85 / 152

第84話 報復 4

「筆頭殿は、少しも納得されていなかった。私を射殺しそうな目をなさっておいででしたよ。正直、腹の底から笑いだしたい気持ちでした。貴方に恋着したままの愚かな男。のぼせた頭を冷やして、さっさと国の舵取りに励めと思いました」    椅子から立ち上がると、卓の上にあった銀杯が倒れた。  まるで血が流れるように目の前には赤紫の液体が広がっていく。  トベルクの話の中の一つの事実が、胸を震わせる。   「⋯⋯レビンが、正気でないだと?」 「殿下の侍従に与える茶の量は、少々多かったようです」 「⋯⋯元に戻るのか?」 「場合によっては」 「冗談じゃない! 戻せ!!」  私は、トベルクに向かって叫んだ。  いつだって明るく優しかった侍従。スヴェラにだって付いていくと言ってくれた。  なぜ、レビンが無事だと思っていたのだろう。馬鹿な自分を呪いたかった。 「それに、クリスが火をつけたというのも、何かの間違いかもしれないじゃないか!」 「私も頭に血がのぼっておりましてね。火事の後に筆頭殿に詰め寄りました。笑いながら仰いましたよ。私がやったという証拠があるのか、と。以前の私の言葉を返されたのだと、すぐにわかりました」  トベルクの瞳に怨嗟の炎が浮かぶ。 「極めつけに、筆頭殿は言われた」 『春先の種蒔きは目前だ。麗しのロサーナで其方の領民だけが飢え死にとは哀れなことだ。我が領土から種麦も食料も運ばせよう。⋯⋯再び、大事な薔薇を手にした(あかつき)には』  ぱきん、と。  何かが耳の奥で割れた音がする。  トベルクの、この瞳は見たことがある。  燃えるような憎しみを募らせ、真っ直ぐな怒りを向けてくる。  『貴方がいらっしゃらなければ、私の村は滅びなかった』  守り木の村のブレンと今のトベルクの瞳は、同じだ。 「⋯⋯私のせいか」  ふらりと体が揺れる気がした。  葡萄酒のせいでも、薬を盛られたのでもない。身の内から細かな震えが湧き上がる。 「殿下?」 「私がいなければ、お前の領民たちは大切な糧を燃やされることもなかったのか」  私への愛だけで。  一つの村を滅ぼした者。  農民たちの麦を、日々の働きを灰にした者。  こんなにも簡単に人々の暮らしが踏みにじられる。  私の中で何かが壊れる音がする。  心の内の一番柔らかいところが、粉々になって崩れていく。 「トベルク。以前、お前は私をおぞましいと言ったな。その気持ちがよくわかる。私は⋯⋯、自分自身をおぞましい生き物だと思う」  トベルクは碧の瞳を見開いた。  部屋に戻ると言った私の為に、扉を開けようとした従卒を止める。 「⋯⋯殿下」  私の前を阻む端正な顔に怒りの色はなかった。代わりに焦りの様なものが見て取れた。 「トベルク、私はお前を許さない。お前さえ私を連れて行かなければよかったのだ。⋯⋯それでも、クリストフ・ヴァンテルのしたことを許すことが出来ない」  この手の中には、もう何も残っていない。  温かく優しさに満ちたものは、どうしてこんなにもたやすく消え失せていくのだろう。  欲しいものはいつだって小さな幸せだったのに。  この命の終わりまで、愛する者と共に過ごせるだけで良かったのに。  真っ直ぐに顔を上げた。 「扉を開けよ、トベルク」  トベルクはわずかに眉を寄せた後、黙って頭を垂れた。  廊下に控える騎士たちがこちらを見たが、即座に主に(なら)う。  私は誰にも何も言われずに歩き続けた。逃げたかったわけではない。  今だけは誰もいない場所に行きたかった。  私の姿を見た騎士たちが止めようとするたびに、はっきりと言った。 「通せ。王子の言葉が聞けぬか」  騎士たちは、ぎょっとして左右に分かれた。  行く手を塞ぐ者は誰もいない。  どうして思いつかなかったのだろう。  無理に生きようとするから苦しいのだ。  生きようとするたびに誰かの生や糧を奪うぐらいなら。  おぞましいこの人生に、自分で決着をつけてもいいだろう。

ともだちにシェアしよう!