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第86話 薔薇 2
肩掛けを纏えば、ふわりと暖かい。
滑らかで柔らかい毛皮はそう簡単には手に入らない。懐かしい犬も男の姿も、まるで夢を見ていたかのようだ。
思わず襟元を掻き合わせると違和感があった。めくりあげてよく見てみれば何か小さな布が縫い留められている。
一目見て、息を呑んだ。
『闇夜に』
その言葉の後に。
頭文字があった。
⋯⋯よく知った名前のものだった。
震える指先で、文字をたどる。
まるで文字そのものが熱をもつようだ。
彼のしたことを許せない。はっきりそう思っているのに。
⋯⋯どうして、こんなにも心が揺れるのだろう。
部屋に戻ろうと歩き出すと、宿屋の中から小姓が走ってきた。手には厚手の上着を持っている。
「殿下、まだ外にいらっしゃるならこれを!」
「わざわざ持ってきてくれたのか、ありがとう」
「⋯⋯それは、どうなさったのです?」
「余程寒そうに見えたのだろう。使えと言った者があった」
肩掛けを見せて笑うと、つられて小姓も笑う。その笑顔がレビンを思い出させた。
明るく屈託のない笑顔で、いつも心を明るくしてくれた侍従。
そして、トベルクに捕らわれているブレンとロフ。
何とかして侍従たちを助けたい。
ふと、視線を感じた。
こちらを見ている少年がいた。
宿屋の下働きだろうか。厚地の服を着てはいるが、だいぶ傷んで丈も体に合ってはいない。
「⋯⋯あ、あの」
うつむきながら、おどおどと両手を差し出した。
「⋯⋯花を」
「花?」
近づいてみれば、少年の手の平には掘り起こされたばかりの小さな花があった。
「私に?」
少年はこくりと頷いた。
「もしかして、中庭の花を世話している者か?」
もう一度頷く。
私がずっと花を眺めていたのを見て、花をわけてくれたのか。
「ありがとう。とても綺麗だ。嬉しい」
「殿下! お手に土が!!」
掘り起こしたばかりの花は、根に土がついている。小姓の言葉に少年はびくりと肩を震わせた。
私は気にせずに、少年の手からそっと花を受け取った。少年の荒れた指先に土が入り込んでいる。
「⋯⋯美しい花をありがとう。でも、一輪だけで十分だ。さっき丸い蜂がこの花の元に来ていた。彼らの大事な食料を奪ってはいけない」
花を見れば、自然に顔がほころぶ。
少年がぼうっとしてこちらを見ているので、隣にいた小姓が口を出した。
「ちょっと! 返事は?」
「え? あ! ああ。⋯⋯わ、わかりました」
「後で礼をしたい。其方はここで働いているのか?」
赤い顔をした少年は、口をばくばくと開け閉めする。
小姓が呆れた顔をして大きくため息をついた。
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