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第1章 契り 12

《perspective:亜矢》 ゴトン、ゴトン。 決して軽快とは言い難い包丁の音がキッチンに響く。 結月さんは眉をひそめて、慎重に人参を乱切りにしている。丁寧が故にゆっくり過ぎて手付きが危なっかしく、僕はハラハラとそれを見つめた。 『料理を教えてほしい』。 前々から結月さんが僕にそうお願いしていて、忙しい彼にようやく時間が出来た今夜、夕食のポトフを一緒に作ることになったのだ。 聞けば包丁を握ったことがないらしい。たしかに、自分で料理をするイメージは全く無いけれど、それなりに何でも器用にこなすだろうと思っていた。だから、いつも涼しい顔で対応している結月さんが、こんなにも険しい表情で悪戦苦闘しているのを見て驚いてしまう。 声をかけると鬱陶しいだろうと思い、黙って彼の真剣な横顔を眺めていると「そんなにじっと見られたら、遣りづらいだろ」と少し拗ねたような顔をされる。 それを見て、可愛いなぁ、と不謹慎にも思ってしまった。 一緒に暮らし始めて約1ヶ月。彼の新たな一面を見ることができて、それがとても幸せだ。 時間をかけてようやく切れた人参をボウルに移そうと、結月さんが右腕を伸ばした。左肩に、彼の右肩が軽く触れて、思わずビクリと反応してしまう。 「悪い、痛かったか?」 「いいえ……!僕、オーブン見てきます」 慌てて結月さんから距離を置いた。 ――まずい、今のはあからさま過ぎたかな……    * * * 夕食後、リビングのソファに座って結月さんと映画を観た。 フランスの恋愛映画。僕はフランス映画の映像の美しさと、多くを描写しない上品な雰囲気が好きだった。まるで結月さんみたい、と、一人笑ってしまう。 「どうしたんだ、ニコニコして」 「ふふ、何でもないです。……いや、パリの街、やっぱり綺麗だな、と思って。小さい頃から、お父さんに西洋建築の映像とか写真集、たくさん見せてもらってたんです。実際にちゃんと行ってみたいなって」 「そうか。実は俺も行ったことがないんだ、フランス」 「そう、なんですか……」 突然の告白に、思わず胸が苦しくなった。 結月さんのお母さんは、フランス・アルザス地方のストラスブール出身だと聞いていた。お墓もそこにあるらしい。まさか一度も行ったことがないなんて。 いや、行きたくても、そうできない理由があったのだろう。 「……結月さん、いつか一緒に行きましょうね。お母さんにも、会いに」 そう言うと、結月さんは眉をいつもより下げて僕を見つめた。 「ああ」 (まろ)やかな瞳に、緩やかに弧を描いた唇。ふわりとしたその笑顔を見て、嬉しさに口元が綻んだ。 不意に、結月さんの腕が僕の肩に回る。ドクンと波打つ心臓を鎮めることができないまま、そっと彼に寄り添った。 ゆっくりと顔が近づくのが分かって、自然に瞼を閉じる。唇に柔らかいものが当たるのを感じた瞬間、それが離れた。 「……亜矢」 じっと僕を見つめる瞳に艶やかさを感じて、全身に血が上る。再び近づけられる唇。僕は反射的にギュッと口を結んだ。 「っ……!」 小さく唇を舐められ、一瞬の隙をついて熱い舌が入ってくる。 「っや……!」 僕は咄嗟に結月さんの胸を押して、体を離していた。 「ご、めんなさい……」 目を見ることができず、俯いたままでいると、僕の頭を滑らかな手が優しく撫でた。そっと顔を上げると彼は笑っていた。どこか寂しげな表情を浮かべながら。 大好きな人と過ごす毎日。 一緒に食卓を囲んだり、彼の仕事姿を眺めたり、寝る前に身を寄せ合って話をしたり。そんな些細なことでも、傍に居られるだけで僕は幸せだった。 それでも、一緒に居ればいるほど、距離が近くなればなるほど、不安になってしまう。 同棲してから1ヶ月も経つのに、まだ、触れるだけのキスより先が踏み出せないでいる。 何度かそういう雰囲気になったとしても、はぐらかしてしまう。 そんな時、結月さんは優しく微笑んで、それ以上は何もしない。 さすがにこんなに拒んでいたら変に思われるだろう。――それでも、僕は……。

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