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#38

「わぁ!豪華だぁ!」 そう。この村自慢の遊覧船は、大きさは小さいが…まるで豪華客船の様に豪華に見えた。細かい欄干がぐるりと回った船体上部は、十分にタイタニックごっこが出来そうな佇まいだ。 子供たちと一緒に遊覧船を下から見上げていると、船の上から晋作の親父が顔を覗かせて言った。 「お~、よく来たな。上がって来い!」 「わぁ~~い!」 そんな絵に描いた様な歓声を上げながら船に乗り込んで行く子供たちの後を追いかけた。 すると、船の添乗員らしき女性が、大吉を見て盛大に吹きだして笑った。 あいつはまんざらでもなさそうに照れ笑いをして、何故か急に自信に満ち溢れた表情をし始めた。 そして、すかさず俺の傍に来ると、眉を片方だけ上げて格好付けて言った。 「やばい…おじちゃん、今日の俺…イカしてるかも。」 止めてくれ… 腹が…壊れる…!! 「…お、お前はいつも…イカしてるだろ…?」 そんな俺の悪乗りさえ…大吉には真実の言葉として受け取れるんだもん。 お前の、鋼のメンタルを俺にも分けて欲しいよ… 自信に満ち溢れた大吉は、既に到着していた大人たちに大笑いされても平気な顔をして、ひとりの女の子の前に立った。 背の高さ160センチ前後…白いフリルの付いた上品な水色のワンピース姿。長いストレートの髪をひとつにまとめた姿は…バレリーナの様にも見えた。 怪訝な表情で大吉を見つめる彼女に、あいつはいつもの様にフルスロットルで、キメ顔をして言った。 「…めぐちゃん、やっほ!今日も可愛いじゃん!」 「キモイ!鏡が家に無いの?ブスで、ふとっちょ!あんたより、ドン・ガバチョの方がましよっ!」 …痛い!痛いうえに、古い! 目の前で暴言を吐かれた大吉は、さすがに機能停止してしまった様子で、目を丸くしたまま固まっていた… 救出だ! 俺はさりげなく大吉に近付いて、あいつの腕を掴んだ。そして、暴言を吐き捨てた女の子をジロリと見下ろして、立ち去ろうとした。 すると、めぐちゃんと呼ばれるその子は、俺の腕を掴んで、開口一番言った。 「この男なら良い!」 一体…どんな躾をしたら、こんな女に育つんだ…!! 唖然としながら、めぐちゃんの傍にいる哲郎の母親を見つめて、眉間にしわを寄せながら顔で訴えた。 “なんだ!この子は!” “ごめん…!” そんな声が聴こえて来そうな顔をした哲郎の母親は、諫める様にめぐちゃんに言った。 「男だなんて…失礼よ?この人は…惺山先生って言うの。豪ちゃんの…バイオリンの先生なの。」 「はぁああ?あの、ウッキーの?あり得ない!」 …ウッキー? 豪ちゃんの事か…?酷いな… めぐちゃんは顔を歪めてそう言うと、俺を見上げて口をひん曲げて言った。 「めぐのバイオリンの先生にしてあげる!」 「いや、良い…」 そもそも、俺はバイオリンの先生じゃない。作曲家だ…! 表情を変えずにそう言って、めぐちゃんに掴まれた手を解いた。そして、ショックに固まった大吉を抱えて救助すると、足早にその場を後にした。 「大吉…あの子は駄目だ…。あんなどぎつい子…俺は嫌だ。」 そんな俺の言葉に、あいつはバツが悪そうに視線を逸らして、下唇を噛んだ。 …まったく! …普通の人が避けて通る様な危険な案件に、みだりに手を出すんじゃないよ… あんな性格の子…見た目が良くても、一緒に居たら精神が病みそうだ。 「せいざぁ~ん、こっちにおいでぇ~!すんごいよ~~!」 そんな声に顔を向けた俺は、デッキへ向かう階段の途中で首を傾げてこちらの様子を伺う豪ちゃんの元へと足早に向かった。 すっかり落ち込んでしまった大吉を心配そうに見つめる豪ちゃんに、俺は肩をすくめながら言った。 「女の子に、酷い事言われた…」 「え…」 すっかり丸まってしまった大吉の背中を撫でた豪ちゃんは、眉を顰めて唇を噛んだ。 悔しそうだね… そりゃそうか。君の大切な友達だもんな… 「気にするな…あの子は、バケモンだ。」 そう言って落ち込んだ大吉の頭を撫でた俺は、丸まってしまった背中を伸ばす様に、グイグイとあいつを押して、階段を上った。 「わぁ…」 船上デッキに上がると、目の前に広がった圧巻の景色に、大吉の表情がみるみる明るくなって行く。 白いテーブルクロスのかかったテーブルには、人数分の食器が用意されて、綺麗な花まで飾られている。そして、向かい合う様に用意された舞台には、幹事を務めるのか…晋作の親父が鼻をほじりながらぼんやりと立っていた。 「ふふっ!お前の格好の方が、この場に合ってるじゃないか…!」 そう言って大吉の頭をポンポン叩くと、あいつはケラケラ笑って言った。 「そうだろ?そうだと思ったんだ!」 気を取り直したのか…大吉はそう言ってケロッと笑った。そして、哲郎たちが座った席に走って向かった。 あぁ…あいつのリカバリーが早くて良かった… …俺が15歳の頃。あんな事を女の子に面と向かって言われたら、藁人形と五寸釘を用意する所だ…。 そして、多分…一週間以上は、眉間にしわを寄せながら過ごしてる。 「てつろぉ~?てつろぉ~?」 階段の下から聴こえて来るめぐちゃんの声に眉をひそめた豪ちゃんは、俺の手を掴んで、そそくさとテーブルの席へ引っ張って連れて行った。そして、俺を椅子に座らせながら、顔を歪めて言った。 「…あの子、意地悪なの…。僕の事…ウッキーって呼んで、意地悪するんだ。」 あぁ…あの子は、意地悪だ。 健太やギャング団の子供たちが、めぐちゃんを”高慢ちき”と呼んでいた理由が、たった一回話しただけでも、痛いくらいに分かった…。 ちょっとしたお金持ちのお嬢様で、合コンで売れ残るタイプの子だ。 自尊心を守りたい男ほど、君子危うきに近寄らず…を貫く生き物は居ないからね。 あんなおっかない女の子…話もしたくないのさ。 ため息を吐きながら、眉を下げて、豪ちゃんの頭を優しく撫でてあげた。すると、あの子は顔を上げて、にっこりと笑って言った。 「でも、てっちゃんが犠牲になってくれれば、こっちに被害は来ないよ?」 あぁ…豪ちゃん… それって、ある意味…すごく酷い事だ。 プォオオオ~! しばらくすると、そんな甲高い汽笛を鳴らしながら、遊覧船“五郎丸”が出港した… 「あぁ~!惺山…!こっちに来てぇ!」 豪ちゃんは、楽しそうにコロコロ笑って、俺の手を掴んだ。そして、欄干まで連れて行くと、俺の腕の中に入って両手を横に広げて言った。 「タイタニックして~?」 はぁ… 「ほい…」 渋々豪ちゃんの腰を掴むと、そんな俺を満足げに仰いで見上げて、あの子は目を瞑った。そして、風を顔面に受けながら、胸を張って、大声で言った。 「ジャーーーーーーック!二度と、帰って来るなぁ~~~~!」 豪ちゃん、色々混ざってる…それは、色々混ざってる…! タイタニックのジャックと…俺がこの前演奏した“Hit The Road Jack”のジャックが混ざってる! こんな事…恥ずかしいなんて思わないさ… だって、この子の通常運転だもの。 「あぁ~!見て~?惺山!煙突から煙が見える!」 タイタニックごっこを止めて俺を振り返った豪ちゃんは、今度は五郎丸の煙突を見上げて、ケラケラ笑いながらそう言った。 落ち着きない…?忙しない…?そんな事ない。 この子は、今、楽しくって…仕方が無いだけさ。 「あぁ、綺麗な…空…」 煙突の向こうの空を見つめて瞳を細めた豪ちゃんは、さっきまでの賑やかだった表情を落ち着かせて、穏やかにそう呟いた。 そんなあの子の声を耳の奥に届けて、目じりを下げた。 豪ちゃんは、俺越しに五郎丸の煙突と、その向こうの空を同時に見つめているんだ。 そんな視線の合わないあの子の顔を可愛いく思いながら、俺はニヤ付く顔のまま、豪ちゃんを見下ろしている。 夕日に染まった豪ちゃんの頬は、いつも以上に赤く染まって見えて、思わず、俺はそっと指先で撫でた。すると、ハッと目を丸くした豪ちゃんは、俺を見つめて…もっと頬を赤く染めた。 あぁ…可愛い。キスしたい。 「哲郎~!そんな所に居たの?どうして、めぐを迎えに来てくれなかったの!」 そんな俺と豪ちゃんの止まらないロマンティックを打ち砕く様に…めぐちゃんの金切り声が、船上の空気を一刀両断に切り裂いた。 わしゃ、ええ雰囲気を、台無しにされた気分やで… すると、口を尖らせた豪ちゃんが、俺に抱き付いて言った。 「逃げよう…惺山…!」 ふふ、おっかしい…相当、あの子が…苦手なんだ。 「そうだな…逃げよう…」 そう言って豪ちゃんを抱きしめると、お腹に隠す様にコソコソと移動して、座っていたテーブルの席へと戻って来た。 タイミング悪く、そんな俺たちと入れ違う様に…めぐちゃんが向こうからプリプリと歩いてやって来た。 あぁ…早く通り過ぎてくれ…! そんな思いをひた隠しにしながら、豪ちゃんを横目に見た。すると、あの子は、首を上に上げて、空を見ながらトボけ始めた。だから…俺も真似して、豪ちゃんと一緒に空を見上げて、めぐちゃんが通り過ぎて行くまでトボける事にした。 「はぁ…とっても、綺麗な空だ…」 「本当だ…綺麗な空だ…」 「…こんなきれいな空、無いね…」 「本当だ…こんなきれいな空は無い…」 しかし、俺たちの努力の甲斐もなく、めぐちゃんは、俺と豪ちゃんの目の前で足を止めた。そして、俺と豪ちゃんの視線を集める様に、両手を叩いて顔を覗き込ませて来た。 あぁ…なぁんだよ… 「…ウッキーの癖にバイオリンとか、笑わせる!あんたには、バナナの方がお似合いよっ?お猿のウッキーは、バナナをいっぱい召し上がれ?」 そんな卑猥な事を言っためぐちゃんは、視線を合わせようとしない豪ちゃんの顔を覗き込んで畳みかけて言った。 「貧乏で、馬鹿の癖に!」 「めぐちゃん!いい加減にしなさい!それ以上失礼するなら、もう、降りてもらうよ?」 哲郎の母親がそう言うと、めぐちゃんはフイッ!と顔を背けて、哲郎の元へと走って逃げた。そして、晋作の座った席を無理やり横取りして、哲郎の隣に座ってニコニコと表情を変えた… …やばい女だ。 「豪ちゃん…ごめんね…」 哲郎の母親は、困ったように眉を下げて豪ちゃんにそう言った。でも、あの子は首を傾げながら俺を見て、顔を歪めて言った。 「ん、いやだぁ…」 ぷぷっ! そうだね…嫌だね。 「まぁ…もう、近付かないなら…良いです…。」 そんな俺の言葉に、ため息を吐いた哲郎の母親は、すっかり参った様子で俺の隣に腰かけて項垂れた。 「あの子…あたしの兄貴の子供なんだけど…奥さんがあの子そっくりな人で…。はっきり言って育ちが悪いの。もう…誰が今日の事、教えたんだろう…。ほんと、良い迷惑だわ…。自分で後始末も出来ない癖に…人に、こういう厄介事ばかり押し付けて…自分は呑気にビールなんて注いちゃってさ…」 そう言いながら、ジト目で哲郎の親父を睨み付けている様子に、きっと…あいつがこの混乱の犯人だと…確信しているように見えた。 多分…今夜は、激しい夫婦喧嘩が巻き起こるに違いない… そうこうしていると、遊覧船“五郎丸”は湖の真中までやって来て、エンジンを止めた… 「はぁ~!凄い~!」 続々と運ばれてくる豪華な料理に目を輝かせた豪ちゃんは、俺の携帯電話をポケットから取り出して、ぼんやりと佇む晋作の親父に手渡して言った。 「晋ちゃんのお父さん、ね、撮って?」 そう言うと、あの子は俺の膝の上に座って、至極真面目な顔を作って言った。 「惺山も、ニコニコしないで、ムスッとして撮るの!」 …はぁ? 意味不明なあの子のリクエストに応えて、いつもと変わらない…仏頂面をカメラに向けてあの子の腰を抱いた。 「ぷぷっ!」 晋作の親父は、そんな不思議な様子にクスクス笑いながら、シャッターを何度も切って言った。 「次は笑ってるのを撮らせてよ!」 至極、まともな意見だ。 そんな晋作の親父の言葉に深く頷いた豪ちゃんは、神妙な顔をしながら今度はバイオリンを取り出して、俺の背中に抱き付いて来た。 そして、そのままの体勢で…俺の首にバイオリンを当てて、反対側の手に持った弓をそっと弦に置いて構えた。 …まるで二人羽織りの様だ… 目をきょどらせながら、豪ちゃんを仰いで見上げた。すると、あの子は満面の笑顔で俺を見下ろして、ケラケラと笑いながら言った。 「惺山、笑ってぇ?」 はは!なんだこれ…! 「ぷぷっ!」 こんなポーズの写真…!おっかしいだろ。 「…なぁんなんだ!一体!」 思わず吹き出し笑いをしながら、背中のあの子にそう言うと、晋作の親父がシャッターを何度も切りながら、大笑いをして言った。 「あ~はっはっは!こりゃ、良い写真が撮れたぁ!ははっ!めちゃくちゃ楽しそうじゃん!」 え…? 手渡された携帯を見てみると、そこには…本当に、楽しそうに笑う俺と豪ちゃんが写っていて…あっという間に目頭が熱くなった。 「あぁ…素敵じゃないか。」 どうしてかな…まだ、君と離れて居ないのに…急に寂しくなってしまったよ。 …きっと、こんな写真を撮ったせいだ。 潤む瞳を隠す様に顔を振った俺は、背中を丸めながらバイオリンをしまうあの子に言った。 「健太の携帯に送ろうね…」 「うん!」 …馬刺しを食べる俺と、豪ちゃんと一緒に映った仏頂面の俺と、楽しそうに豪ちゃんと二人羽織りをする俺の写真を、早速、健太の携帯にメールと一緒に送信した。 メールの内容…? 俺の東京の自宅の住所と、電話番号…後は、木原先生の連絡先だ… 「…なぁんだ、これ!気持ちわりいな!誰だよっ!こんなの送って来たのはっ!嫌がらせだぜ!ほんと、最低だな!」 …送信者を見れば誰が送ったのかなんて一目瞭然なのに、そんな風に文句を言う健太に首を傾げた。 「…俺だ…。俺が送った…」 文句を言い続ける健太にそう言って、あいつが黙るまで…ジト目で見つめた。 「わぁ…ねえ…凄いね…」 健太が大人しくなった頃…美味しそうな料理を見つめて、身震いする豪ちゃんを見つめて、瞳を細めて微笑んだ。 テーブルの上には綺麗に飾り付けられた唐揚げと、お刺身…お寿司に、天ぷら…サラダに、ローストビーフまで…ご馳走と名の付く料理が、ずらりと並んでいる。 「ん~~!惺山に全部、取ってあげるね!ふんふん!ふんふん!」 豪ちゃんは、やる気を見せている… 体を目いっぱい伸ばしながら、テーブルの向こうからこっちまで…あらゆる料理を小さいお皿の上に乗せてくれた。 そして、いつもの様に俺に体を向き直して、いつもの様ににっこりと微笑みかけながら、いつもの様な優しい声で、言ってくれるんだ… 「はぁい、惺山、あ~んして?」 ふふ… 「あ~ん、モグモグ…美味しい!」 俺は目を輝かせてそう言った。 すると、豪ちゃんは嬉しそうに瞳を細めて微笑んだ。 あぁ…君の、その笑顔が大好き。 向こうのテーブルでは、哲郎にベタベタとくっ付いためぐちゃんが、周りの人をことごとく不快にさせて行ってる。 でも、こっちに被害が来ないなら…関係ない。 俺と君が幸せなら…他の事なんて、正直どうでも良い… 「美味しいね、豪ちゃん。これ…食べた?」 「ん、食べてなぁい…」 「はい…あ~んして?」 「え…?!うん…モゴモゴ…あ、あ~ん…」 豪ちゃんは恥ずかしそうに口を開いて、俺の運ぶローストビーフを口の中に入れた。そして、顔を覗き込む俺をチラチラ見ながら、頬を真っ赤に染めて…恥ずかしそうに言った。 「…美味しい…」 あぁ、可愛い…! 豪ちゃんのクラシックな一張羅のせいか…妙に、いけない事をしている様な、そんな背徳感が、いつもに増して、おまけで付いて来るよ… まるで、金持ちのジジイになって…可愛い男の子を飼ってるみたいだ。 「え~…お集りの皆様。どうも、晋作の親父です…。今夜は、この様な会を開いて~…。あぁ~、ええっとぉ、誠に、お足元の悪い中~…ん~、何だぁ…えっと~…」 ハウリングを起こしながら晋作の親父が司会を始めた。 しかし、不慣れなスピーチを何となく始めた晋作の親父は、話題の着地点が見えないまま…途方に暮れて首を傾げた。 「父ちゃん、もうやめてくれっ!悲しくなるっ!」 そんな晋作の声に手を挙げた晋作の親父は、気を取り直して、にっこりと笑いながら話し始めた。 「我らの豪ちゃんが、中学校を卒業したら…フランスに行く。なんでも有名な先生がバイオリンを教えて下さるそうだ!健ちゃんは豪ちゃんを見送ったら、町で暮らす事になる。こうして…みんなで過ごせるのも…残りわずかだ。」 あぁ…健太は町に引っ越すのか… ふと、向かい側に座った健太を横目に見ると、あいつはガブガブとご飯を口に放りながら、アホ面をして晋作の親父を見つめていた… はぁ、こいつは、イケメンなのに… 「嘘よ!」 ほ? めぐちゃんは突然そう言って立ち上がると、豪ちゃんを指さして言った。 「こんなウッキーに、バイオリンが弾ける訳ない!フランスなんて行ける訳無い!めぐは幼稚園の頃からバイオリンを弾いてるけど、ウッキーの事なんて知らないもの。嘘つき!ウッキーは、大嘘つき!」 あぁ… 長く続ければ良いなんて固定概念…豪ちゃんには通じないんだよ。 だって、この子は…才能の塊なんだからね。 君とは…そもそも、スタートラインも、歩む道も…違うんだ。 俺は、何とも言えない苦々しい表情で、めぐちゃんを見つめた。 すると、同じ様に腹を立てたのか…晋作の親父がムッと表情を変えて言った。 「めぐちゃんだっけ…?豪ちゃんはね、ウッキーなんて名前じゃない。豪って名前だ。そして、君はバイオリンを習う前に、礼儀を学んだ方が良いみたいだ。」 その通りだ! 良く言ったぁ! そんな晋作の親父の言葉を鼻で笑っためぐちゃんは、お返しとばかりに、早口でまくし立てる様に話し始めた。 「はん?なに言ってんの?めぐはテーブルマナーも教えて貰ってるし、お金持ちの集まる社交場だって行ってるの。そんなめぐが失礼をしたって言うのなら…それは、礼儀を掛ける必要のない相手だからよ?この、ウッキーは貧乏で親が居ない。それに、ボロ家に住んでて、いつも布切れみたいな服しか着てないじゃない。」 …なぁんて小娘だぁ!! 「ふっざけんな!何も知らないくせに!」 俺が怒る前に…哲郎が怒りに震えて怒鳴り声を上げた。 そして、清助、晋作、大吉が一斉に、めぐちゃんに怒りを露わにした。 「やめろよっ!豪ちゃんを…悪く言うなぁ!」 そんな中、俺は、豪ちゃんの耳を塞いで、めぐちゃんの暴言を聴かせない様にした。すると、あの子は、俺の顔をじっと見つめて嬉しそうに瞳を細めた。 「…みんな?僕は気にしてないよ?だって…それは事実じゃないもの。」 そう言って立ち上がった豪ちゃんは、俺の襟足を撫でながら言った。 「まず、僕はウッキーじゃない。そして、僕はバイオリンが弾ける。そして、親なら…こんなに沢山いる。…ね?どれをとっても…めぐちゃんの言った事は事実じゃない。ただの…彼女による、彼女の為の主観だ。」 そう言ってにっこり微笑むと、舞台の上でしかめっ面をする晋作の親父の元へ行って、彼の顔を覗き込んだ。そして、困った様に眉を下げて、肩をすくめた。 何を思ったのか…豪ちゃんは、おもむろにバイオリンを首に挟んで、右手を緩く掲げながら皆に向かって言った。 「僕がフランスへ行く事と…僕の愛する惺山の交響曲が完成した事を…家族でお祝いしよう。それには、素敵な音楽がいるね?みんなが笑顔に戻る様な…そんな、素敵な音楽が必要だ…」 そして、アホ面の健太を見つめた豪ちゃんは、にっこりと笑ってバイオリンを弾き始めた。 それは、クラシックじゃない…“Happy”なんてめでたい名前の、海外の歌手の曲だ。 それを、あの子は、楽しそうに踊りながら弾き始めた。 まるでショーの様に…まるでMVの様に、小気味良い踊りを見せる豪ちゃんに、思わず笑顔になった俺は、手拍子をしながらあの子の演奏を盛り上げた。 「ほほ!こりゃ、兄ちゃんの好きな曲だ!」 そう言って目をキラキラと輝かせた健太は、突然席を立ち上がって、様になる踊りを見せる豪ちゃんの隣で、一緒になってカクカクと踊り始めた。 あぁ…豪ちゃんは、自分の楽しい気持ちを伝染させようとしてる… すっかり暗くなってしまったこの場を…再び楽しい雰囲気へと、盛り上げようとしてるんだ。 しかも、踊りが様になってて…格好良いじゃないか! だてに…ヘビメタバンドのタンクトップを愛用してないね? 君はジャンル問わず…音楽に、リズムに、乗るのが…好きなんだ! あの子の笑顔と、健太のカクカクダンスの効果か…いつの間にか、どんよりと曇った空気は一掃されて、楽しそうな笑い声と、小気味の良い手拍子があたりを包んで行く… 「ねえ!音楽は…音を楽しむもの…そうだよね?惺山?」 軽やかに踊りながら絶妙な弓さばきを見せて、軽快にバイオリンを奏でる豪ちゃんは、挑発する様な目を向けて、俺にそう聞いて来た。 ははっ!…この子は、本当に…面白い!! 豪ちゃんの問いにニヤリと不敵に笑った俺は、手拍子でアクセントを付けながら笑って言った。 「そうだ!音楽は、音を楽しまなくっちゃ…!…乗らなきゃ、損だ!」 「豪ちゃ~ん!おいちゃんも混ぜてぇ~~!」 そんな元気の良い声を出した清助の親父は、持って来たギターを膝に乗せて豪ちゃんと一緒にハーモニーを奏で始めた。 ほほ!なかなかの腕前だ! バイオリンの軽やかな音色に、クラシックギターのナイロン弦のまろやかな音色がよく合ってる! 良いな… 「キャッキャッキャッキャ!」 かき鳴らすギターの音色が場を一気に盛り上げて、豪ちゃんの演奏する”Happpy”の音色に厚みが出来た。 すると、豪ちゃんは楽しそうに弾けた笑顔を見せながら、バイオリンをウクレレの様に胸の前に構えて、指先で弦を撫でながらギターの様に演奏を始めた。 ぷぷっ! あの子のイカしたバイオリン奏法にゲラゲラ笑った俺は、拍手を送って思わず歓声を上げた。 「フォーーー!凄いぞ!最高だぁ!」 凄いんだ… まるでギターのコードを踏む様に弦に指を置いて…清助の親父のギターに合わせて、まさしく、コードを弾いてハーモニーを作り出していくんだ… これは…きっと、楽しい筈…! いつの間にか、主旋律を清助の親父がギターで弾いて…豪ちゃんがバイオリンでコードを踏みながら伴奏を付けている…そんな、不思議な光景を目の前で見た。 楽しそうに、目じりを下げっぱなしの清助の親父を見つめて、羨ましいなんて気持ちになった… そんな風に…バイオリンを弾くなんて…君は最高だ。 いつも俺の背中の後ろで…バイオリンを弄っては、首を傾げていた君を思い出すよ。 ただ、遊んでるだけかと思っていたけど…違ったみたいだ。 …この子は、この楽器ひとつで、どんな音色を紡げるのか…試行錯誤していたのかもしれない…。 例えば、ギターの様にコードを抑えて、かき鳴らす事は出来るのか…とか。琴の様につま弾く事が出来るのか…とか。指で押し付けて弾くとどんな音色になるのか…とか。様々な音色を聴き分けて、様々な実験をしていたんだ… …つまり、研究者だ。 最高にクールじゃないか…! 「わぁ~!豪ちゃん!もっと弾いて~!」 そんな歓声を受けながらペコリとお辞儀をした豪ちゃんは、さっきまでの険悪な空気が立ち去った場の様子に、瞳を細めて満足げに微笑んだ。 そして、めぐちゃんを見つめると首を傾げながら言った。 「今日は大事な日なんだぁ。…だから、めぐちゃんも楽しんで…?」 「ふん!」 圧倒的な現実なんだ。 バイオリンに触れて…間もないのに、耳で覚えた曲を簡単に弾く事が出来る。それはメロディだけじゃない。曲の全体を通して…様々な手法で再現しようとしてくる。 これは、この子の想像力がなせる技。 確立された…独創性だ。 ただ、楽譜通りに弾くだけじゃない音楽を…この子は教えてくれる。 めぐちゃん…君の様に幼い頃からバイオリンを額面通りに習って来た子には、この子は…忌々しくうつる事だろう。 でも、これは現実なんだ。 ぐうの音の出ない…現実… これが、才能だって…牙を剥いている様な気迫さえ感じて、鳥肌が立った… 「…すっごい良かった!最高に、カッコ良かった!」 そんな陳腐な言葉しか…思いつかない。 ただ、めたくそ胸を揺さぶられたんだ…! 豪ちゃんの柔らかい髪を撫でながら、満面の笑顔であの子にそう言った。すると、ニコニコの表情を変えた豪ちゃんは、俺を射抜く様に見つめて言った。 「…惺山先生に、僕からの贈り物を贈らせて…?」 お? 突然なんだろう…? 手紙なんて読み始めないでくれよ…? 首を傾げる俺を見つめたまま、あの子は舞台に上がって、晋作の親父を手で押し退けた。 そして、俺を見つめたまま…星の瞬きの様に手のひらを開いたり閉じたりしながら、右手を掲げて見せた。 一番星の様に、瞬くあの子の手のひらを見つめていると、次の瞬間、豪ちゃんは俺の胸に向けて、一番星を放り投げて言った。 「この星を…あなたにあげる。だって、星は、全部、あなたの物だから…」 ふふ…可愛い事を言うね… そんな豪ちゃんを見つめて、お礼を言う様に会釈を返した。 バイオリンを首に挟んだ豪ちゃんは、右手をゆったりと上げて、弓を美しく構えた。そして、俺を見つめながら弾き始めた。 “ショパン、ワルツ第7番 嬰ハ短調” 「嘘よ…」 そんな悲壮に溢れためぐちゃんの声を耳に聴きながら、口元を緩めて、あの子を見つめた。 「あぁ…弾ける様になったのか…」 この短期間で…こんなに情緒を込めて… とても、美しい音色だ… 耳を澄ませて豪ちゃんの瞳を見つめていると、あっという間にあの子の情緒が流れ込んで来て、あたり一面を真っ暗に染めた。 街灯も…月の光も無い。 そんな真っ暗闇の中、一気に高度を下げた星たちが、キラキラと瞬いては揺れ動いている…そんな、あの子の情景に、うっとりと瞳を細めて言った。 「ブラボー。豪、美しいよ…」 俺の演奏するショパンと同じ場所に抑揚を付けた、まるで俺に寄り添う様な、しなだれかかる様な“ワルツ第7番嬰ハ短調”に、口元を緩めて微笑むと、愛を込めた視線で、あの子を見つめた。 それは、きっと…俺にしか分からない、こそばゆい感覚。 だって、俺の演奏の特徴を…完全に真似して弾いているんだからね。 「あなたにだけ…聴かせたら良いんだ。あなただけ、喜んでくれたら良いんだ。」 そんな、豪ちゃんの声が聴こえてくる… 俺にしか分からない、あの子からの愛のラブレターだ… 「はぁ…素敵…」 感嘆のため息を漏らす大吉の母親の声を耳に聴いてクスリと笑うと、目の前で伏し目がちに瞳を開いて演奏を終えたあの子に、立ち上がって盛大な拍手を送った。 「ブラボー!」 そんな俺を見つめて頬を真っ赤に染めると、豪ちゃんはもじもじしながら嬉しそうに瞳を細めた。 君は…音色そのものだ。 そんな君に愛して貰えるなんて、俺は…恵まれてる。 盛大な拍手を受けながらお辞儀をした豪ちゃんは、いそいそと俺の隣に戻ってバイオリンをケースにしまった。 そして、俺を見上げると、いつもの様ににっこりと微笑んで、クッタリと甘えて来た。 あぁ…可愛い… 「とっても、美しかった…。どうしよう。大好きになっちゃったよ…豪ちゃん。」 うっとりとあの子を見つめてそう言うと、そんな俺の言葉に顔を真っ赤にした豪ちゃんは、もじもじと体を揺らしながら恥ずかしそうに言った。 「…良いの…惺山なら、良いのぉ…」 ふふ… 身に余る光栄だ… 「さあさあ、お次は…晋作、清助による余興をお楽しみください!」 すっかり気持ちを持ち直した晋作の親父が場を仕切り直した。 そして、次の演目の為、こんなにしっとりした雰囲気の中、堂々と舞台に上がる晋作と清助に豪ちゃんと一緒に拍手を送った。 余興…? 「…何するんだろうね?」 豪ちゃんを見下ろしてそう尋ねると、あの子は首を傾げて言った。 「さぁ…?」 期待の視線を一気に集めた彼らは、見事なまでに面白くない漫才を始めた。 「なんでやねん!」 そんな似非関西弁が、痛々しく感じるよ…晋作。 白けたムードを察したのか…晋作は真顔になって機能停止すると、突然、内股になって言った。 「んぁあああ!豪ちゃぁん!お茶ぁ!」 ぐほっ! 「ぶはっ!げほっげほ!」 飲みかけたワインを吹き出して咳き込んだ俺に、優しく背中を撫でながら豪ちゃんが言った。 「安パイに逃げたんだぁ…」 悪意のある俺の物まねは…この子の家族には、大ウケする。 「あ~はっはっはっは!!」 「もっとやれ~~!」 そんな客席から飛び交う煽りの言葉を右から左に聞き流して、目の前で繰り広げられる誹謗中傷を眺めていると、不意に…目頭が熱くなって行く… 「ぁああん!豪ちゃぁん!チャーハン味しなぁい!」 「んぁ、しょっぱぁい!」 あぁ…楽しかったな。 こんな風にお茶らけて言われても…傷ついたりしない。 ただ、この感情が、この思いが、過去になって行く事を…寂しく感じた。 思い出になってしまう事が…とても、悲しかった… 「あははっ!惺山はね、そうめんを食べると、びちゃびちゃにするから…そこをもっと表現して欲しいなぁ?」 そんな、難易度の高い豪ちゃんの注文を受けた清助と晋作は、アドリブで試行錯誤しながら、俺の駄目っぷりを舞台の上で表現した… これも…ある意味、創作活動だ。 しかも、即興で行われる…生の舞台さ。 「なぁんだ、その程度かぁ!」 いまいちな晋作と清助にそうヤジを飛ばすと、あいつらはムッと頬を膨らませて俺をジト目で見つめた。そして、次の瞬間…2人揃って…ニヤリと笑って顔を見合わせた。 なんだ…嫌な予感がする… そう思った俺の予感は…見事に当たった。 「ぶ~らぶ~ら!俺のちんちんは剥けてんだぞ!」 腰に手を当てて横に揺れながら…晋作がそう言った。 「んぁあ!僕チンは30歳だもん!剥けてる30歳だもぉん!」 同じ様に…腰に手を当てて横に揺れながら…清助がそう言った。 …最悪だぁ! 「ぎゃ~はっはっは!!は、腹痛い~~!!」 哲郎が腹を抱えて大笑いすると、そんなあいつにビビっためぐちゃんが、思わず席を立って後ずさりをした… 「あ~、僕も出来るよ?」 そう言って舞台に向かう大吉の背中を見つめて…不安しか感じない。 「ほ~ら、ほ~ら、見てみろ~~?俺は剝けてるんだぞ~?巨根だぞお~~!奥さん!ちょっと握ってかない?今なら、安くまけとくよっ?」 大吉は仁王立ちすると、そう言いながら腰を横に揺らしてケラケラ笑った。 …最悪だ。 「せいざぁん、巨根って…なぁに?」 隣に座った豪ちゃんが首を傾げて聞いて来るから、俺は首を傾げながらとぼけて言った。 「…さあ…」 あの野郎ども…! こんな場で…俺の”剥けてるネタ“を堂々とやりやがった! 見てみろっ! 親父共は泣きながらゲラゲラ笑うが、母親たちは視線を逸らして、ドン引きしてるじゃないか!! アウトだ! そんな事、気にもしないのか…舞台に乗った3人は、ラインダンスの様に横に並びながら、息を合わせて腰を横に振り始めた。 「キャッキャッキャッキャ!」 楽しそうな豪ちゃんの笑い声だけが…救いだな。 「僕もする~~!」 そう言うと、あの子は舞台の上の3人と腕を組んで、一緒になってゆらゆらと腰を横に振り始めた… 最悪だ…! 「てっちゃんも、おいでよ~~!」 豪ちゃんが舞台の上から哲郎に声を掛けた。すると、あいつはギョッとした顔をして首をブンブンと横に振った。 「なぁんだ、哲!そう言うとこだぞ?」 そんな大吉の親父のヤジを受けたあいつは、渋々といった表情で舞台に近付いて来た。 すると、豪ちゃんは再びバイオリンを取り出して、首に挟んだ。 そして、弦に弓を当てて弾き始めたのは…俺の編曲した”少年時代“。 上手にピチカートして前奏を弾いてのけるんだもの…ほとほと、参ったよ。 「あはは!ふ~んふふふ~んふ~!ふんふふんふふ~ん!」 舞台に上がった5人組は…俺の“剥けてるラインダンス”を止めて、いつの間にか…大合唱を始めた。 そんな子供たちの様子に笑顔になった大人たちも、一緒になって歌い始める。 重なって…厚みを増して行く声音に…妙に胸が熱くなって、あの子のバイオリンの伴奏を聴きながら俺も一緒に歌い始めた。 あぁ…この曲は、年代を問わない。 そして、どの世代にも…共通したノスタルジーを感じさせてくれる。 …夏の終わりに、ピッタリの選曲だ。 夜の湖をぐるりと一周して帰港する遊覧船の上、初めこそトラブルに見舞われた豪ちゃんの壮行会は、予想に反して楽しい時間となって…あっという間にお開きになった。 デッキの上をはしゃいで回る子供たちの声を背中に聞きながら…ただ、揺らめく湖面を眺めて、顔に当たる夜風に気持ち良く首を伸ばした。 「キャッキャッキャッキャ!やぁだぁ!」 上機嫌に笑いながら俺と欄干の間に駆け込んで来た豪ちゃんは、俺を抱きしめながら言った。 「豪ちゃんは捕まらない!だって、今、惺山と合体してるもん!」 卑猥だ… 「そんなルール決めてない!はい!タッチ!豪ちゃんが鬼だよ?」 晋作は鼻で笑ってそう言うと、豪ちゃんの頭をポンと叩いて逃げて行った。 どうして子供って…すぐに鬼ごっこを始めるんだろう… そんな事を考えながら豪ちゃんの頭を撫でて、遠くに見える、この前行った定食屋の明かりをぼんやりと眺めた。 海老が旨かったなぁ… 「…ん、もう!」 口を尖らせた豪ちゃんは諦めた様にため息をひとつ吐いて、そろりそろり…と、俺と欄干の間から抜け出て行った… あの子はね、ああ見えて頭脳派なんだ…やみくもに走り回るんじゃなくって、気配を消して近付いてハントする。 きっと、集中力の無い大吉あたりが、狙われるはずだ… 「うわ!なぁんだぁ!いつの間に!」 ほらね…? 驚いた大吉の声が後ろから聴こえて来て、思った通りの展開に、俺はクスクス笑いながら湖面に映る月明りを眺めた。 船の起こした波紋は…どこまで広がって行くんだろう… 岸まで届いて、少しの余りを残して引き返してくるんだろうか… そんな確認のしようもない事に思いを巡らせていると、遊覧船”五郎丸”は出発した港に戻って、錨を下した。 「あぁ…!楽しかったぁ!また、明日ね~!」 「ありがとうございました。とても楽しかったです…」 豪ちゃんと一緒に挨拶をして、来た道を豪ちゃんと健太と、3人で帰って行く… 真上に登った月が、俺たちの足元を照らして影を真下に落とした。 「他の楽器と演奏する時は…ペグを弄って、ピッチを上げたり下げたり調整するんだ。その方がもっとしっくりと合奏のハーモニーが作れる…。絶対音感なんて要らない。大事なのは、相対音感と柔軟性だ。」 俺がそう言うと、あの子はうっとりと瞳を色付けて頷いて言った。 「うん…分かったぁ…」 どうしてか…この子は俺が音楽の話をすると、いつも惚けた顔をして言うんだ。 「惺山は…物知り。」 …ほらね? 徹の実家に戻った俺は、急いで帰り支度をさりげなく始めた… 3台に並んだモニターとパソコンのコードを抜いて、楽譜の入った段ボールを纏めて置いた。 そんな俺の様子を…まん丸の瞳がずっと見つめているって、知ってる… 「さてと…」 腰をトントンしながら伸びをした俺の背中に、豪ちゃんがポツリと言った。 「…お、お風呂に入って、寝る…?」 「そうだな…」 そう言って振り返ると、悲しそうに眉を下げたあの子を見下ろしてニッコリと微笑みかけた。 そんな俺の様子を見た豪ちゃんは、しょんぼりと下げた眉を一生懸命に上に上げて言った。 「…は、早く、お風呂に入ってぇん!ばっかぁん!」 「わぁかってる…」 鬱陶しそうにそう言うと、俺は、可愛い豪ちゃんを両手に抱きしめた。 ごめんね…ごめんね… 君にきちんと話せない俺を、許してくれ… 「めぐちゃんって…きっと将来、旦那に毒殺されるぜ?」 居間で寝転がった健太がケラケラ笑ってそう言ってくるから、俺は肩をすくめて言った。 「居るんだよ…ああいう選民意識のある子。大抵は親の責任だ。」 そんな俺の手の中にそっと手を忍ばせた豪ちゃんは、まるで込み上げてくる感情が溢れた様に…俺の手をギュッと…力強く握って、自分の胸に押し当てた。 ごめんね…豪ちゃん… 何も言わずに出て行く俺を…許してくれ… 堪らずあの子を片手で抱きしめて、柔らかい髪に顔を埋めながら…優しくキスをした。そして、瞳を潤ませて俺を見上げるあの子を見つめたまま、何も言わないで…首だけ傾げて見せた。 すると、あの子は取り繕った様な笑顔を見せて…声を震わせながら言った。 「そ、そうだぁ…最近寒くなって来たからぁ…。僕、湯たんぽを作ってあげるね…?明日には、丁度良い温度に下がっている筈だから…。卵を温める温度の…38度くらい…。2時間くらいなら…温度も、さ…下がらないからぁ…」 「バッカだな!まだ、寝る時だって暑いわ!…豪は、とうとう冷え性になったんじゃないか?女性ホルモンの出過ぎで…冷え性になったんだ!」 健太はそう言ってゲラゲラ大笑いしながら、ゴロンと畳の上に寝転がっておもむろに寝始めた… そんな健太を無視した豪ちゃんは、俺から離れてお湯を沸かし始めた。そして、ぼんやりとあの子を見つめ続ける、俺を見て首を傾げて笑顔で言った。 「ほらぁ、今のうちに、お風呂に入ってよぉ!」 ふふ… 「ほ~い!」 豪ちゃんは、俺が明日居なくなる事を分かってる…でも、俺の調子に合わせて…気付かない振りをしてくれている。 それとも…もしかしたら、あの子も…俺と同じかもしれないとも、思っている。 つまり、最後の最後まで…離れなければいけない現実を、認めたくないんだ… …一生、会えない訳じゃない。だって…まだ、終わった訳じゃないんだ。 これからは、しばらくお休み…の、全休符に入るだけなんだから。 再び、演奏を始めるのは…何ページ目になるかな… そして、それは楽譜全体の…どの部分になるのかな… 今は分からなくても…まだ、この曲には、終止線は付いていない。 …終わった訳じゃないんだ。 「楽しかったな…」 湯船に浸かってポツリと呟くと、指の先に付いた水滴を湯沸かしの煙突に弾いてぶつけた。 明日の朝…豪ちゃんが起きる前に、家を出よう… 「ねえ…惺山。ショパンを弾ける様になったんだぁ…」 そんな声に顔を上げると、風呂場の曇りガラス越しに、こちらを見つめる豪ちゃんが首を傾げながら言った。 「どうだった…?」 「ふふ、言っただろ…?とっても、美しかった。大好きになっちゃったって…。本当に、上手に弾けたね…。特に、初めの言葉が良かった…。この星を…あなたにあげる。だって、星は、全部、あなたの物だから…なんて…。ふふ、あんな、可愛らしい言葉を…どうもありがとう…」 俺は、曇りガラスの向こうの豪ちゃんを見つめて、目じりを下げてそう言った。 すると、あの子は俯いて体を震わせて言った。 「…そ、そう…。良かったぁ…」 泣いている顔を見せない様に…悲しむ様子を見せない様に…曇りガラスの向こうで、あの子がそう言った。 きっと、この子は、明日の朝…俺がここを去ると気付いている。 でも、止めるつもりは、無いらしい… パリスの卵用に、湯たんぽまで用意してくれたんだ。 本当に、最後まで、優しい子なんだ… 「…豪ちゃんも、お風呂に入ろう?」 いつもの様にそう言うと、あの子はいそいそと服を脱いで目元を拭って風呂に入って来た。 ふふ…可愛いな。 俺は湯船の縁に頬杖をつきながら、あの子が体を洗う様子を眺めて“愛の挨拶”を鼻歌で歌ってあげた。すると、クスクス笑いながらあの子が言った。 「“愛の挨拶”…僕の大好きな曲…」 知ってる。 だから、歌ったんだ… いつもの様に一緒に湯船に浸かって、いつもの様に、下らないクイズであの子を怒らせた。そして、ケラケラ笑いながら逃げる様に風呂を出るんだ。 だって、怒った豪ちゃんが、手桶にお湯を入れては俺の顔に掛けて来るんだもん! 「も、鼻に入るだろ?」 「ん、だぁってぇ!だってぇ…!」 そう言ってしわを寄せたあの子の眉間を指で撫でて、クスクス笑いながら言った。 「きわめて強く。が…フォルテッシモだよ?」 「んん…もう、分かったぁ!意地悪ぅ!」 あぁ…ふふ、可愛い! どうしてかな… 豪ちゃんは、全ての記号をフォルテッシモと言って、いざ、フォルテッシモが答えのクイズを出すと、ことごとくピアニッシモと言ってしまう…。 「はぁ…」 いつもの様に…台所でお水を一杯飲みながら、閉じた縁側と居間に寝転がっていびきをかく健太をぼんやりと眺めた。 そして、そんな健太に飛び蹴りを食らわせる豪ちゃんの後姿を見て…再び、嵐の予感を感じて、急いで駆け寄った。 「こらぁ…止めなさい…!」 すぐにあの子を健太から引き剥がして、台所のコップの水を持たせて言った。 「まだ起きてないから逆襲を受けていないけど、あの行為は危険だよ?」 「ううん…むにゃむにゃ…豪の…馬鹿…野郎…」 蹴られたのに…平然と眠り続ける健太を横目に、強気のままのあの子の顔を覗き込んで言った。 「力の差を認めなさいよ。絶対に負けるんだから…喧嘩を吹っ掛けるんじゃない。」 「負けないもん!」 そう言って口を尖らせた豪ちゃんは、再び健太に立ち向かおうとするから、俺はあの子を捕まえて寝室に放り込んで言った。 「おやすみ!豪ちゃん!」 立て掛けた壊れた襖の向こうで、豪ちゃんが怒って言った。 「お風呂にも入らないで、寝る方が悪いんだぁ!」 はいはい… 君の怒りの原点はそこなんだ。 いつも、健太の匂いを気にしてる。 「健太、起きろ…風呂に入ってから寝ろ?」 気持ち良さそうに眠る健太の肩を揺すった。すると、あいつは瞳を半分だけ開いて、ニヤニヤしながら言った。 「俺は…仮性包茎だから…勃つと剝けるんだ…」 あぁ…残念なイケメン… 呆れた顔をしてあいつを見下ろしながら、大きな体をゴロゴロと転がして言った。 「あぁ、そうか…良かったな!ほらぁ、風呂に入れ…!」 「明日入るわぁ…」 俺の言葉にそう返した健太は、蠕動運動をしながら自分の寝床へと向かった… あぁ…! 布団無しの…生で、あいつの蠕動運動が見れたぁ! そんな感動、ひた隠しにするさ。 だって、めちゃめちゃ下らないからな! 電気を消して寝室に入ると、両手を広げる豪ちゃんを見下ろしてにっこり笑って言った。 「健太は…寝ちゃった…」 「ん…もう!だから、布団が臭くなるんだぁ!」 ふふ…!やっぱりね。 豪ちゃんの両手に抱きしめられながら体を横にした俺は、太陽の香りがするあの子の柔らかい髪に顔を埋めて、鼻をクンクン鳴らした。 この感触を…この香りを…忘れる前に、また会える…? 豪ちゃん… 「ねえ…」 「ん…?」 「僕の事…忘れないで…」 俺の胸の中でそう呟いたあの子は、何度も俺の胸に頬ずりして、両手でヒシっと俺の体に抱き付いた。 あぁ…豪… 「忘れないよ…。だって、君は俺だもの…」 柔らかくて、太陽の匂いのする、フワフワの豪ちゃんの髪の毛を撫でて、頬を撫でて、あの子の唇を撫でて、ニッコリと微笑みかけながらキスをした。 泣いたり…しない… 込み上げて来てしまいそうな思いを、必死に胸の中に押さえつけた… 何度もそうした様に、豪ちゃんを優しく抱きしめて、あの子の髪に顔を埋めて…口元を緩めた。 一筋、涙が垂れてしまったのは…ご愛敬だ… あぁ…この匂いが…大好き…! 自然と微笑んだまま、そっと瞳を閉じて眠りについた。 ピピ… 鳴り始めたアラームをすぐに止めて、腕の中で眠ったままの豪ちゃんを見つめた。 長いまつげに…まん丸の瞳。俺の大好きな…君のおでこから顎にかけてのライン… どれも愛おしいよ… 豪ちゃん…ごめんね。 俺は、行くよ… あの子の隣から抜け出て、途端に心細くなる気持ちに鞭を打ちながら、簡単に着替えを済ませる。 襖をそっと動かして、いびきをかき続ける健太に警戒しながら、昨日外しておいたモニターやパソコン、楽譜の入った段ボールを車に積んだ。 そして、ピアノの部屋から豪ちゃんの為に用意した楽譜の束を持って来て、眠り続けるあの子の枕元にそっと置いた。 優しく撫でる柔らかいあの子の髪に、静かにキスをして囁いた… 「愛してるよ…」 後ろを振り返らず荷物を肩にかけて、足早に寝室を出た。 そして、昨日あの子が準備してくれたタオルに包れた湯たんぽを手に取って、玄関から裏庭のパリスの元へと向かう。 「パリス…ごめんね。でも、絶対に大事に育てるから…許しておくれ。」 彼女を見つめてそう言うと、お腹の下から卵を引き抜いて自分の両手で包み込んだ。 温かい… あぁ…豪ちゃん…何も言わずに出て行く俺を…許してくれるだろ? 情けない男だって…知ってるだろ? 君と面と向かって…お別れなんて、絶対に出来ない。 だって…愛しい君と、未だに、離れたくないんだもの。 助手席に置いた“湯たんぽ入りのタオル”に卵を丁寧に包んで、手のひらでそっと上から撫でた。 「はぁ…」 自然と口から漏れてくるため息をそのまま好きにさせて…深呼吸をひとつ吐いた。 あの子が眠る徹の実家を見つめて…車のエンジンを掛ける手を止めた… 豪ちゃん… もし…俺が死んでしまったら… 「…ひっく…ひっく…うっうう…うう…ぐふっ!…ひっく…」 ふと…聴こえる訳も無いのに…あの子の泣き声が聞こえた気がした。 俺は視線を手元に移して、車のエンジンを掛けた。 そして、徹の実家を後にした… 時刻は…早朝4時。 あの子は眠っていた… いいや、きっと…起きていた。 でも、知らない振りをしてくれたんだ。 どうしてかって…? あの微笑みを向けられたら…あの声で話しかけられたら…俺は、君から離れる事が出来なくなってしまう。 離れ難くなって…立ち止まってしまう。 だから、君が目を覚ます前に…こっそりと離れて行くって決めて、君はそんな俺の思いを汲んで…寝たふりをしてくれた。 わがままで、弱虫で、泣き虫で、あの子から離れられない…そんな、甘ったれの…俺の好きに…させてくれたんだ。 今頃…きっと、泣いている… まん丸の瞳を歪めて…泣いているに違いないんだ。 「豪ちゃん…ごめんね…ごめんね…」 溢れて来る涙に視界が曇って来ると、慌てて手で拭って、グッと堪えながら前を見据えた… 俺は、まだ…安心してはいけないんだ。 無事に東京へ戻ったとしても、体からモヤモヤが消えるその時まで…安心なんてしてはいけない。 せっかく…あの子が掛けた最後の望みを…絶つ訳には行かないんだ。 ”死“が終わりを迎えるまで、俺たちの全休符は続く… そして、いつか…また… 素晴らしい君の音色が、爆発したみたいなインパクトを付けて、俺の楽譜の上を流れ始めるんだよ。 そうだろ…?豪ちゃん。 君は俺の全て、俺の幸せ、俺の人生だよ… いつまでも…俺だけを思って、探して、待っててね… 君と同じ様に…俺も君だけを思って、探して、待つから… たとえ、離れた場所で鼓動を止めたとしても。 “死”が終わり、ふたりが再び協奏を奏でる日を願って… その時まで…しばしの別れだ。 俺の…愛しい、不滅の恋人… …おしまい

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