13 / 126

第1章 契り 10

《perspective:結月》 「笠原詩織さんとの婚約を、待っていただきたい」 俺は真っ直ぐに祖母の顔を見据えた。 亜矢の言葉を聞いてハッとした。 俺は何がしたいのか。本当はどうしたいのか。 これまで自分の意志はすべて閉じ込めてきた。失うのが怖くて、人と関わることすらしなかった。 俺はもうそれでいいと思っていた。 亜矢に出会ってそれが崩れた。 すべて諦めていた心の中に、初めて、人を愛したいという欲が生まれた。 まるで機械のように冷たい心に、熱を取り戻してくれたのは、亜矢だ。 気づけば足は勝手に、祖母のところに向かっていた。 大広間で寛いでいるのを見つけた瞬間、それまで言おうと決めていたかのように、その言葉が直ぐに口をついた。 一瞬沈黙が流れ、祖母は持っていたカップをカチャリとテーブルに置いた。 「……結月さん、貴方、自分が何を言っているのか分かっているのですか。話はもう進んでいるのですよ?そんな馬鹿なことをっ……」 鋭い瞳で俺を見る。この目に、俺はどれだけ服してきたことか。 「詩織さんとはそれなりに充分お付き合いした。……私はもう、自分の気持ちに嘘をつきたくありません」 「貴方は一ノ瀬の将来がどうなったっていいんですか?」 「……大切な人が、できたんです」 亜矢の顔が脳裏に浮かんだ。無垢なあの笑顔や、与えてくれた純粋な言葉が、俺を無機質な世界から救ってくれた。 出会ったあの日、何かの恐怖を纏った亜矢を、今度は、この手で救いたい。 射抜くような瞳を見つめ返すと、祖母は呆れたように溜息をついた。 「次期社長というのに、そんな私情だけで……。私は絶対に許しません」 それを聞いて思わず冷笑する。 「……次期社長?どうせそうさせる気も無かったんじゃないですか?私は、父さんが外でつくった子供ですから」 言い終わるなり、左頬に鋭い痛みが走った。 「よくもそんなことをっ……。口を慎みなさいっっ……!!」 老婦人にしてはとてつもなく大きい怒声が屋敷中に響く。「結月様ッ」と隣から神霜の狼狽える声が聞こえた。 辺りが騒然とするのを無視し、俺はゆっくり口を開いた。 「妾の子だからって、今までずっと我慢してきました……ですが、もうそれも限界です」 「……」 「笠原家と結ぶ覚悟は出来ています。でもその前に……少しだけ、時間をください……」 そう言葉を続けて、静かに頭を下げた。 祖母は明らかに動揺した目を向けたあと、俺から視線を逸らした。 「はっ……大体、貴方の言う大切な人というのは……」 「結月さん……」 微かに聞こえる、小さな小さな声。 直ぐにその声のする方へ目を走らせる。 屋敷の者たちの間から、不安そうに俺を見つめる亜矢の姿を見るなり、腕を掴んで前へ引っ張り出した。 「ゆづ……」 「私にはこの子が必要なんです」 瞬刻の静けさ。そして再びどよめきが起こった。 祖母は狐に抓まれたかのように目を丸くして、何も言わずに俺を見据えていた。 亜矢に視線を向ける。混乱したような表情を浮かべた後、たちまち顔を真っ赤にした。 ああ、やっぱり……―― 「――亜矢、おいで」 大勢の人の視線を感じながら、戸惑う亜矢の手を引いて自室へと向かった。 扉が閉まり1階のざわめきが消える。不安そうに見上げる亜矢の肩を引き寄せ、腕の中に閉じ込めた。 「亜矢……」 小さく名前を呼ぶと、微かに亜矢の体が強張った。その細い体をさらにきつく抱き締め、言葉を続けた。 「仕方がないと思ってた、全部……。だから、ずっと祖母の言いなりになって、愛のない行為なんか繰り返して……」 「結月さん……」 「何かに対して欲を持つことを、ずっと諦めていた。君への感情も、何度も抑えようとした。だが、それももう、無理みたいだ」 潤んだ榛色の瞳を真っ直ぐに見つめる。 「亜矢が好きだ」 見開いた目から一滴の涙が零れた。 静かに流れるその雫は、とても綺麗だった。 「……本当に……?」 震える声で訊ねる亜矢の頬に手を添えて、上を向かせる。そして濡れた唇に口づけた。 優しく重ねるだけ。それでも、そこから伝わる熱に翻弄されるように愛おしさが心を満たす。 ずっと望んでいた。こうすることを。 ゆっくり唇を離すと、驚いた様な丸い瞳が俺を見つめていた。 不意に背中に手が回る。亜矢は赤く染めた頬を擦り寄せるように胸に顔を埋めた。 「嬉しい。大好きです……結月さん……」 その言葉は、優しく、透き通っていて、心にじんわりと響いた。 嬉しいのは俺のほうだ。 ようやく温もりを手に入れた。もう失いたくない。 今、願うことは、一つだけ。 「俺の傍にいてほしい」 ――たとえそれが永遠でないとしても。

ともだちにシェアしよう!