扉を開ける。  雪の中に、たたずむ人影を見た。 「⋯⋯クリス」  知らず知らず、名を呼んでいた。  白く息を吐きだしながら、彼は扉の前に立っている。  周囲は夜明け前の青白さに包まれ、太陽はまだ姿を見せていない。  見開かれた青い瞳は瞬きもせずに私を見つめ、安堵のため息をこぼした。 「⋯⋯ご無事で」  小さな声だった。  雪の中に埋もれてしまいそうなほどの。  なぜ、こんなところに?  そう聞こうと思った時だった。  外套の下から伸ばされた手が、私の頬に触れる直前で動きを止めた。  凍り付いた手袋の指先は、髪の先をわずかにかすめて、元の位置に戻る。 「⋯⋯馬車をご用意しました。どうぞ、お戻りを」 「戻る?」 「皆、殿下のお帰りをお待ちしております」  頭の中に、何かが明滅する。  怒りが心を埋め尽くしていく。 「⋯⋯誰が」 「殿下?」 「誰が私の帰りを待っている!」  思わず外套の上から、ヴァンテルの胸を拳で殴った。力の無い腕で叩いても、鍛えられた体はびくともしない。それでも、耐えきれずに両の拳を繰り返し叩きつけた。  ──誰が待っていると言うのだ。  ──私を?  ──私を!?  ──そんな者は、誰もいない。  誰よりも愛してくれた兄は、私の為に罪を犯した。  自分のせいで、一つの村が滅んだ事実が、何よりも心を打ちのめしていた。 「お前は、どうしてそんな言葉を言える!? 私を待っている者がどこにいる?」 「ここに」   ヴァンテルは、私の肩を掴んだ。  身動きできないほど、強い力だった。 「私がおります、殿下」  湖と同じ色の瞳が揺れる。  この瞳は、見たことがある。  『クリス。ねえ、クリス。次はいつ来るの?』  『殿下は、いつ来てほしいのですか?』  『え、ええっ。それはねえ⋯⋯』  『言葉で言わないと、わかりませんよ』  『⋯⋯毎日、来てくれたらいいなって思ってる。毎日、会いたいから』   『私もです』   幼い思い出の中で、真っ直ぐな愛情を向けてもらっていた頃。  私は確かに、この瞳の中で安らいでいた。  胸を叩いていた手が止まる。 「⋯⋯クリス」  次の瞬間、息も出来ないほど強く、腕の中に抱きしめられていた。  少しずつ、体の力が抜けていく。  ゆっくりと、大きな手が背中を撫でる。 「殿下。⋯⋯このままでは、お体を冷やします」  ヴァンテルは小屋に入り、壁に掛けてあった毛皮を私の体に巻きつけた。  足元には、ガイロが大きな体を摺り寄せてくる。 「私は人の幸せを奪って生きてきた。こんな体を生かすために、この村は滅んだ⋯⋯」  ヴァンテルは、呟く私の手を取った。少しも驚いてはいなかった。  小屋に一つだけあった椅子に私を座らせて、目の前で跪く。 「⋯⋯私の知る、村の話を聞いていただけますか。殿下には、お辛い話かと思います」  頷かずにはいられなかった。  

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