86 / 152

第85話 薔薇 1

   宿の外に出れば、空は晴れ渡っていた。  深く青い空の色は、明らかに王都とは違う。フロイデンの空はどこか華やかな明るい水色だ。北方の空にはもっと濃い青が良く似合う。  そう思った途端、自分が何を思い浮かべているのかに気づいた。⋯⋯底知れぬ深い湖のような青い瞳。  どこまでも続く空には、雲一つなかった。  宿屋には中庭があった。  誰が世話をしているのだろう。寒さに耐えて可憐に咲いている花々があった。丈が低く、淡い黄色と紫の混じった花びらが寄り添うように咲いている。  フロイデンと違って北方の春は遅い。冬の間は花を見ること自体が珍しい。  小宮殿で、幼い私は庭師の仕事を眺めることが好きだった。庭師は私が望んでも決して手伝わせてはくれなかったが、花々の様子を口にしては教えてくれた。  暖かい地方ではたくさん咲く花も、寒い地方ではなかなか咲かない。どうしても咲かせたかったら、花を選んで少しでも暖かい時期に株をしっかり育てておくのだと。  座り込んで眺めていると、一匹の蜂が飛んでくる。  丸く黒い体にふわふわと黄色の毛皮が付いているような姿は、なんだか可愛らしい。貴重な食物を集めているのだろう。邪魔をしてはいけない気がして、少し離れる。  せっせと飛び回って蜜を集めている姿に興味を惹かれて眺めていた。小宮殿の庭には花がたくさんあったから、蝶も蜂もよく見かけた。  庭師に、彼らは無闇に攻撃を仕掛けてきたりはしない。うっかり巣がある事を知らずに近寄ると痛い目に遭うとよく言われた。 「この蜂は、見たことがないな⋯⋯」  羽は小さく、丸い体つき。他に仲間の蜂らしき姿がないのも不思議な気がした。 「お前、一匹だけで頑張っているの?」  せっせと働く姿に、いじらしい様な気持ちすら感じた。  少しずつ近寄って見入っていると、人の気配を感じる。 「⋯⋯お寒くはありませんか? そのような薄着では御体に障ります」  厚手の外套を纏った男が近づいてくる。トベルクの騎士かと思ったが違うようだ。 「問題ない。心遣いは無用」  驚くほど冷たい声が出た。  心配してくれる者に、自分はこんなにも冷たい態度が取れる人間だったのだろうか。虚ろな気持ちでいると、大柄な男は手にした白銀の毛皮の肩掛けを差し出した。軽くて暖かそうな毛皮は一目で上物だとわかる。 「⋯⋯少しの間でもお使いになっていただければ」  その声に、どこかで聞き覚えがあるような気がした。  口元までしっかり覆っている男に目を凝らすと、厩舎の方から何かがすごい速さで走ってくる。  私は目を疑った。  大きな生き物が、男の隣でぴたりと止まる。垂れた茶色の耳、つぶらな瞳。真っ白な体の後ろでふさふさの尻尾が大きく揺れていた。  ハッハッハッと息を吐く、その姿を忘れるわけもなかった。  この体がどんなに暖かく、心がどんなに思いやりに溢れているかを知っている。  立ち上がって近よろうとした途端に、男が小さく名を呼んだ。 「止まれ、ガイロ」  その声を聞いて、ようやく思い出した。 「⋯⋯其方は!」  男はそっと、唇の前に指を立てる。 「失礼を致しました。どうぞこれを」  男は私に肩掛けを渡し、一礼して宿に向かった。  犬は私を見てくぅんと鼻を鳴らしたが、男が一声呼ぶとすぐに後を追う。  私は呆然と後姿を見送った。 「なぜ⋯⋯第一騎士団長が、ここにいる?」  

ともだちにシェアしよう!