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第56話 決意 1

   ヴァンテルは、小さく息を吐いて私を見た。  自分の中にあった感情が、ぐるぐると行き場を失くして渦を巻く。  あまりにも多くの事実が押し寄せてきて、どう整理したらいいのかわからない。  一目で恋に落ちたと言った。  その言葉が、うまく意味を伴って、心の中まで落ちて来ない。 「⋯⋯私を嫌っては、いない?」  ぽつりと呟くと、ヴァンテルはゆっくりと頷いた。まだ気になるのか、赤くなった私の手をじっと見つめている。  私は手を伸ばして、ヴァンテルの指に触れた。ピクリと震える手は、思ったよりもずっと冷たい。指を包むように自分の手を重ねれば、少しずつ、互いの体温が移っていく。  希望と、不安と。お前の中にはいつも葛藤があったのか。  私は何も気づかなかった。 「私は⋯⋯、兄様がしたことも、お前が小宮殿に来なくなった理由も、何も知らなかった。ただ日々を過ごして生きていた。またいつかクリスに会いたいと、そればかり思いながら」  そのクリスが来なくなった理由こそ、兄が原因だったとは。  兄が留学から戻って嬉しかった。忙しい中、時間を作っては小宮に会いに来てくれた。寂しいと言えば抱きしめ、外に行きたいと言えば、ブラオンとの遠乗りに誘ってくれた。そんな兄が、垣間見せた顔を思い出す。 「王宮に行きたい。クリスが来ているかもしれないんだ。ほんの少し、姿を見るだけでいいから」  そう言うと、兄は眉根を寄せて口許を歪めた。兄のそんな顔を見たのは初めてだった。 「アルは、その、クリスが⋯⋯好きなのか?」 「好き? うん! 大好き!!」  兄は黙り込んだ。  逸らした瞳は氷のようで、その冷たさにぞっとしたのを覚えている。 「兄様?」  不安になって呼べば、兄の表情はあっという間に温かいものに変わる。それでも私はなぜか、胸の動悸がおさまらなかった。兄を怖いと思ったのは、あれが初めてだったのだ。  銀色の髪の少年が来なくなった小宮殿は、以前よりも色を失くしたように思えた。  明るい光も咲き誇る花々も、吹き渡る風さえ変わらないのに。  クリスがやってきた小道を、何度ものぞく。 「小道のわずかな音にすら、耳をそばだてていた。小さな森の動物だとわかれば、一瞬弾んだ心が落ち込むんだ。どこかで、お前が来てくれるのを待っていた」 「⋯⋯殿下」  ゆっくりと、自分の中で時が巻き戻されていく。  ヴァンテルは、子どもだった私に語りかけるような、静かな口調で続ける。 「私は、貴方の廃嫡までに、あらゆる手を尽くしました」  廃嫡、の言葉にびくりと体が震えた。 「もっと違う方法があるかもしれない。貴方の御体を守って、貴方を国王として立たせる方法がないかと探しました。その一方で、レーフェルト凍宮の修繕に全力を注ぎました」 「レーフェルトの修繕は、莫大な金がかかったと聞く。造営時にも勝るほどの」 「凍宮は元々修繕の必要があったのです。でも、貴方の為にと思った時、私はどこよりも素晴らしい宮殿にしたかった。全てに満足が行くような⋯⋯」 「⋯⋯凍宮の書庫には、一生かかっても読み切れないほどの本があった」 「ずっと、最初に本を喜んでくださったことが忘れられなかった。長い年月お会いできなかったので、貴方はどんな本がお好きなんだろうと色々なものを集めました」  ヴァンテルが私を見る瞳は、懐かしい色を宿していた。  遥か昔、この場所で二人で笑いながら語り合った時の、愛情に満ちた色。  ──貴方が望むなら。  何度そう言われて来ただろう。  優しいクリスは、いつだって私の望みを叶えてくれようとした。

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