31 / 152
第30話 薄明 3
夜更けだった。
遠く馬が駆ける音がする。
夜に雪の中を駆けるなんて、よほどのことだろう。
静かに扉が開く。男が、音もたてずに外へと出て行った。
扉の隙間から、月明かりと冷え切った風が忍び込む。ぶるりと体をすくめれば、犬が動いた。確かめるように手で触れると、温かさに安心して、また眠りにつけた。
瞼を開けた時、室内には自分と犬しかいなかった。
閉じた窓の間からも冷えた空気が入り込む。木々を渡る小鳥のさえずりが聞こえた。
いつの間に、朝になったのだろう。
少しずつ起き上がると、ガイロが、むくりと体を起こした。
「おはよう」
丸い目が喜びを映して、満足げに尻尾が揺れる。
⋯⋯毎朝、こうして話しかけられてきたのだろうか。真っ直ぐな愛情に、眩しいものを見るようだった。
立ち上がって、体の動きを確かめながら扉を開ける。
雪の中に、たたずむ人影を見た。
「⋯⋯クリス」
知らず知らず、名を呼んでいた。
白く息を吐きだしながら、彼は扉の前に立っている。
周囲は夜明け前の青白さに包まれ、太陽はまだ姿を見せていない。
見開かれた青い瞳は瞬きもせずに私を見つめ、安堵のため息をこぼした。
「⋯⋯ご無事で」
小さな声だった。
雪の中に埋もれてしまいそうなほどの。
なぜ、こんなところに?
そう聞こうと思った時だった。
外套の下から伸ばされた手が、私の頬に触れる直前で動きを止めた。
凍り付いた手袋の指先は、髪の先をわずかにかすめて、元の位置に戻る。
「⋯⋯馬車をご用意しました。どうぞ、お戻りを」
「戻る?」
「皆、殿下のお帰りをお待ちしております」
頭の中に、何かが明滅する。
怒りが心を埋め尽くしていく。
「⋯⋯誰が」
「殿下?」
「誰が私の帰りを待っている!」
思わず外套の上から、ヴァンテルの胸を拳で殴った。力の無い腕で叩いても、鍛えられた体はびくともしない。それでも、耐えきれずに両の拳を繰り返し叩きつけた。
──誰が待っていると言うのだ。
──私を?
──私を!?
──そんな者は、誰もいない。
誰よりも愛してくれた兄は、私の為に罪を犯した。
自分のせいで、一つの村が滅んだ事実が、何よりも心を打ちのめしていた。
「お前は、どうしてそんな言葉を言える!? 私を待っている者がどこにいる?」
「ここに」
ヴァンテルは、私の肩を掴んだ。
身動きできないほど、強い力だった。
「私がおります、殿下」
湖と同じ色の瞳が揺れる。
この瞳は、見たことがある。
『クリス。ねえ、クリス。次はいつ来るの?』
『殿下は、いつ来てほしいのですか?』
『え、ええっ。それはねえ⋯⋯』
『言葉で言わないと、わかりませんよ』
『⋯⋯毎日、来てくれたらいいなって思ってる。毎日、会いたいから』
『私もです』
幼い思い出の中で、真っ直ぐな愛情を向けてもらっていた頃。
私は確かに、この瞳の中で安らいでいた。
胸を叩いていた手が止まる。
「⋯⋯クリス」
次の瞬間、息も出来ないほど強く、腕の中に抱きしめられていた。
少しずつ、体の力が抜けていく。
ゆっくりと、大きな手が背中を撫でる。
「殿下。⋯⋯このままでは、お体を冷やします」
ヴァンテルは小屋に入り、壁に掛けてあった毛皮を私の体に巻きつけた。
足元には、ガイロが大きな体を摺り寄せてくる。
「私は人の幸せを奪って生きてきた。こんな体を生かすために、この村は滅んだ⋯⋯」
ヴァンテルは、呟く私の手を取った。少しも驚いてはいなかった。
小屋に一つだけあった椅子に私を座らせて、目の前で跪く。
「⋯⋯私の知る、村の話を聞いていただけますか。殿下には、お辛い話かと思います」
頷かずにはいられなかった。
ともだちにシェアしよう!