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第1章 契り 08

僕は泣き腫らした顔を元に戻すことが出来ないまま、モップを持って仕事に戻った。 「ずいぶんと遅かったわね……って……亜矢ちゃん?!」 「どうしたの、その顔……!大丈夫?」 侍女さん達が心配そうに駆け寄ってくる。 「大丈夫です……ほこりが目に入っちゃって……」 咄嗟に下手な嘘をついてしまった。きっと本当のことではないと解ったのだろう。侍女さん達は腑に落ちない顔で僕を見ていたけど、「ちゃんと洗わないと駄目よ」と直ぐに明るく声を掛けてくれた。 それから一時間程、結月さんは姿を現さなかった。 女性を送り出す時、僕ははっきりと彼女を見た。綺麗な巻き髪の、モデル体型の美人だった。 あれが、笠原嬢か……。身分も、容姿も、結月さんにすごく似合ってる。 そう思って、チクンと胸が痛んだ。 「亜矢」 「……っ!!」 唐突に結月さんから声を掛けられ、ビクリと肩が跳ねる。 紺青の瞳がじっと僕を見つめていた。 ――何もかも、見透かされてる気がする。この気持ちを知られるのが怖い。今日は傍に行きたくない……。 「俺の部屋に、茶をお願いできるか」 「は、い……」 仕事なので拒否するわけにもいかない。僕は紅茶を淹れて結月さんの仕事部屋へ向かった。 視線を合わせないようにしたまま「どうぞ」と、彼の目の前にカップを置く。 「ああ、ありがとう」 「では……失礼します」 一刻も早く此処から立ち去りたくて、直ぐに部屋から出ようとした途端、「待ちなさい」と彼に呼び止められてしまった。 「っ……何ですか?」 「いつまでそうやって俯いているつもりだ」 振り返りもせず無言で下を向いていると、結月さんが近づいてくるのが気配で分かった。 「亜矢は笑顔が可愛いのに」 その言葉に今さっき見た光景が思い出される。 「……そんな台詞、誰にでも平気で言うんですね。そんなの、あの人にいくらでも言えばいいじゃないですか」 軽く睨んで噛み付くようにそう言うと、結月さんは小さく溜息をついた。 「……やっぱり見ていたか。覗き見なんて悪趣味だぞ、亜矢」 「あの人、結月さんの彼女ですか……?」 平静を装って聞いてみる。返される答えは肯定だと思っていた。それなのに。 「違う……ウチと繋がりのある会社の令嬢だ。……ただ、それだけだ」 ただ、それだけ……?それだけの関係であんな事を……? 「悪趣味なのは、貴方の方です。好きでもない人を平気で抱けるなんて……」 厭味な台詞が勝手に口をついて出る。 ――結月さんは、僕を犯す男達と一緒じゃないか。 “彼は違う”。そんなことは解っているはずなのに、嫌忌と絶望感が心の中を支配する。 「亜矢、会社の将来が懸かってるんだよ……しょうがないだろ?」 結月さんが弁解するように話すのを黙って聞いていると、「亜矢?」と困惑した瞳を向けられ、そっと肩に手を置かれた。 「触らないでっ……」 手の甲の僅かな痛みに、ハッと自分のしたことに気づく。 咄嗟に彼の手を払っていた。 僕は無意識に重ねていた。穢れたあの男達と結月さんを……。 結月さんは目を見開いて僕を見た。 謝らなきゃ、結月さんに、ちゃんと……。 そう思うのに言葉が出てこない。目を見つめたまま立ち尽くしていると、彼はスッと視線を外した。 「解らないのだったら……もういい……」 呆れたような、空気を含んだ掠れた声に、全身が強張る。結月さんはそのまま僕の横を通り過ぎて部屋を出て行ってしまった。 静かな部屋にひとり取り残され、ただ呆然とする。 怒らせた……大好きな結月さんを。 あんなに酷いことを言ってしまった。 何してるんだよ、僕は……。 「っう……ひ……く……」 さっきあれほど泣いたのに涙は次々と溢れてくる。 心が苦しい。 もう人を好きになることなんて、ないと思っていた。 あんなに苦しい思いは二度としたくないと、感情に蓋をした。 そうして忘れたはずだったのに――

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