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第1章 契り 09

《perspective:結月》 『触らないでっ……』 勢いよく叩かれた手が痛い。心が、痛い。 こんなにも俺は、穢れた人間になっていたのか。 あの時の亜矢の目が脳裏に焼きついている。 嫌忌にひきつる顔、背信の涙でゆれる瞳。全てが、俺を拒絶した。幻滅させた……。 亜矢を置き去りにしてしまったことを今更ながら後悔する。 『好きでもない人を平気で抱けるなんて』。その言葉は刃物となって心に突き刺さった。その行為はいつも罪悪感で包まれているのに、結局抗えない。そんな愚かな自分に腹が立って、亜矢に当たるような真似をしてしまった。 はっきりと確信を持てるくらいに、好きだという感情は強くなっている。 亜矢だけを愛することが出来たのなら……。 “出来やしないわ、そんなこと……” 頭の中で、祖母の声がそれを打ち消した。 “だって、愛されて生まれてきた子ではないもの。……人殺しの子だもの……” ……解っている。絶対に駄目だ。 亜矢への気持ちは、噛み殺してしまわなければ。 あのことで、きっと俺を嫌っただろう。それでいい。 この感情が押さえきれなくなる前に、もう手が届かないくらいに離れてしまえばいい……――    * * * 《perspective:亜矢》 次の日、僕は誰もいないスタッフルームのテーブルに、クリーニングに出したエプロンを置いた。 ……もうここにはいられない。 神霜さんにそう告げると、寂しそうな目を向けられた。 「結月様が悲しまれますよ……宮白さんが此処にいらしてから、とても愉しそうでしたから……」 結月さんの優しい顔がふと思い出される。 僕なんかでも、笑顔にすることは出来たんだな……。 この結果は自業自得だ。 少しの時間であっても会えるだけでいいと、そう心に決めていたのに、勝手に結月さんの中に踏み込んで、それ以上の関係を求めてしまった罰。 彼の顔を見たら決心が鈍るのは分かっている。だからすぐにこの屋敷から出なければ……。 ドアノブに手をかけた瞬間、目の前の扉が開かれた。 「亜矢」 そこに居たのは結月さんだった。 目が合ったのはすごく久しぶりな気がして、僕はその場で固まってしまう。 大好きな、紺青の瞳。もう見ることは出来ないんだろう。 「……神霜から聞いたよ、もうここには来ないって。本当なのか?」 僕は小さく頷く。 「……そうか……もう充分働いたしな」 静かにそう言った結月さんの声が、遠くで響いた。 そうだ。元々、濡らしたスーツを補償する為に此処に来たんだ。 最初からただそれだけだったんだ。僕たちの関係は……。 あの一件が無かったとしても、理由がなくなった今、此処にいる必要性が僕にはない。 「っ……」 泣くな、泣くな……。涙が溢れないようにギュッと目を瞑る。 勘違いをしていたのかもしれない。ずっと結月さんの隣で笑っていられると。 彼の優しさにかまけて、勝手に自惚れて……。 「……亜矢」 静かに発せられた僕の名前。その声色は柔らかかった。 「っ……馬鹿みたい……僕……」 どうしようもなく胸が熱い。 「あんなにも、嬉しい言葉、もらったことなかったから、浮かれてたんです……もしかしたら、って……」 心の奥底に溜まっていたものが、涙に乗せて次々と言葉になって溢れ出した。 「結月さんの、もっと近くに居たいって……触れてみたいって……ずっとそう思ってました……」 服の裾をギュッと握り締める。結月さんが僕を見つめているのが気配で分かった。 「亜矢……」 「結月さんのことが、好き、なんです……」 僕は嗚咽を漏らしながら、感情をそのまま口にしていた。 沈黙が僕を襲う。 涙が溢れてとまらない。結月さんの顔が見れない。 何でもいい。何か言って欲しい。 祈るように目を閉じていると、結月さんがそっと僕の頭を撫でた。 「……つらい思いさせて、ごめん……」 上から降ってくるその言葉に、僕は顔を上げることもできないまま、部屋を出て行く音を聞いた。 「……ゆ……づきさん……」 ……伝えてしまった。ずっと夢見てた言葉もなかった。もう本当に、終わりなんだ―― そう思った瞬間、全身が冷たくなっていくのを感じた。 終わりはあまりにも突然に訪れる。 虚無感だけを残して……――    * * * 重い体を引き摺りながら部屋から出ると、なにやら1階の方が騒がしい。 「あっ亜矢ちゃん!」 大広間に集まっていた使用人さん達の一人が僕を呼び止めた。 「……何かあったんですか?」 「結月様と会長が……」 「……え?」 バシッ!! 突然何か弾けたような音がして、それと同時に、人々がはっと息を呑んだのが分かった。 一体何が……。僕はその人集りの間を縫って前に出た。 その瞬間。 「よくもそんなことを……。口を慎みなさいっっ!」 屋敷に響く怒号。そして僕の目に飛び込んできたのは、頬を真っ赤に腫らして会長と向き合う結月さんの姿だった。

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