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第1章 契り 10
《perspective:結月》
「笠原詩織さんとの婚約を、待っていただきたい」
俺は真っ直ぐに祖母の顔を見据えた。
亜矢の言葉を聞いてハッとした。
俺は何がしたいのか。本当はどうしたいのか。
これまで自分の意志はすべて閉じ込めてきた。失うのが怖くて、人と関わることすらしなかった。
俺はもうそれでいいと思っていた。
亜矢に出会ってそれが崩れた。
すべて諦めていた心の中に、初めて、人を愛したいという欲が生まれた。
まるで機械のように冷たい心に、熱を取り戻してくれたのは、亜矢だ。
気づけば足は勝手に、祖母のところに向かっていた。
大広間で寛いでいるのを見つけた瞬間、それまで言おうと決めていたかのように、その言葉が直ぐに口をついた。
一瞬沈黙が流れ、祖母は持っていたカップをカチャリとテーブルに置いた。
「……結月さん、貴方、自分が何を言っているのか分かっているのですか。話はもう進んでいるのですよ?そんな馬鹿なことをっ……」
鋭い瞳で俺を見る。この目に、俺はどれだけ服してきたことか。
「詩織さんとはそれなりに充分お付き合いした。……私はもう、自分の気持ちに嘘をつきたくありません」
「貴方は一ノ瀬の将来がどうなったっていいんですか?」
「……大切な人が、できたんです」
亜矢の顔が脳裏に浮かんだ。無垢なあの笑顔や、与えてくれた純粋な言葉が、俺を無機質な世界から救ってくれた。
出会ったあの日、何かの恐怖を纏った亜矢を、今度は、この手で救いたい。
射抜くような瞳を見つめ返すと、祖母は呆れたように溜息をついた。
「次期社長というのに、そんな私情だけで……。私は絶対に許しません」
それを聞いて思わず冷笑する。
「……次期社長?どうせそうさせる気も無かったんじゃないですか?私は、父さんが外でつくった子供ですから」
言い終わるなり、左頬に鋭い痛みが走った。
「よくもそんなことをっ……。口を慎みなさいっっ……!!」
老婦人にしてはとてつもなく大きい怒声が屋敷中に響く。「結月様ッ」と隣から神霜の狼狽える声が聞こえた。
辺りが騒然とするのを無視し、俺はゆっくり口を開いた。
「妾の子だからって、今までずっと我慢してきました……ですが、もうそれも限界です」
「……」
「笠原家と結ぶ覚悟は出来ています。でもその前に……少しだけ、時間をください……」
そう言葉を続けて、静かに頭を下げた。
祖母は明らかに動揺した目を向けたあと、俺から視線を逸らした。
「はっ……大体、貴方の言う大切な人というのは……」
「結月さん……」
微かに聞こえる、小さな小さな声。
直ぐにその声のする方へ目を走らせる。
屋敷の者たちの間から、不安そうに俺を見つめる亜矢の姿を見るなり、腕を掴んで前へ引っ張り出した。
「ゆづ……」
「私にはこの子が必要なんです」
瞬刻の静けさ。そして再びどよめきが起こった。
祖母は狐に抓まれたかのように目を丸くして、何も言わずに俺を見据えていた。
亜矢に視線を向ける。混乱したような表情を浮かべた後、たちまち顔を真っ赤にした。
ああ、やっぱり……――
「――亜矢、おいで」
大勢の人の視線を感じながら、戸惑う亜矢の手を引いて自室へと向かった。
扉が閉まり1階のざわめきが消える。不安そうに見上げる亜矢の肩を引き寄せ、腕の中に閉じ込めた。
「亜矢……」
小さく名前を呼ぶと、微かに亜矢の体が強張った。その細い体をさらにきつく抱き締め、言葉を続けた。
「仕方がないと思ってた、全部……。だから、ずっと祖母の言いなりになって、愛のない行為なんか繰り返して……」
「結月さん……」
「何かに対して欲を持つことを、ずっと諦めていた。君への感情も、何度も抑えようとした。だが、それももう、無理みたいだ」
潤んだ榛色の瞳を真っ直ぐに見つめる。
「亜矢が好きだ」
見開いた目から一滴の涙が零れた。
静かに流れるその雫は、とても綺麗だった。
「……本当に……?」
震える声で訊ねる亜矢の頬に手を添えて、上を向かせる。そして濡れた唇に口づけた。
優しく重ねるだけ。それでも、そこから伝わる熱に翻弄されるように愛おしさが心を満たす。
ずっと望んでいた。こうすることを。
ゆっくり唇を離すと、驚いた様な丸い瞳が俺を見つめていた。
不意に背中に手が回る。亜矢は赤く染めた頬を擦り寄せるように胸に顔を埋めた。
「嬉しい。大好きです……結月さん……」
その言葉は、優しく、透き通っていて、心にじんわりと響いた。
嬉しいのは俺のほうだ。
ようやく温もりを手に入れた。もう失いたくない。
今、願うことは、一つだけ。
「俺の傍にいてほしい」
――たとえそれが永遠でないとしても。
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