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第84話 報復 4
「筆頭殿は、少しも納得されていなかった。私を射殺しそうな目をなさっておいででしたよ。正直、腹の底から笑いだしたい気持ちでした。貴方に恋着したままの愚かな男。のぼせた頭を冷やして、さっさと国の舵取りに励めと思いました」
椅子から立ち上がると、卓の上にあった銀杯が倒れた。
まるで血が流れるように目の前には赤紫の液体が広がっていく。
トベルクの話の中の一つの事実が、胸を震わせる。
「⋯⋯レビンが、正気でないだと?」
「殿下の侍従に与える茶の量は、少々多かったようです」
「⋯⋯元に戻るのか?」
「場合によっては」
「冗談じゃない! 戻せ!!」
私は、トベルクに向かって叫んだ。
いつだって明るく優しかった侍従。スヴェラにだって付いていくと言ってくれた。
なぜ、レビンが無事だと思っていたのだろう。馬鹿な自分を呪いたかった。
「それに、クリスが火をつけたというのも、何かの間違いかもしれないじゃないか!」
「私も頭に血がのぼっておりましてね。火事の後に筆頭殿に詰め寄りました。笑いながら仰いましたよ。私がやったという証拠があるのか、と。以前の私の言葉を返されたのだと、すぐにわかりました」
トベルクの瞳に怨嗟の炎が浮かぶ。
「極めつけに、筆頭殿は言われた」
『春先の種蒔きは目前だ。麗しのロサーナで其方の領民だけが飢え死にとは哀れなことだ。我が領土から種麦も食料も運ばせよう。⋯⋯再び、大事な薔薇を手にした暁 には』
ぱきん、と。
何かが耳の奥で割れた音がする。
トベルクの、この瞳は見たことがある。
燃えるような憎しみを募らせ、真っ直ぐな怒りを向けてくる。
『貴方がいらっしゃらなければ、私の村は滅びなかった』
守り木の村のブレンと今のトベルクの瞳は、同じだ。
「⋯⋯私のせいか」
ふらりと体が揺れる気がした。
葡萄酒のせいでも、薬を盛られたのでもない。身の内から細かな震えが湧き上がる。
「殿下?」
「私がいなければ、お前の領民たちは大切な糧を燃やされることもなかったのか」
私への愛だけで。
一つの村を滅ぼした者。
農民たちの麦を、日々の働きを灰にした者。
こんなにも簡単に人々の暮らしが踏みにじられる。
私の中で何かが壊れる音がする。
心の内の一番柔らかいところが、粉々になって崩れていく。
「トベルク。以前、お前は私をおぞましいと言ったな。その気持ちがよくわかる。私は⋯⋯、自分自身をおぞましい生き物だと思う」
トベルクは碧の瞳を見開いた。
部屋に戻ると言った私の為に、扉を開けようとした従卒を止める。
「⋯⋯殿下」
私の前を阻む端正な顔に怒りの色はなかった。代わりに焦りの様なものが見て取れた。
「トベルク、私はお前を許さない。お前さえ私を連れて行かなければよかったのだ。⋯⋯それでも、クリストフ・ヴァンテルのしたことを許すことが出来ない」
この手の中には、もう何も残っていない。
温かく優しさに満ちたものは、どうしてこんなにもたやすく消え失せていくのだろう。
欲しいものはいつだって小さな幸せだったのに。
この命の終わりまで、愛する者と共に過ごせるだけで良かったのに。
真っ直ぐに顔を上げた。
「扉を開けよ、トベルク」
トベルクはわずかに眉を寄せた後、黙って頭を垂れた。
廊下に控える騎士たちがこちらを見たが、即座に主に倣 う。
私は誰にも何も言われずに歩き続けた。逃げたかったわけではない。
今だけは誰もいない場所に行きたかった。
私の姿を見た騎士たちが止めようとするたびに、はっきりと言った。
「通せ。王子の言葉が聞けぬか」
騎士たちは、ぎょっとして左右に分かれた。
行く手を塞ぐ者は誰もいない。
どうして思いつかなかったのだろう。
無理に生きようとするから苦しいのだ。
生きようとするたびに誰かの生や糧を奪うぐらいなら。
おぞましいこの人生に、自分で決着をつけてもいいだろう。
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