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第106話 恋慕 1

「本気なのか?」 「こんなことで冗談は申し上げません。小宮殿でお約束した日から、ずいぶん時が経ってしまいました」  一点の曇りもない晴れやかな微笑みが向けられる。暮れてゆく小宮殿で、ずっと一緒に居ると約束してくれたことを思い出す。 「でも、クリスがいなくなったら、ロサーナは⋯⋯」 「私一人いなくなったところで、この国は沈みはしませんよ。それこそライエンやトベルクもいる。彼らは私よりもよほどロサーナを愛しています」  私は握られた手をゆっくりと解いて、クリスの頬を包んだ。滑らかな輪郭を撫でれば、切れ長の瞳が嬉しそうに瞬いた。 「私の心はずっと、貴方にしか向かない」  白璧の美貌と讃えられた男が、(とろ)けるような微笑を見せて愛を囁く。  胸が痛くなるほど嬉しいのに、心の奥底から湧き上がるこの痛みは何だろう。  この先⋯⋯早くて数年、長くてもおそらく十年にも満たない。  そんなわずかな時間の為に、私はこの男に全てを捨てさせるのか。そして、ロサーナは優秀な導き手を失うというのか。  トベルクから以前投げられた言葉が脳裏に浮かぶ。それは遅効性の毒のように、ゆっくりと体を巡り心を蝕んでいく。 「クリ⋯⋯」  名を呼ぼうとすると長い指で顎を取られ、舌を絡められて言葉にならない。体から力が抜けていくところを支えるように、腰にヴァンテルの手が回る。  声を発することも出来ずに腕の中に抱きとめられ、頬から瞼に優しい口づけを受けた。 「⋯⋯貴方にそんな顔をさせているものは何です?」 「そんな顔?」 「まるで、たった一人で置き去りにされるような、不安そうな顔をしていらっしゃる」 「置き去り? ⋯⋯いや、違う。自分のことを考えていたわけじゃない」  私が居なくなった後に残されるお前とロサーナのことが心配なんだ。  そう言おうと思った途端、頬を流れ落ちるものがあった。 「⋯⋯殿下?」  驚いたままのヴァンテルに何か言葉を返そうと思うのに、何も言うことが出来ない。  ぽとり、ぽとりと、幾つもの涙が流れていく。  ⋯⋯ああ、そうか。  湧きあがる感情が瞬く間に心を埋め尽くしていく。  押しつぶされそうなほどに重く、行き場のない想いが。  目の前のヴァンテルの顔が滲んでよく見えない。  厚みのある胸の中に強く抱きよせられた。  想いをうまく言葉に出来ないから、胸の中でじっとしていた。  ヴァンテルは泣き続ける私を抱きしめて、髪を撫で、何か慰めの言葉を呟いている。涙は少しも止まらず、耳に入ったはずの言葉すら、どこか遠くへ流れていく。

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