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第2話

   ◆  アルデバランはかつて人馬の国だった。二百年前、人間と人馬の間に戦争が起こり、長い戦いを勝利した人間はこの地を乗っ取った。生き残った人馬はほんの僅かだった。しかし人間が治めるようになってからアルデバランには天災や疫病が相次いだ。困り果てた王はこの地で人馬たちが行っていたという無病息災を願う祭りを復活させた。  それが人馬競走である。  以来、戦争捕虜だった人馬たちは教会に管理されるようになり、人馬競走を執り行うためだけに生かされている。  やがて人馬競走は民衆に根付き、娯楽として楽しまれるようになった。  カナタは遊牧民の一家に生まれ育ったが、幼い頃に立ち寄ったアルデバランで人馬競走に夢中になり、ひとり立ちしたら人馬競走に携わる人生を送りたいと思うようになった。  人より何倍も速く走る人馬の背に乗り走ったら、どんな景色が見えるのだろう。人馬に乗ってみたいと胸躍らせてアルデバランにやってきたが、騎乗できるのは神のみとされており、人間が乗ることは禁止されていることを知りがっかりしたものだ。  アルデバランは王の居城を中心として、放射状にインスラと呼ばれる四角い集合住宅が建ち並ぶ大都市だ。  競技場は都市から離れた郊外にあり、その周りには人馬主の厩舎が点在していた。カナタが所属するデキムス厩舎もそのひとつだ。  デキムス厩舎にはルキウスと競走人馬を引退した老人馬の計二頭の牡人馬が所属している。他の厩舎に比べれば所属頭数も少なく、競走成績も振るわない弱小厩舎だ。  厩舎の運営状況は悪く、世話係は半年前にやってきたカナタひとりしかいない。人馬競走の練習、食事の準備、厩舎の掃除、運動場の整備。人馬は二頭だけといってもカナタひとりでこなせる量の仕事ではなかった。  デキムスは結果にこだわるくせに、競走人馬への投資は渋る。世話係が増える兆候はなかった。  デキムス厩舎所属の人馬で競走に出られるのは今はルキウスしかいない。ルキウスに好成績を出してもらい、賞金を稼いでデキムスを納得させ、資金を増やすしか現状を打破する方法はない。アルデバラン中の市民が注目するルペルカーリア祭はデキムス厩舎の一発逆転を狙う絶好の機会だ。  試合から三日後。カナタは運動場の整備をしていた。  人馬が走り回った運動場は土が盛り上がり、でこぼこになってしまう。硬く盛り上がった土に人馬が足を取られて転倒しないように、新しい柔らかな土を撒いて平らにしていく。  無数の蹄の跡が運動場に道を作っていた。かつてここに多くの人馬が走っていたことを連想させた。道が消えてしまわないように、土の量を調整していく。  ルキウスは地面に蹄を擦り付け、カナタが撒いた新しい土の感触を確かめるように飛び跳ねた。  日の光を受けてルキウスの白い巨体が煌く。走る姿はいつもの甘えん坊の顔からは想像できないほどに雄大で生命力に溢れている。見惚れてしまいそうになり、カナタは気を引き締めた。  ルキウスを試合で勝てる人馬にするために練習をしなくては。  しかしルキウスは毎回カナタが手綱を持ち、調教しようとすると、立ち止まって動かなくなってしまうのだ。練習を頑なに拒むルキウスからは、試合出場に対するやる気が一切感じられなかった。  ルキウスは柔らかな土の上をご機嫌に飛び跳ねた。寝転がると泥を身体に擦り付ける。いつもよりはしゃいでいる。まるで親の言うことをきかない子供のように無邪気で遊ぶことにも全力だ。  四歳のルキウスは人間の年齢で十六歳くらいだ。カナタにとっては身体の大きな弟のようで危なっかしくて目が離せない。 「怪我するなよ」  ルキウスは返事をしたのか轡の下で短く唸った。競走人馬は競技場内では轡の装着が義務付けられているが、それ以外の場所では自由だ。しかしデキムス厩舎では人間と人馬が言葉を交わすことは許されず、ルキウスは常に轡を装着している。  人間と人馬は立場の線引きをされている。  どうしたらルキウスは練習に取り組んでくれるだろうとカナタは途方に暮れた。  俯き、ため息をつくと、突然ドンッという音がした。驚いた鳥たちが鳴き声を上げながら飛び立っていく。  カナタが顔を上げると、先ほどまで元気そうに走っていたルキウスが、運動場の隅にあるコンクリートの物置にぶつかり、ぐったりと倒れていた。 「ルキウス」  考えるより先にカナタはルキウスに駆け寄った。  ルキウスの頭からは血が流れている。痛みに顔を歪ませ、荒い呼吸を繰り返していた。ただはしゃいで頭をぶつけただけにしては様子がおかしい。原因に思い当り、カナタは奥歯を噛みしめた。 「とにかく止血だ」  ルキウスの腰布を破り頭に巻き付けていると、騒ぎを聞きつけたのか厩舎の中で織物の作業をしているはずの老人馬のヤンツが足を引きずりながら出てきた。 「ヤンツ、ルキウスを運ぶのを手伝って」  カナタの体重の何倍もあるルキウスをひとりだけでは動かすこともできない。  伸びた白髪と眉毛に目元が覆われ、口元は白髭だらけの表情の分からないヤンツが、痩せ細った身体を懸命に動かしてこちらへと来てくれた。競走人馬を引退した老人馬のヤンツは普段は織物の仕事をしている。ルキウスの試合用識別布なども作っていた。デキムス厩舎でたったふたりだけの人馬だ。ヤンツもルキウスを心配してくれているのだと思いたい。  荷車に積んであった運動場に撒くための土を全てその場に捨て、ヤンツと共にルキウスを乗せた。 「後は頼む」 「……ううっ」  ヤンツの背中を押して、カナタは急いで主であるデキムスの邸宅へとなだらかな坂を駆け上がった。  傍にいてやりたいが、ルキウスを助けるためにカナタにはやらなくてはならないことがある。  厩舎と隣接するデキムスの邸宅はコの字型の巨大な屋敷だ。使用人であるカナタは邸宅で寝起きし、昼間の大半を厩舎で過ごしている。  邸宅に着くと同僚に主の居場所を問い詰め、大広間で食事中のデキムスの元へと飛び込んだ。  デキムスの口元を、従者がナプキンで拭く。あからさまに嫌な顔をされたが、構ってられなかった。  乱れた呼吸を整えながら、カナタはデキムスに向き合った。 「ルキウスが発情して倒れました」  人馬の牡は発情すると本能を抑えられなくなり、性的興奮が治まるまで暴れまわる。どうやらルキウスがいつも以上にはしゃいでいたのは、発情の前兆からくる行動だったのだ。理性を失したルキウスはコンクリートの壁に頭をぶつけてしまった。  世話係だというのに、近くにいたのにルキウスの体調の変化にも気付いてやれなかった自分が不甲斐なくて、カナタは乾いた唇を噛んだ。 「またか。あの人馬はどれだけ色欲が強いんだ」 「鎮静剤を与えてやりたいんです」 「許可しない。今月何回目だと思っているんだ。鎮静剤は高価なものなんだぞッ。あの可愛げのない人馬の性欲のために僕がいくら金を払ったと思っている」  抑揚をつけた高圧的な声に、カナタは怯んだ。  デキムスの言い分は分かる。ルキウスは今月に入ってすでに三回発情し、鎮静剤を与えている。  一度発情すれば、鎮静剤を与えるか、牝と交尾をさせて性欲を満たすかしなければ、治まらない。どちらも難しい場合は自然に治まるのを待つしかないが、人馬の発情は三日三晩続く。その間にまた暴れて、怪我をすれば命に関わる事態に陥るかもしれない。 「デキムス様、お願いです。このままではルキウスが死んでしまうかもしれません。どうか、お願いします」  カナタは頭を下げたがデキムスは相手にせず、従者が口元へと運んだスープをすすっている。 「ふん、もう世話係と人馬の性欲について話すのも飽きた。明日、医師を呼べ。あの人馬を去勢する」 「……えっ?」  カナタはデキムスから発せられた言葉が信じられず、狼狽えて情けない声を出してしまった。  去勢。ルキウスの生殖機能を取り除くというのか。 「話は終わりだ。こいつを摘まみ出せ」 「待ってくださいっ。ルキウスはまだ若い。去勢をしなくてもアルデバランで一番の競走人馬になれるかもしれないんです。去勢をしたら種人馬にはなれなくなります。その可能性をデキムス様は自ら潰すおつもりなのですかっ」 「試合で勝つ気もない、主人を馬鹿にする人馬も去勢すれば改心するかもしれないしな」  口元を歪めてデキムスは笑った。  ルキウスのことを物のように扱うデキムスに絶望を覚えた。次に悔しさが滲み出し、カナタは奥歯を噛みしめた。  デキムスに食い下がろうとするカナタの両腕を従者たちが捕らえ、カナタは部屋の外へと放り出された。大きな音を立て閉じられてしまった扉を何度も力一杯叩いたが、閉じられた扉が開くことはなかった。

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