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第1話 那津
「あ~ぁ・・・やっちゃった」
駅のホームでひとり呟く。
もう何度目かになる終電を乗り逃がす経験は、
オレの人生ではたいして珍しいことではない。
だけれど今日はまずい。
だって今日は迎えに来てくれる人がいないのだ。
人影がまばらになった、
戸締りを始めた駅のホームで出来ることはため息をつくことくらいで、
実際、大きく息を吐くと元来た道を歩き出す。
酒浸りの脳みそが、ちゃぽんと音を立てたような気がした。
ーーー・・・
昨日の夜の遅い時間。
付き合っていた男と別れた。
どこか遊んでいる風の、けれど見た目がキレイで
世の中になれてる優しいオトナの男だった。
半年間ってのはオレにとってはそれなりに長い付き合いにはいる。
その間中、そのヒトの家に転がり込んで一緒に暮らしていたオレに、
そのヒトは突然、何の前触れもなく別れようかと優しく言ったのだった。
それは驚くと同時になんだかひどく納得もしてしまって、
オレは理由を問いただすでもすがりつくでもなく、
一言、わかったと頷いてしまっていた。
なんていうかそのセリフは・・・というか、
そのセリフを言われたときの二人の間に流れる空気感のようなものが、
半年前に付き合おうかと言われたそのときとまったく同じに感じて、
いつか来ると思っていた日は今夜だったのだな・・なんてことを思った。
頷くオレに、
その人は出て行くのはいつでもいいからと
やっぱり優しく言ってくれた。
別れ話しにすらならない二人の別れはあっさりと夜が明けて、
気づけばもう朝が来ていた。
今朝、朝というにはもう遅い、10時ごろに目が覚めて、
春の午前中の明るいヒカリの中、
すでにそのヒトの気配が消えた見慣れたその部屋をぐるりと見渡すと、
別れるってことにはほとんど現実味はなくてたいして悲しくもならなかった。
そこからシャワーを浴びると
昼になるちょっと手前の11時半ごろ、
少ない自分の荷物をまとめてエレベーターを降りる。
キーケースからその部屋の合鍵を外すと
一瞬だけためらって
指先でその鍵をくるりとやった。
そうして・・・その小さな金属を直接、ポストに入れた。
ポストの底へ沈んだ鍵が、カチャリと小さな音を立てたその瞬間、
昨日まで口づけをして、
あんな風にあられもない格好を晒していた相手だったというのに、
ここからはもう会うことのない他人になってしまったという現実にようやく
胸がキュウっと締め付けられたような気がした。
でもそれは寂しさみたいなモノだって知っている。
愛しさってモノじゃない。
マンションの入り口のガラス扉が自動であいて、
春の昼間の明るい太陽のヒカリに眩しく照らされてしまえばもう、
いろんなものが色あせてしまって
なんだか颯爽と歩きだしていた。
せめてバイトでも入っていれば良かったのに、
行く当てのないオレはその足で行きつけの飲み屋に駆け込んだ。
オープンまでにはずいぶん時間があるけど、
オレみたいな男ばかりがあつまるその店の店長とは
仲良くさせてもらっていて、
昼の12時あたりにはもう店にいることを知っている。
「入っていい?」
「あれ・・早いね」
柔らかい笑顔の持ち主である店長ももちろん、
男が好きな男だ。
「どうしたの?」
「別れた」
一言そう伝えれば、
柔らかい笑顔はそのままで、黙ってビールを出してくれた。
「カズには話した?」
「まだ」
カズってのは店長の恋人。
そしてオレにとっては親友って言っていいと思ってる友達。
スマホを取り出してカズにメッセージで別れたことを伝えると、
結局それからずっと飲んでいた。
飲みながら店の準備を手伝って、
そのまま店がオープンするとカズがやって来た。
二人で飲み始めるともちろん飲みすぎて・・・
いつの間にかカウンターの隅っこで寝てしまっていたオレを、
カズが身体を揺らして起こしてくれた。
「そろそろ終電間に合わなくなるよ。どうする?俺たちんトコくる?」
小柄だけれどしっかり芯のあるカズの、
キラキラっとした目で覗かれるように見つめられて、
パチリと目が覚めた気がした。
「ん。大丈夫。帰る」
飲みすぎてる自覚はあるけど
ひと眠りしたせいか、意識はスッキリしている。
「今日くらい泊めてやるけど?」
「ん。大丈夫。帰る」
もう一度、同じセリフを言って立ち上がる。
恋人と別れたその日にオレが酔っぱらうしかできない理由は、
実はそのヒトと別れたことが辛かったからってわけじゃない。
もちろん、寂しい気持ちはあるけれど、それはもう過ぎたことだ。
それよりも今日、オレの帰れる場所があの、
気まずい空気が流れる実家しかないっていう事実が、
グラスの液体を喉に流し込むのを止められなかった理由だった。
出来ることなら
自分の居場所がないって感じるあの家には帰りたくはないのだ。
カズはそれを知っている。
それでも、
カズと店長が一緒に暮らすその部屋に、
酔っぱらいすぎた状態で転がり込む気にはなれなかった。
ーーー・・・
そうして結局、
たったいま目の前で、本日最後のその電車を見送る羽目になってしまった。
行く宛があの家しかない今夜、
その電車に乗らなければ寝るところがない。
タクシー代はとうの昔に飲み代に消えている。
・・・やっばいなーーー・・・
さすがに野宿はイヤだな・・・なんて心ん中で思いながら、
重い足取りでホームを歩く。
春の夜の冷たい風が突然、全身をぶるっと震わせた気がした。
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