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第1話

 薄暗い馬房に窓から日の光が差し込んでいた。粒子がキラキラと反射し、まるで藁の上に膝を折り蹲った白毛の彼が輝きを放っているようだった。カナタの睫毛も幻想的に光っていたことにカナタ自身は気付いていなかった。  一歩、足を踏み入れると、彼は白い毛を逆立てて拒絶を表した。  彼をここで囲っている人間を嫌っているのだろう。  歯を見せて威嚇する様は、野性の獣そのものだ。危害を加えられるのではないかと、カナタは本能的に恐怖抱く。  けれど見知らぬ人間に恐怖を感じているのは、彼も同じなのだ。彼がこれまで人間にどのような扱いを受けてきたのかは分からない。もしかしたらカナタ以上に恐怖を感じているのかもしれなかった。  カナタはしゃがんで目線の高さを合わせ、笑顔で彼の方へ手のひらを伸ばして見せた。敵意はないのだと全身で表現する。 「俺はカナタ。今日から君の……ルキウスの世話係になった。よろしく」    ◆  カナタの前を十八頭の人馬(じんば)が駆け抜けた。  人馬たちの脚が躍動する。地面を蹴り上げ、土埃が舞う。巻き起こった風がカナタの大きく見開いた目を乾かした。眼球の痛みを感じても閉じられない。走り抜ける人馬たちを一瞬たりとも見逃したくなかった。  十八頭が目指すのは白い旗が目印の終着点。勝敗は単純明快。一番最初に終着点にたどり着いた人馬が、勝者となる。  この競技場(キルクス)では、連日鍛え抜かれた人馬たちが足の速さを競って場内を駆ける。  勝利へと猛進する人馬たちが地響きを起こす。その振動を受けてカナタの細い身体がぶるりと震えた。手に汗を握り、前のめりになる。  興奮しているのはカナタだけではない。競技場をぐるりと囲んだ石の積まれた階段状の観客席には三万人もの観衆が収容できる。勝敗のゆくえに期待する歓声が競技場全体に溢れていた。客席後方には巨大な女神の石像が観客と人馬たちを見守るように微笑んでいた。  あの背に乗って大観衆の前を走り抜けたらどんな気分になるのだろう。叶いもしない夢を諦めずにいる。  カナタは観客席の最前列である貴賓席の脇、人馬の入場口付近で他の人馬世話係たちと競走を見守っていた。  カナタの仕事は人馬競走に出場する人馬の世話だ。  十八頭の群れが速度を落とさずにU字の湾曲部へと突っ込んでいく。十八頭の中にはカナタが初めて世話を任されたルキウスという人馬がいた。勝利へと続く狭き進路争いを繰り広げているルキウスが、他の人馬たちと接触して怪我をしないかとカナタはハラハラする。  まだ四歳のルキウスは人馬競走の出場経験が浅い。進路争いの駆け引きは経験豊富な老練人馬の方が圧倒的に有利だ。  試合中、人馬たちは個体識別をするための織物を背につけている。カナタはルキウスの獣の背に垂れ下がっている緑色の織物を懸命に目で追った。  鍛え抜かれた人馬の肉体美、人馬たちの勝利を信じ支える人々、競走の勝敗に熱中する観衆。競技場は情熱に満ちていた。  この人馬競走に憧れて、カナタは大都市アルデバランにやってきた。  十九歳になったばかりのカナタは短く切った黒髪と黒目が大きな瞳、それから黄色い肌をしている。愛嬌のある顔立ちだが、細めのきりっと上がった眉は意志の強さを滲ませていた。アルデバラン人に比べると小柄で華奢であるため、女性に間違われることがあった。しかし人間より強靭な人馬を御する職業についているだけあり、太ももや二の腕が筋肉が発達しており、生命力に溢れた若者らしい体つきである。 「ルキウス、頑張れっ」  屈強な人馬たちと接戦を繰り広げているルキウスに、カナタは思わず着ていたトゥニカの裾を握りしめた。一枚布を頭から被り腰のあたりを紐で止める服、羊毛でできた白茶のトゥニカはアルデバランの市民には一般的な衣服だ。カナタのトゥニカは日々の人馬の世話で薄汚れていた。  観客席から一層の歓声が上がった。終着点である白旗の前を人馬たちが次々に駆け抜け、勝敗が決まった。人馬たちは徐々に減速していく。  ルキウスが怪我をしていないことを確認して、カナタは胸を撫で下ろした。今すぐ駆け寄って試合を終えた彼を労わってやりたいが、世話係が許可なく競技場内に足を踏み入れることは禁じられている。  審判員が競走結果を触れ回る。ルキウスは十八頭中、六位だった。まずまずの戦績だ。順位を予想し掛け金を払っていた観客から歓喜と落胆の声が方々で上がる。  試合を終えた人馬は人馬主たちに手綱を取られ、主賓席に挨拶をして退場するのが通例だ。  脚を止めたルキウスの手綱をカナタの雇い主であるデキムスが掴んだ。貴族のデキムスは富と地位に見合ったトーガという正装を纏っていた。長い一枚の白布が生み出す曲線美がデキムスの自尊心の高さを表しているようだった。  頬がこけ、鋭い目をしたデキムスはカナタと歳はさほど変わらないのだが、健康的で大らかなカナタとは正反対に不安定で神経質な印象だった。  デキムスが手綱を引き退場しようとする。  しかし、ルキウスが轡を強く噛み頭を左右に揺らすと下半身の前腕を持ち上げて飛び上がった。手綱を持っていたデキムスが引っ張られ、制御できず焦り出す。 「くっ、この暴れ馬め」  言うことをきかないルキウスにデキムスは不満の声を上げた。自尊心の高いデキムスの苛立ちの裏には不安の感情が見え隠れする。  その様子を見たカナタは考えるより前に飛び出していた。 「なっ」  突如現れた下僕であるカナタの姿にデキムスは驚く。カナタはデキムスから手綱を奪い、暴れるルキウスの呼吸に合わせ足を動かした。  人馬(じんば)。下半身は蹄のある獣の四つ足、上半身は人間の腕と頭を持つ半人。身長はカナタの頭一つ分高く、獣の胴体はロバほどの長さだ。上半身は人間の身体だが、下半身は馬毛に覆われている。尻まで覆った腰布を付け、その上に試合のための識別用の織物を掛けていた。人間よりも身体が大きく、興奮すると理性を失する彼らを力で制御することは難しい。  ルキウスは金色の髪を乱し、下半身の前腕と後ろ足を交互に振り上げる。粗暴な動作に近くの観客席から怯えるような声が上がった。  人馬には競技場内で人語を話す権利が与えられていないため、常に轡が付けられている。ルキウスは轡の嵌められた口元から低い唸り声を上げていた。  人馬たちと接戦を繰り広げ、興奮状態に陥ってしまったようだ。  試合前からルキウスが人馬競走に出場することに乗り気でないことを世話係のカナタは知っていた。出たくもない試合に人間の一存で無理やりに出場させられて、暴れるルキウスから怒りを感じる。 「ルキウス、落ち着くんだ」  カナタは叱ることなく、凛とした声音で優しく語りかけた。 「ううう……」  ルキウスは唸りながら手綱を握ったカナタを右へ左へと翻弄する。  カナタは手のひらをルキウスの胴につけ、離さない。ルキウスが動いたら一緒に動く。一緒に動いているということは、ふたりの間では動いていないことになる。するとふたりの呼吸が同調していくのだ。  前日の雨でできた水たまりに踏み入ってしまい、ルキウスが飛び跳ねると泥が飛散し、カナタのトゥニカを汚したが、気にしてはいられなかった。  根気強くルキウスに付き合い、動きを合わせているとようやく横にいるカナタに気付き、顔を見てくれた。  日の光を受けて煌く金色の髪、透き通るような白い肌。堀の深い顔立ちに宝石のような青い瞳が埋まっている。中央の鷲鼻は高貴な雰囲気を与えており、まるで貴族の若君のようだ。  顔だけならばアルデバラン中の色男にも負けない。その美しさは人馬であることがもったいないと貴婦人に言わせたくらいだ。  獣の下半身は艶やかな短い白毛で覆われている。人馬の体毛色は鹿毛、栗毛、芦毛など様々あるが、白毛はアルデバランの競走人馬では珍しく、目を惹く。四本の細く、しかし筋肉質で力強い脚が地面を蹴り上げる強壮な姿は生物の神秘を感じさせた。  誰もが認める美しい人馬。ルキウスの世話を任されていることはカナタの誇りだった。  ルキウスは俊敏性と柔軟性を持っている。競走人馬としての恵まれた天賦の才だ。ルキウスならば一番の駿人馬になれるとカナタは信じていた。ルキウスを駿人馬へと伸し上げるのが世話係としてのカナタの役目だと思っている。  怒りが消え、理性の戻ったルキウスがカナタのことを認識すると、目を丸くして小刻みに足踏みをする。嫌な予感がし、逃げるように背を向けたカナタを後ろから抱きしめて頭を擦り付けられた。その身体の大きさと力強さにカナタは抵抗も身動きもできない。  傍目から見ると大きなルキウスに小さなカナタは羽交い絞めにされているとしか思えないだろう。 「いい子だな、ルキウス」  懐いてくれているのは分かるのだが、周囲の目が気になりやめて欲しいという意味を込めて太い腕を労わるように叩くと、ルキウスは鼻息を荒くした。  もっと褒めて欲しいと言っているのか、後方の長い尾はご機嫌に揺れていた。  つられてカナタは口元に笑みを浮かべた。  褒めると喜ぶ。神聖な美しい容姿とは裏腹に子供っぽい素直な反応を返してくれるから、つい甘やかしたくなってしまうのだ。  初めて出会った半年前は傷付いた野生の獣のようにカナタを警戒していた。その時を知っているからこそ、カナタを力いっぱい抱きしめて左右に振り回してまで感情を伝えようとするルキウスが可愛いと思ってしまう。 「世話係! 僕は競技場へ入っていいなどと許可していないぞ」  距離を取って様子を伺っていたデキムスが小走りで近付いてきた。顔を真っ赤にして怒っている。 「すみません、デキムス様」  主に叱責され、慌ててルキウスの腕の中から抜け出した。  ルキウスのことが心配で主であるデキムスの許可を得る前に飛び出してしまった。世話をしている人馬のこととなると、カナタは周りが見えなくなってしまうのだ。  平謝りをするが、デキムスの怒りは治まらない。 「人馬主は僕だぞ。人馬も生意気ならば世話係も指示に従わない。一般市民の分際で僕を見下しているのかッ」  金切り声を上げ、カナタに詰め寄るデキムスから悪感情を感じ取ったルキウスが再び唸り出しそうになるのを宥める。  デキムスは陰気で、使用人のカナタと所有物であるルキウスに対してはいつも権柄尽くな態度だ。ルキウスはデキムスのことを嫌っているようで反抗的な態度をとり、カナタはふたりの間に板挟みになりがちだった。 「僕をお飾りの主と思っている人馬に、我がデキムス厩舎の代表人馬を任せるなど、もっての外。ルペルカーリア祭には出せんッ……かの祭りにわが厩舎から人馬が出場しなかった年は存在しない。これは末代までの恥だッどうしてくれるッ」  デキムスに何度も胸を突かれた。こうなったデキムスには何を言っても無駄だ。カナタは黙ってデキムスの気が済むのを待った。  デキムスは昨年急死した父親に代わり厩舎主を引き継いだ。まだまだ手腕が未熟であることは致し方がないのだが、厩舎運営を軌道に乗せられず焦っていた。従者であるカナタには当たり散らしてばかりだ。  ルペルカーリア祭とは選ばれた駿人馬のみが参加できる、年に一度のお祭りで人馬競走界最高峰の舞台だ。この祭りの時だけは貴族も奴隷も関係なく皆が賭博をしていいことになっている。ルペルカーリアとは旧人馬帝国の王の名前らしい。  人馬競走は神に捧げる神事とされている。競技を取り仕切っているのは教会であり、人馬たちは教会の所有物であった。デキムスのような人馬主は厩舎を持ち、教会から人馬を借り受けて育成し、人馬競走に勝つことで名誉と賞金を得ている。  デキムス厩舎には現在、人馬は二頭しか所属していない。ルペルカーリア祭に出場できる可能性のある現役競走人馬はルキウスだけだった。 「主に尊敬の念を抱けないのは世話係の教育がお粗末だからだッ」  衆人の前であるというのにデキムスの説教は延々と続く。容赦のない怒鳴り声に近くの観客席の婦人たちが不愉快そうな表情をしている。  カナタにも落ち度はあった。乾いた唇を噛みしめてカナタは叱責を受け止める。  これも仕事の内だ。傷付いていたら、きりがない。  すると突然ルキウスが再び大きく前脚を振り上げ水たまりの中へと力強く着地した。泥水が大きく跳ね、カナタの頬とデキムスの顔面へとこびりついた。 「ルキウス!?」 「ぎゃっ」  カナタが驚き、デキムスが情けない声を上げると、控えていたデキムス付きの従者が慌ててやってきた。 「目が痛いッ。どうして僕がこんな目に合うんだ」 「デキムス様、こちらへ早く」  視界不良になり泣きそうな声を出しながら顔を拭うデキムスを従者は誘導し、競技場を出て行く。  主の哀れな姿にカナタは同情しつつ、隣にいるルキウスを見上げた。 「……わざとやっただろう」  ルキウスは目を細めると、尾を揺らした。まるでいたずらが成功して喜んでいる子供みたいだ。 「これ以上デキムス様に嫌われてどうするんだよ」  肩を落とすと、ルキウスがとぼけた顔をした。全く悪びれていない。  カナタの頬が汚れていることに気付くと手の甲を擦り付け、泥を拭った。野暮な動作だが、カナタを巻き込んで汚してしまったという申し訳なさが伝わってきた。  その手をカナタが両手で握ると、ルキウスは首を傾げる。 「……ありがとな」  小さく礼を言うと、ルキウスは深く呼吸し、胸を上下させた。ふいと顔を背けてしまう素振りは照れくさそうであった。  ルキウスはデキムスに一方的に責められているカナタを見ていられなかったのだろう。カナタを助けるために、少々乱暴な手段でデキムスを退散させたのだ。  言葉を交わしたことはないが、ルキウスは世話係であるカナタを気遣ってくれる。  その優しさが嬉しい。  世話係と競走人馬の絆のようなものを感じて、カナタの心は温かくなった。デキムスには駄目な世話係だと罵られてばかりだけれど、ルキウスから信頼を寄せられていることが、カナタの自信になっていた。  これからもずっとルキウスの成長を世話係として見守っていきたい。  退場したデキムスに代わり、ルキウスの手綱を引き貴賓席に挨拶をして、カナタは競技場を出た。

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