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調子に乗っていた訳じゃない。 本当に愛していたのかと聞かれたら、自分でも、良く分からない。 ただ、作曲した交響曲が注目され始めて、閉ざされていた世界が開けて、やっと舞台に立てた。そんな、絶好調の時に…人妻に手を出したんだ。 もてはやされて、浮足立って、身の置き場と身の振り方を誤った。 会いたいと言われればノコノコと出かけて…しなだれかかられてはその気になって…本職の作曲活動もしないまま、一心不乱に彼女に溺れた。 そして、旦那にバレた… 多額の慰謝料と“もう会わない”なんて誓約書を書かされて、東京から追い出された。もちろん、物理的にじゃない。東京に…居場所がなくなったんだ。 どうしてか… 俺が手を出した女が、界隈の重鎮の奥さんだったからだ… 絶望さ。 もう、俺の作曲した作品が日の目を見る事は無いだろう… あんなに、もてはやした取り巻きたちは、蜘蛛の子を散らす様にいつの間にか消えて居なくなって…縁故にしていたスタジオは出禁になって、仕事を回してもらっていた得意先はそっぽを向いた。 そして、気が付けば…誰も居なくなった。 「はぁ…」 7月下旬…今年もまた暑い夏が始まるというのに…俺だけ、寒空の下で一夜を明かす宿を探しながら震えているみたいだ。 右手の薬指にはめたままの指輪を左手の指先で撫でながら、窓の外を流れて行く、やたら緑の多い景色を恨めしそうに見つめて眉間にしわを寄せた。 俺がこんな窮地に立たされても、彼女は何もしてくれなかった… …誘って来たのは、彼女の方なのに。 女ってだけで、人妻ってだけで…不貞の批判や罪は俺だけ背負うのか。 彼女と会えなくなってからずっとそんな解せない思いを抱いては、確かに愛した彼女に思いを馳せて、恋しくて堪らなくなる。右手にはめた彼女と交換した指輪を外せずにいるのは…未だに、もしかしたら…と期待しているから。 「…惺山(せいざん)、そろそろ着くよ。兄貴が近所に新築を建てて母さんもそっちに住んでるから、しばらく誰も使ってない家だけど。俺の甥っ子が掃除してくれてる筈なんだ。まあ、明日には調律師も来るし、嫌な事は忘れて、のんびりと作曲に精を出してくれよっ!はは。」 運転席でそう言うと、徹(とおる)は俺を横目に見て眉を下げて笑った。 …嫌な事? それは、稼いだ大金が慰謝料で消えた事か… それとも、愛しい女にもう会えない事か… はたまた、仕事のベースを一気に失った事か… 「はぁ…本当、ど田舎だな。」 大きなため息を吐いて窓の外を眺めてそうぼやくと、徹のケラケラと笑う声を背中に聞きながら、ムッと口を尖らせた。 彼は音大の時からの数少ない友人のひとり…徹だ。 作曲家としてやっと芽が出た矢先に、こんな不貞を働いて針の筵になった俺に声を掛けてくれた…。手のひらを返したように無視を決め込んだ他の奴らと違う…本当の友人のひとりだ。 せっかく優秀な成績を収めて音大を卒業したのに、彼は演奏家にも、作曲家にもならなかった。普通の仕事に就いて、普通の生活を送って、普通に…結婚した。そんな彼の事を“負け犬”なんて思っていた時期もあった。 だって、そうだろ…?あんなに優秀だったのに、音楽家にならなかったんだ。 不安定で先が見えない… 日の目を見る人なんて一握り… 音楽家なんて仕事はある意味ギャンブルと同じ。そんな不安定さに徹は先を見れなかったんだ。 好きなだけじゃ飯は食っていけない。 そう言って、みんなが音楽業界の就職を目指す中、彼だけ普通の会社に就職して行った。今となっては、そんな”送りバント“な人生が一番正しかったのかもしれないって思うよ。 だって、彼は毎月の給料と、安定した生活と、家庭を持っている。 逆に…俺は何も持っていない。そういう事だろ… 目の前を流れて行く防風林の合間から、キラキラと湖面を輝かせる湖を忌々しく睨み付けると、美しいだなんて思いたくなくて顔をそらした。 「ほほ!見て?こりゃまた、勢ぞろいで!気合いの入った大掃除をしてくれてる!」 突然、楽しそうに声を弾ませた徹が助手席の俺の腕を叩いて、指を前に差して言った。 「甥っ子の友達が手伝ってくれてる!子供とはいえ、あんまり無愛想にはするなよ?あの子らは幼馴染で結束が強いからな。一回睨まれたら、なんにも手伝ってくれなくなるぞ?あはは!」 徹が小さなクラクションを数回鳴らしてみせると、古びた平屋の一戸建ての前で掃除をする少年がこちらを見て笑顔で言った。 「あ~!みんな!叔父ちゃんが来たよ~!」 そんな第一声を聞きつけて集まり始めた子供たちを見て、一気に顔をしかめた。 ギャング… 玄関前に一列に並んだ姿にそんな物騒な言葉が、まず先に頭をよぎった。 「いち…に…さん…し…ご…ふふ!あぁ。勢ぞろいだ!」 徹はクスクス笑って躊躇する事なく彼らの前まで車を乗り付けると、颯爽と車を降りて一人の少年を抱きしめて言った。 「あ~~!清助!大きくなったなぁっ!!」 「徹叔父ちゃん、久しぶり!赤ちゃん出来たんでしょ?おめでとう!ばあちゃんが犬帯を作ってるよ?奥さんに持ってってあげてよ!」 なんだ…知らなかった。奥さん、妊娠したのか… どうして俺に教えてくれなかったんだろう。 あぁ、人妻を寝取る様な男に…言いたくなかったのかな… 目の前の光景から視線を外して右手にはめた指輪を指先で転がしていると、ふと、強烈な視線を感じて顔をあげた。 この、むさ苦しい男集団の中に…ひとりだけ女の子…? 俺を見つめるまん丸の瞳は、まるで驚いた様に見開いて、どことなく寂しそうに眉が下がって見えた。 オタサーの姫みたいな、紅一点ってやつか…? いや、この集団が幼い頃から今でも仲良くつるんでいるんだとしたら、彼女はそんなサークルクラッシャーじゃない。男社会に溶け込んだ…どさんこ姫だ。 「惺山、こっちに来いよ。紹介する!」 俺を呼ぶ徹の声に怪訝な顔を向けて首を傾げると、聞こえない振りをしてやり過ごそうと、とぼけた顔をしたまま視線を逸らした。 …紹介? こんなガキの集まりと知り合ったって…何だってんだ。何の得も無い。 「惺山、紹介するよ。私の妻だ。」 ふと頭の中に、彼女と初めて出会った時の光景が蘇って…胸の奥が苦しくなって行く。日の目を見ないまま9年も、ただ、淡々と小さな仕事をこなしながら生きて来た。いつか大成してやると…踏ん張って来たのに。 やっと、やっと…思ったような結果を残せたというのに… 情けない…馬鹿みたいだ… だらりと重くなった頭を項垂れさせて、撫で続ける指輪を見つめてため息を吐いた。 こんなもの付けても、彼女は既に人の物。 ごっこ遊びの延長でこんな指輪を贈り合ったって、もう既に人の物なんだ。 なのに… 「惺山…?」 「は…?」 徹じゃない声に名前を呼ばれて驚いて顔をあげた。 コンコン… 窓をノックして俺を覗き込んだ紅一点のどさんこ姫が、首を傾げて微笑みながら言った。 「…惺山、おいで?」 …なんだ、この子。 怪訝な顔でその子を一瞥して手で追い払ってから助手席のドアを開いて地面に足を下した。 一気に熱い空気が体に纏わり付いて皮膚を焦がす太陽の下に立つと、俺の名前を呼んだ紅一点を見下ろして、鼻で笑って言った。 「人の名前を紹介もされていないのに呼ぶんじゃないよ。躾がなってない女の子だ。そんなんじゃ、一生、お嫁にいけないな。」 「違う…。豪(ごう)ちゃんは男の子だ…」 苦い顔をして徹がそう言うと、ギャング団は一斉に大笑いして言った。 「や~っぱり、豪ちゃんを女の子だと思ってジロジロ見てたんだよ。このおっさん!きもっ!」 なんだ…こいつは、男だったのか… 別に女の子に見えたからジロジロ見ていた訳じゃない。この子が、俺をジロジロ見るから見ていただけだ。 「都会の男は女には優しくするって、ばあちゃんが言ってた事は正しかったんだ。」 「確かに、豪ちゃんが呼んだらでてきたもんな。この、おっさん…」 「最低だな…気持ち悪い。」 散々けちょんけちょんに貶されても、田舎のガキの戯言に心を痛めたりしないさ。 よく見れば、こんなベリーショートで、日に焼けて、ハードなメタルバンドがプリントされたぶかぶかのタンクトップと、短パン姿の女の子…田舎にいる訳が無いんだ。こういう格好の子は、地下にスタジオがある様な汚い小さなライブハウスに居る。そして馬鹿みたいな男に惚れて、腕に名前を彫ったりするんだ。 それにしても…中性的すぎて紛らわしい。潤んだ瞳で見つめて来るまん丸の瞳は、男の子だと言われたのに女の子に見えてくる。 「惺山、このガタイの良い子が哲郎(てつろう)だ。そして、この子が清助(きよすけ)。俺の甥っ子だ。それで、この子が晋作(しんさく)に、この子が…大吉(だいきち)。そして、お前が女の子だと間違えた子が、豪(ごう)ちゃんだ。みんな幼馴染で15歳の中学3年生。仲良くしてやってくれよ?」 紹介されたギャング団たちは徹の言葉に続く様にペコリと頭を下げた。徹はそんな彼らを瞳を細めて見つめると、車から俺の荷物を運び出して子供たちに手渡し始めた。 「中に運んでくれ~。」 「は~い!」 まるで日雇いの労働者だ。文句も言わずに働き始めた。 そんなギャング団の様子をぼんやりと見つめながら、俺の隣に立ってこちらを見上げる視線に耐えかねて言った。 「…なんだよ。」 眉をひそめた俺に、豪ちゃんと呼ばれる少年は驚いた様に目を丸くさせながら、もじもじしと体を捩って言った。 「…ん、どうして…どうして髪が長いのぉ?」 長い…?そんなに長くない。ただ、襟足が隠れる程度だ。 「…さあね。」 まともに相手にする気も無い。 だって、こいつはお洒落なベリーショートの男の子だからね。ただでさえ、暑くて苛つくんだ。こんな田舎のどさんこの下らない問答に付き合うつもりなんてない。 「惺山、ここが俺の実家だ。好きに使ってくれ!」 案内を始める徹の後ろをトボトボと付いて行く。 あんな事になったせいで東京の家に居ても何もやる気が起きなくなった俺の為に、徹が自分の実家を提供してくれた。気分を切り替える機会をのんびりと過ごしながら見つけたら良いと言ってくれたんだ。そんなご厚意に甘えて、俺はしばらく彼の実家で過ごす事となった。 「ここら辺は基本無施錠なんだけど、寝る時は鍵は閉めた方がいい。お前みたいな男前が居たら、女が入ってくるかもしれないからな…」 「ねえ?素敵だね?髪が長いの…。豪ちゃんも伸ばしたら良いかなぁ?」 徹の言葉に顔を歪めて頷いて答えると、後から聞こえた声を無視して先を進んだ。無視して、視界に入れないで、俺を見てケラケラと笑う徹の後ろを付いて行く。 「ここは、居間。縁側が気持ち良いだろ?テレビは壊れてる。そっちはクーラーの付いてる部屋で…たまに来た時は寝室に使ってる。」 「豪ちゃんの兄ちゃんはテレビが大好きなんだぁ。ねえ?惺山もテレビが好き?壊れてたら見れないから…豪ちゃんのお家のを持って来てあげようか?」 縁側に出て庭を眺めると、都会じゃ考えられない位の広々とした庭先に瞳を細めて徹に言った。 「都会だったら…億しそうな土地だな。」 「ここだったら百もしない。変だよな?同じ土地なのに!あはは!」 「ん…ねえねえ?惺山?豪ちゃんのお家はもっと小さいよ?今度、遊びにおいで?」 服の裾を引っ張って来るあの子に眉をひそめて、嫌がる様に振り払った。 「あぁ、気に入られたな…ふふ。」 徹はそう言うと、しょんぼりと肩を落とした豪ちゃんの頭を優しく撫でて言った。 「豪ちゃん、部屋の中がピカピカだ。綺麗にしてくれたの?ありがとうね?」 「…うん。」 まどろっこしい…鬱陶しい…面倒臭い…そんな気持ちしか抱けない。徹の様に、優しい気持ちで接する事なんて無理だ。 「面倒だな…」 ため息を吐いてそう言った俺に、徹は口を尖らせて首を横に振った。そして、ひとつだけ洋風な扉の前に来ると、俺を振り返って開いて見せた。 目に入って来たのは、洋風な大きな窓から一望出来る裏庭とテラス。室内は緑の腰壁が上品に部屋を一周して、備え付けられた天井までの本棚には、忘れ物なのか…いくつかの楽譜が束ねて置いてあった。 和室だらけの家に…後から付けられた様な突然の洋室だ。 「おふくろがさ、売ろう売ろうって…何度も話に出てたんだけど売らなくて良かったよ。このピアノはとっても良い音色をしてる。スタンウェイだ。大事に使ってくれよ?産まれてくる子供が将来使う物だからな?」 部屋の中央に鎮座したグランドピアノを手のひらで撫でて、徹がそう言った。 「ここで、気持ちを切り替えて…お前のしたい事に専念すれば良い…」 あぁ…優しい友人だな… 「ありがとう…」 徹の言葉に伏し目がちにそう返して、グランドピアノを手のひらで撫でた。 漆黒のピアノの表面が、鏡の様に反射して窓の外の緑を映し出している様子に瞳を細めると、ふと、再び彼女を思い出して胸が苦しくなった。 「先生、あちらの方がご挨拶したいと…」 「ちょっと失礼するよ…」 奥さんを俺の前に残してその場を立ち去った先生の背中を見送ると、彼女を見つめて場がしらけない様に、ありったけの言葉で、褒めちぎった。 「先生の奥様がこんなにお美しい方だなんて、存じませんでした。」 「ふふ…お世辞が上手。森山惺山さん。私は、あなたの事…実は、ずっと前から知っていたのよ…?」 そう言って微笑んだ笑顔に、洗練された大人の女性の色気に、舐める様な視線に、頭の先からつま先まで、あっという間にグラついた。 音大を卒業して、コネもツテも無かった俺は、毎日の様に営業周りをして自分を売り込んだ。でも、行った先で聞かれる事は大体いつも同じ。 どちらの先生と知り合いか… 誰の元で働いた事があるのか… こんな商売、コネが無いと成り立たないんだと思い知った。 そんな時、俺を助けてくれた人…それが先生だった。自暴自棄になってはいけないと諭して、自分の仕事を回してくれたり、知り合いを紹介してくれたりした。 そして、何とか食い扶持を繋いで作曲活動を続けた結果…やっと、評価されるような作品を作り出す事が出来たんだ。 瞬く間にオーケストラでの演奏が決まって、どこから現れたのかも分からない…名前も知らない“友人”や”仲間”に囲まれて…浮足立ってしまったんだ。 そんな大切な恩人…先生の、奥さんと不貞を働いてしまった。 「惺山さん、今度…ふたりきりで会えないかしら…?」 先生の奥さんはそう言うと、そっと俺の腕を撫でて首を傾げた。 「…もちろんです。」 目の前に咲いた美しい花が誰の物か分かっていたのに…手を出したんだ。 誘われるがまま、彼女の要求に応えて体の関係を持った。 あの時断っていれば、こんな風に落ちぶれる事も無く、恩を仇で返すような事をしないで済んだ。そして、先生との繋がりを持ったまま…作曲家として成功できた筈なんだ。 「惺山…?猫ふんじゃった弾ける?」 そんな声に我に返ると、俺の背中を撫でるあの子の手を振り払って、眉をひそめて睨み付けた。そんな視線に口をへの字に曲げてテクテク歩いて徹の隣に行くと、彼によって椅子を引いて貰い、ピアノに腰かけて豪ちゃんが言った。 「豪ちゃんはね…ちょっとだけ、弾けるよぉ?」 「弾いてみて?」 徹はそう言いながら豪ちゃんの隣に腰かけて、あの子がたどたどしくピアノを弾くのを、楽しそうに瞳を細めて眺めた。 徹は優しいんだ。田舎の6人兄弟の次男だから、子ども扱いが慣れている。 対して、俺は都会の三兄弟の末っ子。 根っからのシティーボーイの俺には、こんなど田舎のどさんこと戯れるスキルなんて無い。そして、そんな心の余裕も…無い。 「あれぇ?ここって…どうだっけぇ?」 豪ちゃんがそう言って徹を見上げて首を傾げると、彼はにっこりと微笑んで、次の鍵盤を指で撫でて教えてあげた。 「…えっと、えっとぉ…」 「へったくそ~~~!」 そんな外野の声にムッと頬を膨らませた豪ちゃんは、徹の上を跨いでピアノの椅子を下りて、なぜか…俺のお腹を払う様に撫でて部屋を飛び出して行った。 なんなんだ… あの子が撫でて行った腹を見つめて首を傾げる俺に、徹がケラケラ笑いながら言った。 「あの子は昔から変わってる!小さい頃、お前みたいな偏屈ジジイと仲良くなってず~っと一緒に居たり、ボケた婆さんの話し相手になったり…とにかく、少し変わった子なんだ。」 偏屈…?俺が…? 徹の言葉に肩をすくめて首を傾げると、子供たちが運び入れた段ボールをピアノの部屋に置いて、ピアノの部屋を後にした。 今はピアノなんて…見たくもない。 作曲なんて出来る心境じゃないんだ。 「どら、買って来たスイカでも切るか!」 台所に立った徹がそう言うと、ギャング団が一斉に彼の元に集まってワイワイと騒ぎ始めた。そんな様子を横目に、縁側に腰かけて蝉が忙しくなく鳴き続けるど田舎の庭を眺めた。 腰ぐらいの高さの垣根がぐるっと敷地を囲んで、玄関前のアプローチは少しだけ上り坂になっている。家の顔の様に植えられた松の枝は選定されたのか、足元にまばらに小枝を落としていた。 こんな田舎暮らし…望んでする訳じゃない。 彼女の傍に居たい。俺を簡単に手放したあの人が恋しいんだ… また会う事が出来るのなら、何だってするのに。 指にはめた指輪を撫でて顔をしかめると、隣で俺を見つめる豪ちゃんに視線もあてずに言った。 「なんだよ…」 「惺山、スイカだよ?」 差し出されたスイカを受け取って、あの子が振りかける塩を見つめながら途方に暮れる。 …どさんこに、懐かれた。 「豪ちゃん、塩を独占するなよっ!」 晋作と呼ばれる少年はそう言うと、豪ちゃんの隣に座ってあの子の手から塩を奪い取った。 「なぁんだぁ!豪ちゃん、まだかけてないのにぃ!」 俺の体にぶつかりながら体を翻して、晋作と豪ちゃんが塩を取り合って喧嘩を始めた。見るからに弱い豪ちゃんは、晋作におちょくられる度に興奮しては、俺の足を蹴飛ばした… サファリパークだ。 ここは、サファリパーク… 遠くの空を眺めながらスイカを一口かじって、舌先が痛くなるくらいしょっぱくなってしまったスイカに眉をひそめた。 塩を振り過ぎてんだな… 「豪ちゃん!順番で使えば良いだろ?」 哲郎と呼ばれるガタイの良い少年はそう言うと、縁側を下りて豪ちゃんを正面から抑え込んだ。 「なぁんだぁ!やぁだぁ!てっちゃん、このやろぉ!」 見るからに弱い癖に気だけは強いのか…豪ちゃんは荒くれ物の様にそう言って、哲郎の腹を裸足の足でグイグイと押し退けた。 「駄目だ!てっちゃん。豪ちゃんをマッパにしてみんなで水を掛けて懲らしめてやろうぜっ!」 は…? そんな清助のレイプともとれる様な発言に体を震わせて豪ちゃんを見ると、あの子は脱がされかけた服をもろともせずに、塩を取ろうと暴れ続けている… 「…も、もう、止めなさい…」 俺がそう言った瞬間、あの子は暴れる事を止めて、眉を下げながら俺を見つめて言った。 「…だってぇ…まだ、惺山のスイカに…塩を振ってない…」 いいや、とても、かかってた。 スイカの甘さを引き立てる為の塩が、激しく主張していた… 「あぁ~!豪ちゃんは、今度は、このおじちゃんが気に入ったんだぁ!」 大吉と呼ばれるぼんやりとしたタヌキ顔の少年がそう言ってケラケラ笑うと、哲郎は眉を顰めてムッと頬を膨らませて言った。 「違うよっ!」 「絶対そうだぁ!だって、親切にしてるもん!この前のお姉さんの時と同じ。後藤のじっちゃんの時と同じ。ボケた大岩のばあちゃんが、見えない蜘蛛から逃げた時と同じだぁ!」 「違うって!止めろよっ!大ちゃん!」 声を荒げて大吉を制すると、哲郎は、ぼんやりと庭を眺めて何も言わなくなった豪ちゃんを心配そうに見つめて言った。 「…豪ちゃん、スイカを食べたら湖に行って釣りをしよう?」 「うん!」 豪ちゃんは元気に返事を返して体を揺らして喜んで、晋作の手から塩を奪い返した。そして、もれなく、俺のスイカに塩を振りかけて言った。 「はい、どうぞ~?」 …こんなの、塩分過多で血圧が心配になって来る… 塩騒動が収まった子供たちは、のんびりと縁側に並んで座って、スイカをかじっては庭先に種を飛ばし始めた。 …汚いな シティーボーイの俺はその様子を眺めて、そう思った。 「ね、惺山?どこまで飛ばせる?豪ちゃんはねぇ…ぺっ!ぺっ!」 …汚いな その上、下手くそだ… よだれを垂らしながら種を飛ばそうとする豪ちゃんに、顔をしかめて眉間にしわを寄せると、そっと顔を背けてボソリと言った。 「あっちに行けよ…汚いな…」 「ん…ちょっと…たまたま…上手に出来なかっただけぇ…」 悲しそうにそう言った豪ちゃんの声を背中に聞いて、大人気ない酷い態度の自分にため息を吐いてスイカをかじると、そっと俺の足に手を置くあの子の手をすかさず払った。 キャバクラのお触りジジイみたいだ… 「触らないで。」 「ん、触ってないぃ…」 俺のジト目を受けてオドオドとしながら上目遣いで豪ちゃんがそう言った。 「なぁんだ、豪ちゃんのお陰で惺山も溶け込めそうじゃないか!良かった。良かった。俺は明日には家に帰るから、みんな、このおじさんと仲良くしてやってくれよ?」 「はぁ~い!」 人一倍大きなスイカを手に持った徹がそう言うと、豪ちゃんだけ元気に返事を返した。 俺はこの子が苦手…無邪気に纏わり付く馬鹿な子犬みたいで鬱陶しいんだ。 眉を顰めながら徹を見つめると、あいつは俺の隣にぴったりと座ってずっと俺を見上げて来る豪ちゃんを見て、苦笑いしながら視線を逸らした… 「徹叔父ちゃん、種どこまで飛ばせる?」 「どれ!俺と勝負してみるか?」 楽しそうにケラケラ笑って晋作の隣に腰かけた徹は、誰よりも遠くまで種を飛ばして、喝さいを浴びていた。 「惺山は、いつまで居るの?帰るの?住むの?」 「惺山は、何色が好き?豪ちゃんはね、白色が好き!」 「惺山は、スイカをどこまで食べる?豪ちゃんはね、最近はここで止めてるんだぁ。でも、小さい頃は…ペラペラになるまで歯でかじったの。」 助けてくれ… この子を、誰か…俺から離してくれ… 「ねえ、惺山。スイカの種を食べると、お腹の中で発芽するって本当かなぁ…?そうすると、へそから芽が出て来るって…本当かなぁ?」 豪ちゃんの全てを無視して縁側から腰を上げて立ち上がると、食べ終わったスイカの皮を手に持って台所へ向かった。 …何なんだ! 必ず後ろを付いて歩く豪ちゃんの足音に苛ついて、足を止めた。 ボスンと俺の背中にぶつかる豪ちゃんを感じて、項垂れてため息を吐く… 何なんだ…! 「付きまとわないで…」 そう言って少しだけ振り返って、真後ろで俺を見上げるあの子と目を合わせると、ジロッと睨んで怒った。 「…ん、付きまとってないよぉ…」 オドオドと視線を外した豪ちゃんは台所のゴミ袋にスイカの皮を捨てると、首を傾げながら俺を見て言った。 「ね?」 嘘つきだ… 「なぁんなんだ!あの豪ちゃんって子はぁっ!野良犬、野良猫でも、もう少し空気を読むぞ?あんな風に付いて回って…鬱陶しいったらありゃしない!」 いつまでも帰ろうとしない豪ちゃんを徹に追い返して貰って、やっと自由になった俺は、ゲラゲラと笑い転げる徹に思いの丈をぶつけた。 「あ~はっはっはっは!!可愛いだろ?ぐふふっ!あの子は、変わってるから…変わり者のお前が気に入っちゃったんだ!腹が痛い!腹が痛いよ!」 畳を叩いて笑い転げる徹を見下ろして、渾身のため息を吐いた。 「惺山、惺山、惺山、惺山…って、まるで、俺の母親以上にあれこれ言ってくるんだ!あの子が近付かない様に、結界を張る必要がある!塩を玄関に盛ろう!」 「駄目だよ…。そんな事、しないであげてくれ。あの子は良い子だから。きっと、初めて長い髪を見て…少し、興奮しちゃったんだ。許してあげてよ。」 笑い過ぎた涙目のまま真剣な表情で俺にそう言った徹を見つめて、抑えきれない衝動を体を震わせて表現しながら言った。 「だって、気が休まらないだろ?!」 「分かった。分かった。俺から豪ちゃんに言っておくから…。」 俺がガキなのか…それとも、あの子が異常なのか… まるで大人気ない大人を宥める様な徹の態度に腹を立てると、背を向ける様に畳にゴロンと横になってふて寝をして、いじけた。 「なぁんだよ…ちぇっ!」 俺はあんな風にベタベタと付きまとわれるのは大嫌いだ! いつも、ひとりが良いんだ! あの子の様に主張が激しい緑の多い庭を見てため息を吐いて、現実を忘れる様に瞼を落とした。 「いつからだ…」 見た事も無い冷たい表情をした先生が閉じた瞼の裏に現れて、そう言った。 「1年前…私のお披露目パーティーで奥様にお会いした時からです…。愛しているんです。一緒になりたい。どうか、彼女と別れて下さい。」 畳の匂いを嗅ぎながら眉を顰めて、過去の自分の言葉に苛ついて胸がどんどん痛くなって行く。 ただの遊びなのに、馬鹿みたい…甲斐性も無い癖に… 先生の後ろで俺を見つめていた彼女は、まるで…そんな言葉が聞こえて来そうな顔をしていた。 馬鹿で、間抜けな男だから、バレた途端に庇いもせずに…俺を捨てたんですか…? あんなに求めて、あんなに呼び出して、あんなに…あんなに… あんまりだ… いつの間にか眠ってしまったのか…気が付くと、縁側の向こうは薄暗く月明りに照らされていて、乾いた涙の痕が鼻筋に乾いてこびりついていた。 「…大丈夫。大丈夫。」 そんな柔らかな声が頭の上から聞こえて来て、髪を優しく撫でられながら、これはきっと…夢なんだと思った。 だって、妙に心地良くて落ち着くんだ。 薄く開いた瞼越しに、ぼんやりと目の前に顔を覗かせた月を眺めて思った。 きっと、傷付いて疲れ切った俺の所に天使が舞い降りて、夢と現実の狭間で優しく慰めてくれているんだ… ヨチヨチ…惺山、ダイジョウブだよ…って…ばぶぅ… 「豪ちゃん、お兄ちゃんいつ帰って来るの?」 は…?! 徹の困った様な声とその言葉の内容に胸が跳ね上がって、体中に緊張が走った。 この手は…天使の物じゃなくて、あのどさんこの手だった… 「えっとねぇ…夜。」 さっき聞こえて来た落ち着いた声色とは違う。とぼけた様な、おどけた様なあの子の声色を、さっきと同じ位置から聞いて眉を顰めて困惑する。 寝ぼけていたのかな…似ている声色なのに全然違う声に聞こえた。 豪ちゃんは、狸寝入りする俺の襟足の髪をクルクルと指に絡めては、クルンと離して遊び始めた。その手つきが、手の温度が、妙に心地良いんだ… そんな、思いもよらない感情に重ねて困惑すると、落ち着くために気付かれない様に深呼吸をした。 「まぁったく、今が夜だよ!それに、そのおじさんに触り過ぎると怒り始めるよ?沸点が低いんだから。」 豪ちゃんの後ろに立った徹が、あの子の手を俺の髪から外そうとすると、あの子はクスクス笑って言った。 「じゃあ…朝、帰って来るかもぉ!」 「もう、健ちゃんに黙って来たんだろ?心配しちゃうから、早く帰んなさい!」 らちが明かないあの子の問答にため息を吐くと、徹は俺の正面に回った。そして、目を見開いて困惑する俺を見つけて吹き出しそうになると、笑いを必死に堪えながら豪ちゃんに言った。 「ぷぷっ!お、おお、お家まで送るから…も、おいで…!」 首を傾げ続ける豪ちゃんを正面から抱き抱えて持ち上げると、えっちらおっちらと玄関へと連れて行った。 「だからねぇ、豪ちゃんはやっぱりぃ…甘酒は酒粕よりも、麹の方が良いと思ったんだぁ。徹叔父ちゃんも、奥さんにそう言ってみてぇ?」 「あぁ…どうかな、うちの奥さんは買って来る派だからな…」 縁側から聞こえて来る豪ちゃんの声がどんどん遠ざかって行くと、ムクリと体を起こしてあの子が座っていた畳を手のひらで撫でた。 まだ、温かい… そんなに、俺の髪が気に入ったの…? 柔らかくて繊細で…まるで愛おしむような、慈しむような…そんな温かさだった。 彼女には、到底出せないであろう…あんな、心が揺さぶられる天使の様な優しさを…どうして、どさんこの少年が出せるんだよ… どうしてだよ… 「いやぁ!豪ちゃんは強引だね!風呂から出たら、いつの間にかお前の隣に座って頭をナデナデしてるんだもん。お化けかと思って大声出しちゃったよ。ほ~んと、あの子は分かんないね!」 徹はケラケラ笑いながら戻って来ると、溢れて来る涙を止められない俺を見て、驚いた顔をして固まってしまった。 分かってる…でも、俺も…どうしたら良いのか、分からないんだ。 ただ、あの子に髪を撫でられただけなのに、こんなに心が揺さぶられて…胸の奥から沸き起こる慟哭を止められないんだ。 「うぐっ…うっうう…うう…」 込み上げてくる衝動に耐え切れず畳に突っ伏して泣き声をあげた。まるで、我慢でもしていたかの様に…涙が止められないんだ。 そんな俺に寄り添うように座って徹は背中を撫でながら言った。 「…辛かったな。惺山、辛かった…」 辛かった… 彼女に会えない事が…? 恩人の先生にあんな表情を向けられた事が…? 仕事を一気に失った事が…? いいや、そのどれでもない。 ただ、優しく撫でられて…堪らなく、無防備に…安心してしまったんだ。 親にだって感じた事の無かった得も言われぬ包容力に身を委ねて、安心しきってしまった。 …そして、それは、思った以上に…心地良くて、涙が止まらなくなったんだ… 「ほら、もう、風呂に入って…寝よう。」 「あぁ…」 項垂れた頭を持ち上げて徹を見上げて、ポツリと言った。 「…彼女が、先に誘って来たんだ…」 「…そうか…」 そんな、どうでも良い事を…どうして言葉にして言ったんだろう… 自分自身に呆れて首を横に振って立ち上がると、口元を緩めて風呂場へ向かった。 …馬鹿野郎だな。 どちらが先に誘ったとか、そういう問題じゃないんだ… なのに、解せないでいた気持ちを、誰かに聞いて欲しかった。 「はぁ…」 泣き過ぎて汗だくになった服を脱いで丸い石のタイルが張られた浴室に入ると、手桶で浴槽に張られたお湯を頭からかぶって思った。 こんな原始的な入浴スタイル。俺のようなシティボーイにはハードだな… 湯沸かしの煙突がむき出しの状態で浴槽の脇に立っているんだ…触ったら、大やけどするじゃないか… 「こえぇっ!」 ポツリと独り言を呟いて、シャンプーを手に取ろうと浴室を見渡した。 「え…」 見当たらないシャンプーボトルに首を傾げて、風呂場の外に向かって大声で言った。 「徹!シャンプーが無い!」 「石鹸で洗えばいいだろ?」 は…? そんな…嘘だろ… なんとも思っていない様子で徹はそう言ってのけた。きっと、田舎の男は全てを石鹸で済ませるのかもしれない。でも、俺は根っからのシティーボーイ…コンディショナーまで揃わないと…満足のいく洗髪は無理だ。 無敵の石鹸を手に取って、じっと見つめて固まった。 これで髪を洗うの? や~よ…パサパサになっちゃうじゃない…それに、あたし…癖っ毛だもん…バクハツしちゃう! そんな乙女心を声に出さずに呟いて洗髪を諦めると、今度は、体を洗うスポンジが見当たらない事に気が付いた。 「徹!何で体を洗ったの?」 「はぁ?手だよ!手!」 聞こえて来た徹の声は…どことなく、シティーボーイの俺に苛ついている様にも聞こえた。 「手は…無いな。」 仕方なく、フェイスタオルを手に取って石鹸を擦り付けて、泡立たないタオルで体を洗った。 …明日、来る途中にあった商店で、シャンプーと、コンディショナーと、スポンジと、ボディーソープを買おう… でも、こんなど田舎に売っているかな… ワイルドな浴槽に恐る恐る入って、隣でチリチリと音を立て続ける煙突に向かって水滴を弾いて飛ばしてみる。 …ジュッ!と、勢いよく蒸発して行く水滴をぼんやりと見つめながら、自分の襟足を撫でた豪ちゃんを思い出した。 あの子は俺の襟足に興味があるんだ… 昔から変わった子だって…徹が言っていた。 そんな子供の手つきに、色々と意味を付け足したのは…俺の感性。…つまり、俺の主観な訳で…あの子が、豪ちゃんが、そんな高尚な気持ちを持って俺を撫でていた訳ではないんだ。 馬鹿みたいに語尾を伸ばして喋って…ポカンとした顔で人の後ろをついて回る…そんな変な子が…”慈しみ“なんて感情を持ち合わせている訳無いだろ。 思い出しただけで自然と溢れた涙が落ちて来るのを抑える事も出来ないまま、こんなに涙腺が緩くなっている理由を推測して、自分の中での落としどころを見つけた。 …こんな事でビービー泣いてしまうのは、彼女が恋しくて…スキンシップに弱くなっているせいだ。…きっと、そうだ! 「はぁ…やんなるね…」 首を伸ばして天井を仰ぎ見ると、湯船のお湯を手のひらにすくって顔に掛けて涙を洗い流した。 風呂から上がると、縁側でビールを飲む徹を横目に見て、同じ様にビールを手に取って彼の隣に座った。 「惺山…見てみろ。月がとっても綺麗だ。…あぁ、こんな環境で子供が育てられたら、幸せなのに…」 そう言った徹の横顔は、本音を話している様に見えた。 「…そうすれば良いじゃないか。奥さん…妊娠したんだろ?」 長い足を畳んで片手でビールを開けてそう言うと、徹ははにかみ笑いをしながら言った。 「本当は、5カ月になるまで誰にも言わないでって…口止めをされてたんだ。でも、すっごく嬉しくって…実家の母ちゃんにだけ言った。それがいつの間にか広がったみたいだ…。あぁ~あ!怒られる!」 両手を挙げてそう言うと、徹はそのまま縁側にゴロンと寝転がって夜空を見上げた。 「…安定期っていうのがあってさ…。5カ月に入る前は、いつ、流産してもおかしくない時期なんだって…。だから、ストレス無く、静かに過ごしたいって言われていたのに…。はぁ~!もしもの事があったら、俺は一生後悔しそうだ!」 ぶつぶつと幸せそうな話をする徹を横目に、ビールを一口飲んで月を見つめた。 …黄色い月。 都会では色あせた白に見えるのに…ここでは鮮やかな色を付けて見える。 不思議だな… 「本当に、綺麗な月だ…」 心なしか安いビールすらうまく感じる…きっと、これがネイチャーパワーってやつなんだ。 夜風を頬に受けて、心地良くなって、子供の様に足を揺らしながら徹を横目に見た。彼はにっこりと笑いかけると、視線を庭先に移して話始めた。 「…豪ちゃんは、お兄さんの健ちゃんと一緒に住んでる。両親は居ない。お母さんはあの子を産んだ時に亡くなって、それがショックだったのか…お父さんはあの子が5歳の時から行方不明。18歳の健ちゃんは町の美容室で下働きをして、毎晩遅くに帰って来るんだ…」 え… 驚いて目を丸くした俺に、徹は肩をすくめて言った。 「あの子が、あのグループで可愛がられてる理由は…小さい頃、みんなの家を順繰りに回って、それぞれの親が、あの兄弟を代わる代わる面倒見たからなんだ。」 「そうか…」 たった一言。そんな言葉しか出てこなかった… 同情なんてしない。 だって、彼は周りに助けて貰いながらも、今も、楽しく、この田舎で生活している。 …何も、可哀想な事なんて無いさ。 「でも、不思議だ。女にはモテても、子供に懐かれる事なんて無かったのに…」 ケラケラ笑いながらそう言うと、徹は遠くを見る様に首を伸ばしてため息を吐いた。 「あの子は良い子だよ。ただ、少し、変わってる…。」 そう言った徹の声がやけにしんみりしていた。 「どうして?」 「ん…?」 首を傾げて俺を見る徹に言った。 「どうして、あの子の話を俺にするのさ…」 そんな俺の問いかけに首を傾げると、徹はケラケラ笑いながら言った。 「だって…豪ちゃんが、お前を気に入ったみたいだから。…邪険にしないであげて欲しいんだ。あの子は不思議な子で、変わってる。でも…良い子なんだ。」 「はぁ、面倒だな…」 ため息を吐きながらそう言うと、ビールを煽って飲んで満天の星空を眺めた。 邪険になんてしてないだろうに… 徹の言葉に若干の違和感を感じつつ、そんな事を忘れさせてくれる程の見事な星空に見入って瞳を細めた。 都会じゃ、あのひとつひとつまで見られないのに、ここだと…どの星も美しく瞬いて見える。 …まるで、俺みたいだ。 周りが暗かったら、認識する事が出来る程度の、輝き…それが、俺。 「あの部屋とピアノの部屋にしかクーラーが無いから、嫌でも一緒に寝るからな!」 徹はそう言うと俺の足を蹴飛ばしてケラケラと笑った。そんなあいつの足を同じ様に蹴飛ばし返して、同じ様にケラケラと笑って言った。 「やなこった!」 30過ぎの男ふたりが同じ部屋で寝るなんて…熱さから身を守る為だとしても、ゾッとするじゃないか!それに、徹と一緒に寝たくない理由は他にもある。 俺はいびきはかかない。ただ、徹は危ないんだ。 昔、ふたりで飲み過ぎてベンチで酔い潰れていた時…他のベンチで寝ていた酔っ払いが、彼のいびきが原因で喚きながら噴水に飛び込んだ… 徹の奥さんは、ノイズキャンセルのイヤホンを耳に装着しながら寝ていると言っていたし… 「おやすみ~~!」 元気な声でそう言って布団に潜り込んで行く徹を見て、彼よりも早く寝ないと眠れなくなる可能性を感じて、まだ眠たくない瞼を必死に閉じた。 でも、瞼の裏に浮かんできたのは…暗闇の中で俺に話しかけて来る彼女の顔だった… 「…ねえ、惺山。主人がね…どうも私たちの事、気付いてるみたいなの…。あなたにちょっかいを出すなって言われてしまったわ。だから、ねえ…もう、お終いにしましょう?」 「どうして?…俺の事、愛してるって言ったじゃないですか…」 そんな俺の言葉にあなたは面倒くさそうに顔を歪めた。そして、俺は彼女のそんな態度に、自分を否定された気になって…意固地になった。 …あの時、綺麗に別れていたら…いつまでも愛したままでいられたのかな。憎む事も、恨む事も、どうして…なんて縋りつく事も無く、次へ進む事が出来たのかな… 今となっては、何が正しくて…どうすれば良かったのかなんて、分からないよ… ただ、俺は多くの物を失って…あなたは変わらず先生の恩恵の下に居る。 徹のいびきは俺には無力の様だな… たまに呼吸が止まる事以外…気にする事も無く眠りにつく事が出来た。 ドンドン…ドンドン… 「せいざ~ん、おはよ~。」 どこからともなく聞こえてくる、自分の名前を呼ぶ聞き慣れない声を無視して寝返りを打つと、俺の足をガシガシと蹴飛ばして徹が寝ぼけたまま言った。 「惺山!豪ちゃんが…豪ちゃんが来た!出るまで続くぞ!行ってこい!」 はぁ…? 「知らない…」 俺はあの子が苦手。いくら“良い子”でも、育った境遇が過酷でも、そんなの関係ねえ…おっぱっぴ~だ。 ガシガシと蹴り続けられる足を体に引き寄せて攻撃をかわし、布団に包まって微睡むと、玄関から聞こえて来る豪ちゃん以外の声に聞き耳を立てた。 「豪…迷惑だから止めろ。まだ、寝てんだよ。」 「えぇ~?だってぇ、烏骨鶏だよ?惺山に食べさせてあげたいの。」 ごねる様に誰かにそう言った豪ちゃんは、再び玄関を叩いて言った。 トン…トン… 「…惺山?惺山?烏骨鶏の卵をあげる…生みたてほやほやだよ?」 さっきよりも威勢の弱くなったノックの音と豪ちゃんの声に、自然と口元が緩んで行く。 …本当に、馬鹿な子。 すっかり俺の名前を覚えて…まるで、昔からの知り合いの様に使いやがるんだ。可愛い顔をした…足らない頭の、野良猫みたいに俺に付いて回る…馬鹿な子。 …無視を決め込めば、諦めて帰るだろう。 「うっ…うう…兄ちゃ…惺山、出てこないぃ…うっうう…」 「当たり前だ!今、何時だと思ってんだ。馬鹿野郎!」 …ガバッ! 布団から体を起こして寝ぼけた頭をポリポリとかきながら、ムクリと布団から出た。 「ん、せいざぁん、優しいぃ!」 そんな豪ちゃんの声真似をした徹を蹴飛ばして、ヨロヨロと、開き切らない瞼のまま玄関へ向かった。 …別に優しくなんて無い。 あんな馬鹿な弟を持った兄貴の顔が拝みたくなっただけだ。…決して、あの子が泣きそうだったから起きた訳じゃない… 早朝…6時 玄関の曇りガラスの向こう側には、ふたり分のシルエットが見えた。俺の足音を聞いたのか、ぴょんぴょんと体を跳ねさせる豪ちゃんと、その隣に背の高い誰かが立っている。きっと…あの子の兄貴だ。 ガララ… 「おい!何時だと思ってるんだ…!」 玄関を開いて開口一番にそう怒ると、満面の笑顔の豪ちゃんが俺を見て言った。 「惺山~!あっふふ!なんて髪型をしてるのぉ~!」 「す、すみません…!ほら、豪!早いって言ったじゃないか!」 ペコペコと頭を下げる兄貴をよそに、豪ちゃんは背伸びをしながら俺の頭を撫でて、ふらつく体をそのまま俺にもたれさせながら襟足に手を伸ばした。 …豪ちゃんには、俺の言葉なんて聞こえていないんだ。 「ちょ…な…」 まるで抱き付かれている様な状況にドギマギした後…ふと、我に返った。 この子は可愛い顔をした男の子。柔らかい胸なんて持っていない。一瞬でも、ドキッとしてしまった…俺が間違ってた。 「んふふ!凄い頭~!素敵だねぇ?豪ちゃんも伸ばしてみようかなぁ?」 クッタリと俺の胸に頬を付けて、スリスリしながら豪ちゃんがそう言った。 あの子の指先で絡められた襟足の髪が、寝ぐせのせいか…絡まって皮膚を引っ張った。 「いてて…!」 「こらっ!豪!す、すみません…馴れ馴れしい奴で…ご迷惑をおかけして、申し訳ないです…。」 なんだ…兄貴はまともの様だ。 「んふぅ…いてて、いててて!んふふぅ!」 俺の胸に抱き付いた豪ちゃんは、相変わらず襟足の髪を指に絡め続け、俺の物まねをしながらクスクス笑った。 「豪…!も、止めろ!すみません…今、今、止めさせますんで…」 この兄貴は、謝り慣れているのか… 豪ちゃんの横暴に合いの手を入れる様に…謝るタイミングがピッタリなんだ。よく見れば、端正な顔立ちをした美形の良い男…身長だって俺と同じ位高い。 …絶対モテる。 「あぁ、もう…すみません…ほんと、どうしたもんか…」 しかし、口だけだな… 俺にベッタリとくっ付いた豪ちゃんを引き剥がせずに居るんだ。 分かるよ。 こんなにベッタリくっ付かれていたら、あの子を引き剥がす為に俺にも触れないといけないからね…。 普通の男は、他の男に触りたくなんて無いだろ? だから、口だけ謝って…豪ちゃんの背中を引っ張るくらいしか出来ないのさ… ふと、何も話さなくなった豪ちゃんを見下ろした。 クッタリと脱力しきった口元は微笑んでいる様に口角が上がって、惚けて潤んだ瞳はぼんやりと遠くを見ていた。 …いったい何なんだ… 「豪…!ほら、そうだ、たた、卵を渡したかったんだろ?ほら、ご迷惑だからいい加減離れろ。馬鹿野郎。」 「そうだぁ!」 兄貴の言葉にケラケラ笑ってそう言うと、豪ちゃんは足元に置いた籠を手に取って、俺に差し出した。 「…はい。烏骨鶏の卵、惺山に…あげる。」 さっきまでの横暴が嘘の様に大人しくなった豪ちゃんは、頬を真っ赤にしてもじもじしながら、体を揺らして俺をチラッと見上げた。 …なんだよ。 「ん…」 あの子の差し出す籠の持ち手を掴んで受け取ると、兄貴に会釈して玄関を閉めた。 今更、照れたりして…一体、何なんだ… 昨日あんだけベタベタと付きまとって、話しかけて来たのに…本当、変な子。 解せない思いを抱きながら台所に卵の入った籠を置いて、水を飲んだ。 朝の6時なんて早朝の割に昨日早く寝たせいか、もう一度布団に戻る気にはならなかった。ただ、俺に抱き付いた惚けた瞳のあの子の顔が、頭の中から離れて行かなかった… なんであんな顔をしたんだよ… 昨日も、あんな顔をしながら俺の髪を撫でていたのかよ… 変な子… 「豪ちゃんのお兄ちゃん、健ちゃんって言うんだ。良い子だったろ?」 寝室の扉を開いてヨロヨロと出てくると、徹は烏骨鶏の卵を手に取って嬉しそうに微笑んだ。 「あぁ。破天荒な弟の後ろを付いて歩いて謝り慣れている様子だった…」 クスクス笑ってそう言うと、戸棚の中のやかんを取り出して水を入れて火にかける。 そう、コーヒーを作るんだ。 「シャンプーと体を洗うスポンジを買いたいんだけど、村の商店に売ってるかな…」 「ふえっくしょい!」 くしゃみをしながら畳の上に胡坐をかいて、徹は俺の言葉に首を傾げながら手を上げて説明を始めた。 「この…前の道を道なりに下って行くと…左にバス停がある少し大きな道に出る。そこを横断して…進み続けて、その先の三叉路を…左に行くと湖に出て、右に行くと…商店と、すぐ隣の脇道の奥に豪ちゃんの家がある。商店にお前のお目当ての物があるかと言われれば…どうかな?いつも、品薄だから。」 インターネットが発達した世の中…品薄なんて言葉…シャンプーに対して使われるなんて、信じたくないもんだな。 手元のマグカップにインスタントコーヒーを入れると、沸騰して蒸気の音を立てるやかんを手に取ってトクトクとお湯を注いで入れた。自然と鼻に香るコーヒーの良い香りに口元を緩めて、ホッと一息つく。 ガタガタ…ガッタガタ…! 徹が雨戸を押して開いて、朝の清々しい空気と一緒に眩しいくらいの朝日が部屋の中に入って来た。それはまだ午前中だというのに、畳の色が真っ白に飛ぶ程だ… 「はい、コーヒーを淹れてやった…」 「インスタントな…」 そんなやり取りをしながら畳の上に座って、縁側の向こうを眺めた。 あぁ…なんか、こんな生活も…悪くない。 全てがシンプルで…変な手回しも、余計な憶測も、雁字搦めになる様な…見栄も無い。ただ、毎日を過ごしている感覚だけは、しっかりと体に残るんだ。 「烏骨鶏って言ってたよな?やったぁ!きっとすっごく美味しいぞ?惺山はすっかり豪ちゃんに気に入られたな?やっぱり、あの子は変わり者が好きなんだ!ははは!」 変わり者…? 首を傾げて徹をジト目で見つめて頭の中で考えた。 いつ、俺が変わり者だと思ったのか…?それは学生時代の事なのか…それとも、最近そう思ったのか…? そんな俺の視線なんて気にしない様子で、徹はコーヒーを啜って飲みながら楽しそうに笑って言った。 「烏骨鶏の卵なら、卵かけご飯に限るっ!絶対だ!」 …あぁ、ここは平和だ。 手際よく米を炊き始める徹を横目にスズメがチュンチュンと集まる庭を見下ろして縁側に腰かけた。すでにポカポカに温まった縁側は色あせた表面が物語る通り、日当たり良好だ… 昨日、ギャング団たちが吐き出したスイカの種でもついばんでいるのか…やけに大量のスズメが我先にと地面を突いては移動を続けている。 下手くそが種以外も一緒に吐き出してたからな…実でも残ってるんだろう。 「ご飯を食べたら、俺は実家に寄って東京へ戻るよ。何か困った事があったら言ってくれ。まぁ…でも、お前には豪ちゃんが付いてるから…あっはっは!大丈夫かぁ!」 徹はそう言って大笑いしながら縁側の下に下駄を放って、おもむろに庭に降りて行った。 すぐ傍を通られても逃げもしないスズメたちは、人なれしているのか…それとも、徹が自然と調和し過ぎているのか…? 「見て?ここにシソが生えてるんだ。ただ、田舎の人と一緒じゃない時は野草には手を出すなよ?特に、ニラ系は危ない。あれはユリの歯と間違えて中毒で死ぬ人が出るんだ。あと、キノコは全般、素人は手を出さない方が良い。まぁ…豪ちゃんがいるから、大丈夫かぁ!あ~はっはっは!」 「…お前はここに住んだ方が、魅力的に見えるぞ?」 徹の知られざるサバイバル能力に感嘆してそう言うと、彼は肩をすくめて首を傾げた。 …あぁ、奥さんが住みたがらないのか… 子供を育てるには、確かに…都会よりもこんな自然がいっぱいの方が良いのかもしれない…。特に、父親がこんな風にサバイバルに長けているなら、威厳を示す機会にもなるしな…。 「湖は、広いの…?」 シソの葉の香りを嗅ぎながら俺の隣に腰かけた徹にそう聞いて、コーヒーを一口飲んで、鼻から空気を吸い込んだ。 あぁ…清々しいって…こう言う事か。胸の奥が洗われて行く様だ… 「広いよ。広いし、泳げる。後で、豪ちゃんに連れて行って貰ったら良い。あ~、ただ…俺の記憶が正しければ、あの子は金づちだった気がする…。いつも哲郎に抱っこして貰いながら泳いでいたからなぁ…。」 「金づち…?そうなんだ。こんなど田舎でも、泳げないもんは泳げないんだな…」 クスクス笑って徹を見ると、彼は嬉しそうに目じりを下げて言った。 「豪ちゃんはやっぱり不思議な子…。お前の毒が抜けて行く気がする。…昨日よりも、断然明るい表情になったじゃないか…」 へ…? それはきっと気のせいだ… 「はは、それは違うね。だって、俺はあの子が苦手だからな…。まるで純真を絵に描いた様な無防備の人を見て微笑ましいと思える人は、心に余裕があるのさ。俺は、あの子を見ても、煩わしくって鬱陶しいとしか思えない。」 子供はもともと苦手さ…それに付け加えて、豪ちゃんのしつこさには辟易しているんだ。一日、少しの時間、一緒に居ただけで…うんざりする。

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