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#39 豪ちゃん

行った… 惺山が…行った… 彼の車の音が遠ざかって行くのを、ただ、じっと耳を澄ませて聞いた。 彼が枕元に置いていった楽譜の束を、止める事の出来ない涙越しにぼんやりと眺めて、やっと動けるようになった指先でそっと撫でた。 「惺山…」 むくりと体を起こした僕は、手に持った楽譜に書いてある文字を読めなくて、そのまま胸に押しつける様に抱き抱えて布団から出た。 「…兄ちゃん、惺山が行った…」 風呂場の前でいびきをかく兄ちゃんにそう言って、大きな体を揺らした。すると、兄ちゃんはおもむろに僕を抱きしめて、そのまま布団の中に引っ張り込んで来た。 「な、なぁんだぁ!」 嫌がって暴れる僕を兄ちゃんは後ろから強く抱きしめて、何度も頷いて言った。 「…そうか…そうか…」 その声が、僕の背中を熱くして、やっと止まった涙が…また溢れて来てしまった。 「こ、こ…これで良いんだぁ…!あの人は…大人じゃ無いから…こ、これで良いんだ…!」 きっと、顔を見合わせてお別れする事なんて、出来ないって、分かっていた…。 弱い訳じゃ無い、情けない訳じゃ無い… ただ、僕と離れたくなかっただけ。 僕も彼と離れたくなかった…だから、これで良いんだ。 惺山がここを離れる決心を付けた時。 僕はすぐにそれに気がついた… でも、止めなかったし、あれこれ聞いたりしなかった… だって、いつかはそうなる事だから。 だから、僕も心づもりをしていたんだ… でも… なのに… 彼の命を守る為に、僕が望んだ事の筈なのに… 堪らなく、悲しいんだ… …また、会える。 僕が先生の傍でバイオリンを弾き続ける限り…僕は、彼に会えるんだ… だから、胸の中の痛みよ…どうか、これ以上悲鳴を上げないで… 「兄ちゃん…朝ご飯をたべたら仕事に行って…。僕はここを片付けて、清ちゃんのお父さんに鍵を返してくる…。仕事が終わったら、ここじゃなくて…うちに帰ってくるの。良い…?」 「…ん、分かった…」 いつものように朝ご飯を作って…彼のいない食卓に、ふたり分のお茶碗とお味噌汁…パリスの卵焼きを出した。 兄ちゃんは何も話さないで、ただ、ぼんやりと彼の持って帰ったモニターの後ろにあった…壊れたテレビを見つめてる。 「…ごちそうさまでした…」 僕は朝ご飯を早々に済ませて、すぐに片付けを始めた。 お風呂場を掃除して…トイレを掃除して… 台所で、いつも彼が使っていたお箸を手に持ったまま、寝室の奥を眺めて…彼がひょっこり顔を出すんじゃ無いか…と、馬鹿みたいに期待した。 「豪…兄ちゃんは行ってくるぞ…」 「…うん。行ってらっしゃい…気をつけてね…」 いつもと変わらない。 兄ちゃんのバイクの音が遠ざかって行くのを、彼がいつもそうしていた様に、縁側で見送った…。 「あぁ…惺山…。ほんと…可愛らしい人…」 言葉とは裏腹に、そう呟いた僕の声は震えて暗かった。 あらかたの片付けすませた僕は、布団を天日干しさせながら、庭をパトロールするパリスを見つめた。 卵を温める任から降りたパリスは、自由に庭を歩いている。これからは、彼があの卵の保護者になったんだ… 「パリス…惺山、何か言ってた…?」 僕の問いかけに、パリスは足を止めて僕を見上げた。そして、足元まで近付いて来ると、喉の奥を鳴らして僕に頭を小突けた。 「…ふふ、そう…彼らしいね…」 パリスの頭を撫でながら、クスクス笑って、落ちてくる涙をそのまま地面に落とした。 そして、僕は、ピアノの部屋に向かう… 掃除機を掛けないといけないからだ。 この扉の向こうに…彼がまだいるかもしれない… そんな馬鹿みたいな期待をしてしまうから…まだ、掃除を済ます事が出来ないでいたんだ。 「…お母さん。…彼を、守ってね。僕の命なんだ…」 ふと、そんな言葉を呟きながら、ピアノの部屋の扉に手をかけた。 床一面に散らばった楽譜は、もう、無い。 ピアノの上には、僕のバイオリンが、ちょこんと乗ったままだ。 「…本当に、行ってしまった…」 ずっと見れないでいた、彼が置いていった楽譜を手に持った僕は、いつも彼がそうしていた様に、ピアノの椅子に腰かけた。 そして、いつも彼がそうした様に、ピアノの蓋を開いて…そっとその上に楽譜を置いて、彼の書いた文字を目で見つめて追いかけた。 「…きらきら星から…可愛い鶏ちゃんへ…うっ…うう…せいざぁん…!」 言葉にして口から出した瞬間…僕は、耐え切れなくて、ピアノの鍵盤を鳴らしながら突っ伏して泣いた。 愛してる… あなたは僕の全て、僕の幸せで、僕の人生… いつまでも…あなただけを、探して、待ってる。 ”死“が終わって、再び会えるその時まで…僕は自分を信じて、あなたを待つ。 だから、それまで…少しの間、お別れしましょう。 僕の…愛しい、不滅の恋人…

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