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第1章 契り 07
《perspective:亜矢》
『……可愛い』
囁かれた艶っぽい結月さんの声が、まだ耳に残っている。あれから3日も経つけれど、その声はなかなか頭から離れてくれなかった。
“可愛い”なんて、これまで沢山言われてきた。容姿にコンプレックスのある僕にとって、それは大嫌いな言葉だった。
でもあの時は違った。動揺を隠せないほど心が震えた。
彼の心臓の音を聞いていたからだろうか。結月さんも緊張してるのかな、なんて、少しだけ自惚れてしまった。
あの後から、変に意識してしまい、気づけば彼の後ろ姿を目で追ってしまっている。目も合わせることが出来ないくせに、あの時の心地良い体温をまた感じたくなってしまう。
――駄目だ。自ら男の人に触れたいと思うなんて、ありえない。これまで辛い思い、たくさんしてきたじゃないか。
特別な感情なんて持ってはいけない。
たとえ少しの時間であっても、結月さんに会えるだけで嬉しいんだ。あの温かい笑顔を見られるだけで、充分じゃないか……
* * *
終業のチャイムが鳴ると同時に、僕は教室を出た。
今日こそは、ちゃんと目を見て話さなければ。このままだと、変に思われてしまうから。それに、結月さんは「笑っていてくれるだけで良いよ」と言ってくれた。心配をかけたくない。固く決心して、いつもより早めに向かう。
屋敷に着くと、門の前に見慣れないベンツが停まっていた。誰だろう、と思いながらチャイムを鳴らして門を開けてもらうと、「いつもごくろうさまです」と神霜さんが出迎えてくれた。
「あの。今日誰かいらしてるんですか?」
「はい。笠原家のお嬢様がお見えで……」
お嬢様か……。結月さんは一ノ瀬グループの社長子息だから、そういった良家同士の交流はあるのだろう。僕には縁のない世界でよく分からないけれど。
「……宮白さん」
僕がスタッフルームに入ろうとすると、神霜さんが声をかけた。
「西棟の二階には上がらないようにと、結月様から伝言を預かっております。ですので、今日はそこの掃除は無しということで、お願いしますね」
普段はあまり見せない神妙な面持ちに、何故なのか理由は聞かず、「分かりました」と承知して、着替えて仕事場へ向かった。
「亜矢ちゃん、今日も頑張ってるわね」
「ほんと。学校もあるのに尊敬しちゃうわ」
いつも侍女さん達と一緒に雑務や掃除をしながら、色々な会話をする。それだけで仕事は苦にはならない。
「それにしても、結月様が亜矢ちゃんを連れてきたときはびっくりしたわ」
「だって結月様が外に出ていること事態、珍しいことだものね」
「え……?」
その会話に、僕は手を止めて振り返った。
以前、神霜さんも同じようなことを話していた。僕のことを、結月さんが“初めて連れてきた人”だと。
外に出ていることが珍しい? 確かに仕事もよく家でしているようだけれど……。
「結月様、私用では滅多に外に出られないのよ。いつも外出は仕事関係ばかり。会長が外と関わらせたくないみたいで」
「会長って……結月さんのお祖母様でしたよね」
「そう。創業者ですべての権限を握ってるの。社長は息子……結月様のお父様ね、その方に継いだけれど、社を実際動かしてるのは未だに会長なのよ」
そこまで聞いてふと気づく。
「そういえば結月さんのお母さんは?」
訊ねると、侍女さんの一人が僕に顔を寄せて声を潜めた。
「あのね……実は……」
「だめよ!私たちが言うべき事じゃないわ。亜矢ちゃん、倉庫からモップ取ってきてくれる?」
怒ったように阻止されて、話は終了してしまった。
結月さんのお母さんのことで、何かあるのだろうか。
お祖母様が外と関わりを持たせないようにしているというのも、気にかかる。どういう意味なのだろう。
考えてみれば、此処には色々な分野の使用人さん達が多く雇われている。この屋敷の中で完結できてしまうのではないかというくらい。いくら大企業の創業元の家だからといって、この時代、他の良家でもあることなのだろうか。
僕は結月さんのことを何も知らない。まだ今の関係じゃ踏み込めない。いつか知れる時が来るのだろうか。
そんな事を考えながら、言われたとおり、モップを取りに倉庫へ向かう。
屋敷は二つの棟に分かれている。接客や会合にも使われる大広間をはじめ複数の客間や簡易オフィス、各人の仕事部屋などがある東棟。自室や寝室、書斎、キッチン、バスルームなど、主に私生活を過ごす西棟。倉庫は両棟を繋ぐ渡り廊下の手前に位置していた。
――そういえば神霜さんが西棟の二階には行くなって言ってたっけ。西棟に入らなければいいんだよね。物を取ったらすぐに出ていこう。
仕事だからしょうがないと、引き返そうとした足を戻して急ぐ。
静かな廊下に床の軋む音が響く。薄暗く、不気味な雰囲気が漂っていた。
いつもついているはずの廊下の電気が何故消えているのだろう。不思議に思っていると、かすかに呻く様な声が僕の耳に入ってきた。
ハッと足を止めて聞き耳を立てる。
西棟の手前から二番目の部屋……結月さんの寝室からだ。結月さんの身に何か……。
不安に駆られてそっとドアに手を伸ばした。
扉を開けた瞬間、背筋が凍る。
目に映ったのは、女の人を愛おしそうに抱く、結月さんの姿だった。
* * *
頭を鈍器で殴られたかのように、僕はショックでそこから動けなくなった。
目の前に広がる官能的な光景に目を奪われてしまう。
初めて見る結月さんの裸体。綺麗な白い肌が汗で光っていた。時々濡れた髪を掻き上げるから、嫌でも彼の表情が見えてしまう。
快楽に歪む眉。
キスを繰り返す整った唇。
妖しく女性を見つめる、僕の大好きな瞳。
首に腕を回しながら女性が結月さんの名前を呼ぶ。それに答えるように彼が腰を抱いた。
「……っ……し……おり……」
掠れたその声を聞いて、黒い感情が込み上げてくる。
――嫌だ、そんな甘い声で呼ばないで……!
結月さんに触らないで……。
見ていられなくてそっと扉を戻そうとした、その瞬間。
「……綺麗だよ……詩織……」
結月さんのその言葉に、目の前が真っ暗になった。
ガチャンと音を立てて扉が閉まる。
気づかれてしまったかも、なんて、そんなことを気にする余裕もなかった。
“……綺麗だよ……”
結月さんが女の人に言った言葉が、頭の中で何度もリフレインする。
僕はあの日、結月さんのその言葉に救われた。
それなのに、あんな簡単に、発せられた言葉だったの……?
閉じた扉の前に佇んだまま、気づけば、涙が頬を流れ落ちていた。
――僕は、結月さんが好きなんだ。
こんなにも、強く嫉妬してしまうほど、好きなんだ……。
一気に湧き上がる想いをどうすることもできず、暫くそこから動けなかった。
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