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第1話
とんでもない場面に遭遇してしまった。
立ち並ぶ雑居ビルの隙間。薄暗いその路地裏で。
親友が、キスをかましていた。
それも――――相手は、男。
「……なんで!?」
出てしまった声はもう戻せない。
伊吹 の姿を見止めて驚愕に見開かれる瞳。
マズイ、そう思った。
バッと口を覆いながらも、伊吹はくるりと踵を返して全力でその場から逃げ出した。
◆◆◆
バン! と大きな音を立てて、アパートの扉が閉まる。近所迷惑という言葉は、今日ばかりは伊吹の頭には浮かばなかった。
「待って待って待って……」
靴も脱がず、肩に掛けていたカバンを抱き込んでずるずるとその場に蹲る。
先ほど見かけた光景が何度も何度も頭の中をフラッシュバックしている。
間違いなかった。あれは馨 だった。伊吹の大親友の馨。
十五の春、男子校で知り合って、すぐに意気投合して伊吹にとっての一番の親友で。
大学も同じで、せっかくだから近くに住もうぜと話し合って、今は同じアパートの二階と三階に住んでいるくらい仲が良くて。
「キス、してたよな」
暗がりだったからよく分からない。でも相手は背の高い、伊吹達よりは年齢も上そうな大人の男だった。女の子では決してなかった。
バイト帰り。風邪でダウンした仲間の分まで働いたため、いつもより遅い時間になった。
観たい配信があったのを思い出して、少しでも早く帰ろうといつもは使わないショートカットできる道を選んだのだ。
そうしたら。
「馨が、知らないヤツと」
キスをしているところに遭遇してしまったのだ。
「……同性が好きだってこと?」
そんな話は聞いたことがなかった。
いや、そう気軽に話せることではないだろう。それは分かる。どれだけ親しい間柄だろうと、いや、親しいからこそ言えないことも世の中にはある。
「つまり隠してたんだよな」
馨はきっと隠しておきたかったのだ、と思うと、申し訳ない気持ちになる。
今日、伊吹はそれを暴いてしまったのだ。
「しかもちょっとマズった気がする……」
逃げるようにその場を後にした。そんな態度を取られて馨はどう思っただろうかと。
拒絶されたとか、気持ち悪いと思われたとかそういう風に感じたのではないだろうか。
「でも……」
伊吹はシワになるくらい強くカバンを抱き締める。
まだ心臓がバクバク言っている。
気持ち悪いとか思ってない。でも動揺している。びっくりしてしまったこの心の収め方が分からない。
暗くてよく見えなかったはずなのに。
長し目、薄く開いた唇、相手の頬にかかっていた指の長さ。
そういうものが、どうしてか焼き付いている。
見たことのない親友の顔だった。あんな馨は知らないと、伊吹はひどく混乱している。
カン、と不意に足音が響いた。
「!」
階段を昇って来てるのだろう足音。
直感的に馨だ、と思った。この足音は馨に違いないと。親友といえども足音まで把握している訳ではない。けれどそう思えて仕方がなかった。
足音は、そのうちに近付いてきた。そのまま上の階には上がらない。近付いて来て、丁度ドア一枚を隔てて伊吹の背中で気配は止まった。
馨だ。
もう一度、伊吹は確信を強める。
けれど、どうすれば良いのか分からない。インターホンが鳴ったらたら、どうしたらいいだろう。
深刻な表情は見せず、でもごめんと謝って。ちょっとびっくりしただけなんだってそう言って。
それは“正解”な反応だろうか。
――――分からない。
伊吹は息を押し殺す。すぐ足元に自分がいることを気取らせないために。
向こう側では、けれど一向にインターホンを押す気配はなかった。
無音の闇。息遣いは感じない。けれど、伊吹はそこに圧倒的な気配を感じる。
どれほど、そうして息を詰めていただろうか。
不意にジャリ、とコンクリを擦る音が鼓膜に届く。
そうしてカン、カンと足音。遠ざかって行く気配。一つ上の階へ行く誰か。
「…………っはぁあぁあぁ」
肺が痛むまで息を吐き出した。
ようやくのろのろと立ち上がり、伊吹は室内に上がる。
「今のやっぱり、馨だった」
カバンを置いて、人を駄目にするクッションに雪崩れ込む。この大型クッションは馨もお気に入りで、来る度に住人を差し置いてだらりと堪能していた。
「どうしよ」
きっと馨も今、すごく悩んで、不安で、焦っている。
自分達の友情はどうなるのだろう。
明日から、何か変わってしまうだろうか。
正解がどこにあるのか分からない。自分の心の動きもよく分からない。
問題から目を背けるようにぎゅっと伊吹が瞑った瞬間。
ティロン!
とスマホが軽快な着信音を告げた。
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