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第5章 真実 08
「お前、一ノ瀬結月っていうんだな」
出会った日以来、初めて声をかけた。行動に移すまでずいぶん躊躇したが、あれだけこいつのことを知ってしまった後では、何となく今の関係では嫌だと思ったからだ。あの話が本当だとすると、煙たがられて最悪距離を置かれてしまう可能性もある。そんなリスクに気付いていながらも、話しかけることを決意した。
「四橋大生なんだって?真っ昼間っからこんなところに居るなんて、どんな物好きかと思った」
一ノ瀬は俺を軽く睨み、「何で知ってるんだよ」と不機嫌そうに訊ねた。直ぐに反応してくるとは思わなかったので、そんな態度でも何故か嬉しくなる。
「ちょっと、な。言っておくけど、別に調べたわけではないから。偶々知っただけ」
「お前って有名なんだな」と、皮肉半分、感心半分に笑って言うと、一ノ瀬はあからさまに嫌な顔をした。
「名前を言え」
「は?」
「あんたの名前は?俺だけ知られているなんて、不公平だ」
3歳も年下に命令口調で言われ少々むかついたが、それもそうか、と思い素直に教える。
「蓮見千尋」
「ふぅん。“はすみ”ね」
自分から訊ねておきながら、次にはどうでもいいような顔をする。
外は良い天気で、陽のあたる部屋はこんなにも暖かいのに。
冷たい。こいつを取り巻く空気は、いつも。
おそらく、これまで長年“異常な避け方”をして染み付いてしまったものなのだろう。
少しずつでもいい。俺に心を開いてくれたなら。この分厚い氷に包まれたような雰囲気を僅かでも溶かすことができたのなら。
何も捉えていないであろう紺青の瞳を横から眺めながら、そんなことをうっすらと思った。
願い通り、毎週会ううちに次第に会話が増えていった。基本的に俺が話しかけているだけだが、一ノ瀬は鬱陶しげな表情を見せつつも、それに答えていた。
いつだったか、「お前、女が放っとかないだろ」と冗談混じりに言ったことがある。
おそらく背はさほど変わらないのに、顔が小さく脚が長くて日本人離れしたスタイルの良さ。ハーフなんだろうが特別濃いわけでもない、整った顔。「眉目秀麗」という言葉が大げさに聞こえないほど、多くの人の目を引くであろう容姿だ。
「知らないな。興味がない」と、そいつは眉一つ動かさず言った。
「今、彼女は?」
訊ねた瞬間、それを聞いてどうするんだ、と心の中で自身にツッコミを入れる。
「なんであんたに教えなくちゃいけないんだよ」
思った通りの答えが直ぐに返ってきて、思わず黙ってしまうと、少し間をおいて静かな声が聞こえてきた。
「誰とも付き合ったことがない。今まで一度も」
見え透いた嘘はやめろよ、と言おうと思ったが、込山の話を思い出して口を噤む。
「可哀相に。その歳でまだ経験無しかよ」と茶化すように言うと、一ノ瀬が淡々と答えた。
「初体験は15歳。相手は英語の家庭教師。そのほか、誘われて寝た女が数人」
どんな顔で言っているのかと思ってちらと見ると、いつもの能面のような表情だった。
「冷めてるな、お前」
「よく言われるよ」
こいつは人を好きになったことが無いのだろうか。いや、それを望むことすら、していないのではないだろうか。
一ノ瀬を見ていると、そんなことを偶に思うのだった。
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