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第87話 薔薇 3

   部屋には一輪の花が飾られている。  小姓が少年に指図して、小さな鉢に一輪だけ土を入れて植え替えさせたのだ。このままでは折角の花が枯れてしまうと言って。小姓は思ったよりも気が強いが、優しい心を持っている。  卓の上の花は、そこにあるだけで心を明るくしてくれた。  不意に、甘く苦い思い出が心に浮かぶ。 「⋯⋯美しい薔薇をもらったことがあったな」  咲いたばかりの見事な冬薔薇を一輪、凍宮の自室に届けてもらった。  天鵞絨(ビロード)のように美しい花弁は全て、自分で雪の中に千切って撒いた。  花をとられた哀れな茎の姿が目に浮かぶ。まるで、自分のようだと思ったものだ。 「今も何も持っていないのは、変わらないか⋯⋯」  大地から土を分けてもらった花ならば、ずっと咲き続けてくれるだろうか。  窓辺まで歩いて木戸を開ければ、肌がぴりりと痛むほどの冷たい空気が入り込む。  空には見事に輝く白銀の月が浮かんでいた。  闇夜、とはどんな意味があるのだろう。言葉のままだろうか。  昼間に会った男は、間違いなく北領騎士団の第一騎士団長ホーデンだった。  彼はヴァンテルの命を受けて来たのだろうか。  犬の遠吠えが微かに聞こえる。  あれは、もしかしたらガイロかもしれない。  優しい犬の暖かい毛並みを思い出しながら目を閉じた。  翌朝。  早くに目覚めたので中庭に向かった。  扉の前にいる騎士たちは、私が中庭へ行くと告げると黙って頷く。  昨日の少年が花の世話をしているのが見えた。 「おはよう!」 「あ! 昨日の⋯⋯」  あわわわ、と目を丸くして慌てている姿に、ふふっと笑ってしまう。 「え、えっと、昨日は⋯⋯あ、ありがとうございました!」 「花をもらったのは、こちらだが」 「オレ、あんな美味いもの食べたことなかった⋯⋯」  小姓に何か花をもらった礼をしたいと言えば、子どもには食べ物が一番だと返された。私からはどう見ても二人は同じ位の年頃に思えたが、口には出さなかった。どうやら砂糖菓子を渡してくれたらしい。 「あの、お供の人が部屋に来て、礼だと言うからびっくりした」  私は、話しながらも、せっせと花の世話をしている少年をじっと眺めていた。花に被せていた覆いを外したり、風から守るよう囲いを付け直したり、彼はよく働く。いつの間にかまた、あの丸い蜂がやってきた。 「蜂も早起きなんだな」 「この蜂は他の蜂より早く飛び回って、朝早くから蜜を集めるんだ」 「そうなのか。こんなに早い時期に花を見つけて、蜂も嬉しいだろう」  少年は嬉しそうに、にっこり笑う。 「⋯⋯へへ。そんなこと言ってくれたのは、犬連れのおっさんだけだったのに」 「犬連れの?」  ホーデンとガイロの姿が、脳裏に浮かぶ。 「うん。たまにうちの宿に泊まるんだ。おっさんも犬もでかくて、最初は二匹連れてきてたけど、最近は一匹だけ」 「⋯⋯その人は、まだ泊まっているのか?」 「二日前から泊まってたけど、昨日のうちに発ったよ。商売があるからって」  鼓動が早くなる。あれはやはり、夢じゃなかった。 「よく話すのか? その、犬連れの⋯⋯」 「うん! オレ、犬が好きなんだ。おっさんの連れてる子たち、すごく利口で優しいんだよ」  ⋯⋯知っている。思わず涙が出そうになった。犬の特徴を聞いていると、間違いなくガイロとミーナだと思えた。 「お願いだ。また、犬と飼い主を見かけたら、すぐに教えてほしい。知り合いかもしれないんだ」  少年は目を輝かせて頷いた。

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