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第91話 月夜 3
夜の帳 が下りる頃、窓についている木戸を開く。今夜も空には、見事な白銀の月が昇ろうとしていた。
「闇夜は、来なかったな」
ぽつりと呟けば白い息が零れた。自分の心が、暗く沈んでいるのがよく分かる。
傷を覆った布に当たらないように肩掛けを纏い、襟に縫い込まれた言葉を見た。
『闇夜に』
もう少し滞在していたなら『闇夜』も、やってきただろうか。それとも何か別の符号だったのか。昨日から幾度となく考えてはみたけれど、わからなかった。
宿屋は静まり返って、ろくに物音もしない。
食堂から聞こえる騒めきも、北方の麦酒を飲み交わす威勢のいい声もない。
明日の出発に備えて、トベルクの騎士たちは皆、早くから眠りについている。起きているのは、宿の使用人たちだけのようだった。
今夜は自分の部屋の前に立つ騎士の人数も少ない。皆、明日に備えているのだ。
昨夜のように犬の遠吠えだけでも聞こえればいいのにと思ったが、何も聞こえはしなかった。
月の輝きを見ていると、ずっと考えないようにしてきた面影が浮かぶ。
さらさらと流れる銀糸の髪は、夜空にきらめく月光で出来ている。
──食糧庫に火を放つような男だとトベルクは言った。
心が凍るような言葉を投げつけられたこともある。
それでも⋯⋯優しい微笑を思い浮かべるだけで、心に明かりが灯る。
名を口にするのはつらすぎて、縫い取りの頭文字を繰り返し指でなぞった。
違和感に気づいたのは真夜中だった。
小さな羽音が聞こえる。
ブブブ⋯⋯と細かく羽を震わせているような、昼間聞いたものと同じ音が。
何か虫がいるのだろうか。
気になって目を開けると、今度は羽音一つ聞こえなかった。考えてみれば、こんな寒い場所に、そうそう虫がいるはずもない。
一度はっきり目覚めてしまうと、今度は簡単には寝つけずに体を起こす。
静かすぎる気がした。
明日の出発に備えて眠っている者が多いからだろうか。寝台から降りて、寝間着の上に肩掛けを纏う。
月を見て、時を確かめようと思った。寝台と反対側にある窓を開ければ月は中空高く、冴え冴えとした光を投げてくる。
部屋の中には月明かりだけが入ってきて、髪も肩掛けも全てが銀色に染まった。
微かな物音が聞こえた。振り向けば、部屋の入り口の扉がわずかに開いている。
扉の向こうの暗闇にうごめく影があった。明るい場所から暗闇は見えにくい。よくよく目を凝らせば影は人の形をとり、全身に黒い外套を纏った男になった。
「⋯⋯誰?」
男は少しも動かず、じっとこちらを見ていた。
盗賊だろうか?扉の向こうには騎士たちがいたはずなのに。彼らは毎日寝ずの番のはずだが、今日だけは明日に備えて警護を休むことを許されたのだろうか。
寝台の枕の下には短剣が隠してある。少しずつ、後ずさるようにして寝台に近づいた。
男の体が動いた途端、私は寝台に駆け寄り右手で枕を掴んだ。こちらに向かった男の顔に思いきり枕を投げつける。男は体をひねって避け、私に向かって手を伸ばしてきた。
「──っ!!」
短剣を掴んだ左手を思いきり掴まれ、男の手を振り払おうと無茶苦茶に動かした。
思いきり引っ張り上げられた途端、肩だけでなく傷までが痛む。
「⋯⋯いたっ!」
思わず呟いた途端、ゴトンと床に剣の転がる音が響く。
私は歯を食いしばって、男を睨みつけた。
「⋯⋯離せ! 何のつもりだ!!」
叫んだ途端に男の手の力が緩み、掴まれていた手が離された。
男が被っていた頭巾がわずかにずれ、隙間から、はらりと髪が零れる。
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