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第5章 真実 02

2月。修士論文の提出に続いて、審査員との面接試験も終わり、周りの大学院生たちは存分に羽目を外している頃だというのに、俺は研究室と図書館に籠もっていた。 就職先である研究所から簡単な論文の課題を出されていたからだ。簡単といってもそれなりのレベルが求められる。一息つく間もなく、手当たり次第、館内の資料を読み漁っていた。 ふと顔を上げると、窓を囲むように書棚が置かれた、まるで小さな部屋のようになっているその空間に、一人の男が居た。 本も読まずに窓に向かい、伏し目がちでただそこに佇んでいる。射し込む陽光のせいか、ひどく眩しくて、人間ではない何かのように見えた。 長いこと見つめていたら、彼がこちらを向いた。 綺麗な青い瞳が俺を捉えた。瑠璃色というのだろうか。窓の外の晴れ渡る空の青、というよりも、夜明け前の空のような美しい紺青。 「何してんの?」 自分の口から唐突に出た言葉がそれだった。 話しかけるつもりは更々なく、自分自身に驚いた。 此処は、一般図書が置かれた本館とはやや離れた場所にある別館。専門書の中でも、発行年が古い書籍や持ち出し禁止の資料が配架されており、利用には届けを出さなければならず、いつも人はまばらだった。 そんな場所に、しかも平日の真っ昼間、まだハタチそこそこだろうと思われる彼が一人で居るのは、それだけで興味を惹かれるものだった。 「……知らない」 知らない、って何だよ。 その男の適当な返しに少し苛立ったが、口には出さなかった。 そんなことは、実際どうでもよかった。 聞きたいことは、たくさんあるような気がした。 しかし何を問い掛けるわけでもなく、俺は再び資料に目を落とした。 目は文字を追っていても、頭の中は近くに居る彼のことでいっぱいだった。 ちらりと姿を盗み見る。 男は書棚から本を取り出しては眺めていた。 背表紙をすらりと細い指がなぞる。 センターパートの長めの前髪が、端正な横顔を隠すように覆っている。下を向く度にさらりと揺れる、透き通るような栗色の髪を、俺はぼんやりと見つめていた。 彼が動いたのは、日が沈み始めた頃だった。 それを見て、咄嗟に自分も席を立つ。 「……何?」 その男は、立ちはだかるように近づいた俺を怪訝そうに見た。衝動に駆られたものだから、何の言葉も用意していなかった俺は、押し黙ってこの場を動けないようにする他なかった。 彼は暫くして「ああ」と理解したような声を漏らし、逸らしていた目を再び俺の方に向けた。射抜くような鋭い青だった。 「あんた、俺のこと見てたよね。……どうして?」 確信犯か?やられた、と思うより先に口が動く。 「綺麗だったから」 「何が」 「その()も、髪も……」 本当はすべてに、魅了されていたけれど。 男は小さく溜息を吐き、トンと俺の肩を押した。 「あんた、嫌いだ」 そう言い捨てて、風が過ぎ去ったかのように、ふわりと居なくなった。 もう二度と会えないと思っていた。 しかし、三流映画のようにごくあっさりと、俺たちは再会することになる。 あの日から一週間後、同じ場所にその男は居た。窓に近い席に座り、分厚い本を読んでいた。 俺は書架から引き抜いてきた資料を何冊か持ち、彼の近くに座った。 男は一瞬顔を上げたあと、何も言わずに再び本に目を落とした。 “嫌い”な筈の俺が傍に居るというのに、彼は別の場所に移動したりはせず、そこに留まった。無論、俺も席を移ることはない。何故か許された気分になり少し安堵した。

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