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第92話 月夜 4
あれは。
⋯⋯月の光を編んだような髪。
あの色は。
全身黒を纏った中で、目元だけが開いている。深い、湖の青が私を見ている。
何度も何度も夢に見た。
夢から覚めるのは嫌だった。
隣にいないことを知っているから。
もう会えないかもしれないと思ったから。
これは⋯⋯、現実なんだろうか。
月明かりしかない部屋の中で、まるで幻を見ているようだった。
目の前の男は私の前に跪き、そっと手を取った。
かすれた低い声が耳を打つ。
「⋯⋯声を聞いて、ようやく殿下だと思えました。月の光の中で、貴方はまるで人ではないようだった。私は、貴方との約束を⋯⋯守れませんでした」
「やく⋯⋯そく?」
「何があっても共にいると約束したのに。⋯⋯お側を、離れました」
花咲く小宮殿の宵闇が浮かび上がる。あの時、確かに聞いた言葉があった。
「もう一人にはしないと⋯⋯言ったことか?」
「そうです。⋯⋯あの日の約束を違えた私を⋯⋯許してくださいますか」
すぐには、声が出なかった。
お前のせいじゃない。許すも許さないもない。そう言おうと思ったのに。
口からこぼれ出たのは、全く違う言葉だった。
「⋯⋯呼んだのに」
「何度も⋯⋯何度も。⋯⋯呼んだのに」
ほろほろと、涙がこぼれ落ちた。
「ずっと、お前の名前だけを呼び続けたのに」
「⋯⋯アルベルト様!」
⋯⋯さびしい。
怖い。
痛い。
あいたい。
──会いたい。
たくさんの感情が、涙と共に湧き上がった。
涙は頬を伝い、床を濡らす。私の涙を拭う男の指を濡らす。
「⋯⋯クリス。会い⋯⋯たかった」
「お許しを。ずっと、ずっと⋯⋯探しました」
いつのまにか私は、ヴァンテルの腕の中にいた。
泣き続ける私を、これ以上はないぐらいヴァンテルは強く抱きしめる。
まるで壊れたかのように口は一つの名前を繰り返し、その度に優しく髪が撫でられた。
この腕の中にいられるのなら、他には何もいらない。
「ここから逃げましょう、アルベルト様」
ヴァンテルに手を引かれて、私は部屋を抜け出した。
扉を出ると、待っていたのは北領騎士団の騎士たちだった。
彼等はほっとしたように、私たちの前後を守る。
宿屋が静まり返っているわけは、すぐにわかった。
宿には誰もいなかった。トベルクの騎士や兵たちを除いて。
宿屋の主人も使用人も、他の泊り客たちも、全てが近くの村に避難していた。
「ホーデンは貴方を見つけてすぐに、宿屋の主人に話をつけました。ここは北方地域の外れです。この宿屋は昔、夜盗に襲われたところをホーデンたち第一騎士団に救われたこともあるのです」
トベルクの騎士たちは、あちこちで眠り込んでいた。酒や食べ物に薬が仕込まれていたからだ。
「でも、どうやってわかったんだ。ここを出て行くことが」
「宿に偵察を置いていました。それに、殿下が花を渡したでしょう、下働きの子どもに」
「⋯⋯無事に届いたのか」
もし、犬連れの男に会えたら、この紙を渡してくれ。小姓には鉢植えと一緒に、紙と伝言を頼んだ。紙には宿を発つ時刻を書いておいた。
宿屋の一階から外に出た時に、私はクリスの腕を掴んだ。
「⋯⋯クリス。助けてほしい者たちがいる。守り木の村の若者たちがトベルクに捕らえられている」
「守り木の村の?」
「そうだ。ここまで私を連れてきてくれた。二人を置いてはいけない」
ヴァンテルは頷き、側にいた騎士たちを見た。
侍従たちは大抵、厩舎かその隣の納屋で寝泊まりしている。二人がいるのはそこの可能性が高かった。
騎士たちが走り出そうとした瞬間、辺りに声が響いた。
「どこへ行くおつもりです、殿下」
月明かりの中に、トベルクが立っていた。その後には、ずらりと騎士たちが並んでいる。
騎士たちの手の中には、ぐったりとした二人の若者⋯⋯守り木の村のロフとブレンの姿があった。
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