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第82話 報復 2
「子猫が爪を立てる様は愛らしいものですが、折角ならば毛並みの美しさを間近で愛でたいものです」
「私は猫じゃない」
大きく首を振れば、トベルクはくすりと笑みを浮かべた。
「ええ、よく存じ上げています。⋯⋯猫よりもよほどお可愛らしい。どのみち、この宿は騎士たちが詰めています。もう貴方は逃げられない」
扉の前も、宿屋の周りにも騎士たちがいる。
「それに、侍従どもを置いて逃げるおつもりなら奴等の命を奪うまでのこと」
私は、思わず唇を噛んだ。
引き離されたまのロフにブレン。ここまで連れてきてくれた彼らを見捨てて、逃げるわけにはいかない。
「二人はどこにいる?」
「主を裏切って貴方を連れ去ったのです。それ相応の罰は必要でしょう?」
「⋯⋯やめろ! 二人には手を出すな」
トベルクは驚いた顔をする。
「ずいぶん二人に絆されているようだ。旅でさぞかし親交を深められたようですね、殿下」
「⋯⋯」
「共に逃げているうちに情が湧きましたか?」
「そんなことは⋯⋯」
あるでしょう?と言いたげな視線が投げかけられた。
「優しく聡明な貴方は、ご情愛も深い。あの二人と共にどちらに向かうおつもりだったのです?」
決して話すわけにはいかなかった。
碧の瞳は、何もかも見通すような不思議な輝きがある。
私が黙り込んでいるとトベルクは立ち上がり、卓の上にあった呼び鈴を鳴らした。
従卒と、私の部屋で身支度を手伝ってくれた小姓が入ってきた。
「殿下、大丈夫ですか?」
助け起こそうとする少年を無下 には出来ず、渋々立ち上がって椅子に座った。
宿の使用人たちが卓の上に次々と料理を運ぶ。
正餐である昼ほどではないが、香ばしい肉料理によく煮込まれたスープ。上質な麦でふっくらと焼かれたパン。質素な旅に慣れた目には、豪華すぎる食事だった。
外套を脱いで対面に座ったトベルクは、気品に溢れた美丈夫だ。落ち着いた物腰も理知的な雰囲気も変わらない。しかし、改めて見れば端正な顔立ちには疲れが滲んでいる。
「殿下、久々の再会を祝して乾杯しましょう」
「お前と祝うことなど何もない」
「おや、これは手厳しい。では、神と王とロサーナの栄光に」
⋯⋯嫌な男だと思った。神と王と国を祝福する言葉を断る理由はない。
すぐさま目の前に二つの銀杯が置かれ、美しい赤紫の液体が注がれる。芳醇な香りが辺りに漂った。
宮中伯は、神への感謝と祈りの言葉を口にした。そして、私たちは銀杯を掲げた。
トベルクが一言を添えた。
「お美しい殿下の未来を祝して」
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