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前編
東京都渋谷区で、同性同士のカップルを「結婚に相当する関係」と認める証明書を発行する条例が可決されたのを皮切りに、各自治体や企業でも賛同の声があがっている。やっと日本も良い方向へと進んでくれるようだ。
しかし、僕らには遅すぎたんだ――
日差しが強い。駐車場のコンクリートは熱せられ、ケヤキの木陰さえも蒸し暑そうに見える。おまけにセミの大合唱もうるさい。春にはしだれ桜、おそらく秋には紅葉が燃え盛るだろうこの周辺の木々も、今は緑色だけにおおわれている。
駐車場のいちばん端にシルバーグレーのセダンを止めた。日曜日だがお盆の時期も過ぎていて、駐車場はがら空きだ。
金森 は助手席のドアを開け、運転席の僕に向かって声をかけた。
「じゃ、行ってくるよ、古川」
金森が車の外に出る。ブルーのポロシャツの半袖から出た腕を、八月の太陽が容赦なくジリジリと照りつける。
車内で待つことしかできない僕は、金森に詫びるように言った。
「ああ。いつも悪いな。それに今日は高温注意情報も出てるのに」
金森は長身をかがめ、無骨な手で花束を大事そうにかかえ微笑んだ。
「いいって。…俺にはこれぐらいしか、お前らにできることは無いからな」
「あいつに、よろしくな」
もう何度も同じ台詞を金森に言ってきた。僕もにっこり笑いながら言いたい。だが、毎回笑うことはできない。僕はいつしか笑い方を忘れてしまった。職場では愛想笑いはできるが、決まってその後、顔の上に笑みが貼りついてしまったように顔の筋肉が痛い。それほど僕は、笑うことが苦手になった。
僕は彼の広い背中を見送った。短い横断歩道を渡り、スロープを上るとそこは霊園。
僕の最愛の人が眠る場所だ。
僕は思春期を迎えたころから男性にしか興味がなかった。クラスに好きな男子がいた時は修学旅行の風呂が恥ずかしくて入れなかったり、体育の着替えもいつも冷や汗が出るほど困った。
周囲とは違う。僕は異常だ。まわりの誰にも打ち明けられず、一生恋人なんてできないと思っていた。
大学二年の時、いわゆるハッテン場という所に行ってみた。禁断の場所に足を踏み入れるようなもので、僕には相当の勇気がいった。そんな所で見つける相手など、一生連れ添えるわけがないと思っていたが、そうでもしないと出会いなんて訪れなかっただろう。
一見、普通のクラブのような店に入った。ネットでの情報が無ければ、外観からはわからない。耳障りな大音響のハウス系ミュージック。暗い店内をところどころ照らす照明の中でくゆる紫煙。周囲の品定めをするような視線が怖い。
ふと、カウンターに見知った顔を見つけ、僕は思わずそばに寄った。彼は御崎 蒼生 、同じ大学で同じテニス部、ひとつ年下の一年生。おとなしそうで目立たないが、よく見ると目鼻立ちも整っていて、短く揃えられた髪型も清潔そうで、背は僕より五センチほど高いだろうか。蒼生は穏やかに微笑みながら「古川先輩も俺と同類だったんですね」と歓迎してくれた。
同じ性的嗜好をもつ先輩と後輩。僕らはすぐに意気投合して、その日のうちに寝た。体の相性も良かったし、それからずっと僕らは付き合ってきた。
僕が翌月に卒業を控えた二月。誰もいない部室に、蒼生に呼び出された。
「古川先輩と校内で会えないなんて寂しいです。だから、思い出をください」
「思い出…?」
まだ部活が始まる時間ではないため、部室は外の日差しを受けて、電気をつけなくても明るい。二月の弱く柔らかい明かりが、あいつの笑みを眩しく見せて――だが、どこか寂しそうだった。
「ここで先輩とキスしたい」
キスなんて僕たちの間では何度もしていて照れるようなものでもないが、ここは部室だ。
「御崎…もし誰か来たらどうするんだ」
「この時間なら、誰も来ませんよ」
そう言って蒼生は僕の体を抱きしめた。あいつがいつも使っているシャンプーとコロンの匂い。僕が大好きなその匂いに酔ってしまったのだろうか。僕も蒼生の背中に手を回した。
「してもいいけど、条件がある」
「何ですか、条件って?」
耳元に、あいつの低く優しい声が響く。抱きしめられた腕の温度とその声で疼きそうになる体を必死にしずめ、僕は冷静に答える。
「僕たちもう付き合ってるんだから、誰もいない所では“先輩”はやめてくれ。…名前、で呼んでほしい」
僕の肩に顎を置いて、髪を優しく梳きながら蒼生は言った。
「隆倖 さん、じゃあ俺のことも蒼生って呼んでください」
「わかった、蒼生――」
僕は顔を少し上げ、蒼生の唇を受け入れた。
その時だった。急に部室のドアが開き、同じ部で俺と同級生だった金森が入り口で硬直していた。
「あっ…その…俺、ロッカー…片付けてなくて」
お互い気まずい思いをしながら、金森は自分のロッカーを開け、中の荷物を引き取った。
僕たちが付き合っていたことには驚いたが、金森は同性愛に差別意識はなく、僕と蒼生のことも周囲には黙っていると約束してくれた。
そればかりか金森は僕たちの良き理解者となってくれて、相談にもよくのってくれた。社会人になってからも、それは変わらない。
卒業して、僕はスポーツ用品の会社に、金森は外資系の飲料水の会社に、一年後に蒼生はスポーツジムのインストラクターとして就職した。
就職してからは休日が合わないことも多く、蒼生とも会う回数は減ってしまったが、それでも一ヶ月に一度はどちらかのマンションに泊まりに行っていた。
僕が就職して六年たった時だ。
いつものように食事をして、蒼生の部屋に泊まることになったのだが、あいつは引っ越して別のマンションに住んでいると言う。引っ越し先の2LDKの分譲マンションに連れて行かれ、空っぽの六畳の洋間を見せられた。
「ここが、隆倖さんの部屋です。俺といっしょに住んでください。あ、寝室は南側の部屋にダブルベッドを置いてますから」
そのときの驚きは、今でも忘れない。蒼生はそんな大事なことを僕に相談も無しで…。当然、僕は怒った。いくら蒼生が僕の職場に近い場所を選んでくれたといっても、僕にも年上としての矜持があるじゃないか。いつの間にか、怒りながら泣いていた。泣きながら抱きしめられた。嬉しかったんだ。これからは、蒼生とずっといっしょにいられる。今までのように休日が終われば別々の家に帰るんじゃない。朝、別々の場所に出勤しても同じ家に帰り、同じベッドで眠るんだ。
結局、そのマンションはローンも固定資産税も蒼生と折半で支払うことにした。頭金の分、僕が支払う分をやや多くしてもらった。そうしないといっしょに住まないと、僕が頑なに言い張ったからだ。
同棲を始めてから始めての休日、足りない生活用品を二人で買いに行くことになり、僕が車を出して、その帰りだった。
「もしも俺が、死んでしまったら」
蒼生はそんな縁起でもない話を始めた。
「一ヶ月だけ、泣いてください。その後はいい人見つけて、ずっーと幸せで笑っていてください」
「…そんな約束はできないな」
僕は仏頂面でハンドルを切る。蒼生がいなくなって、笑えるもんか。好きな人なんてできるもんか。
「蒼生はどうなんだよ、もしも僕が死んだら」
蒼生は寂しそうに笑った。
「隆倖さんがいない世界なんて、笑って過ごせるわけないじゃないですか」
「ほら見ろ」
その時はまさか、そんな日が本当に来るとは思ってもいなかったんだ――
「隆倖さん、結婚式挙げましょう」
十二月なかばのある日、いっしょに夕食の準備をしていたら、蒼生がいきなりそんなことを言い出した。
同性同士でも結婚式ができる所がある、と。もちろん、書類上の婚姻関係は無理だが、形として正式な挙式ができるらしい。
そして、指輪もデパートで買って、今は名前を刻印してもらっていると言う。本当はクリスマスまで黙っていて、プレゼントとして指輪を見せるつもりだったが、嬉しくて黙っていられなかったそうだ。
まただ。蒼生はそんな大事なことを、僕に内緒で決めるんだ。
「だって、隆倖さんの驚く顔が見たくて」
いつもこれだ。僕が驚くのを喜ぶ、まるでいたずらっ子だ。
「けど、よく僕の指輪のサイズがわかったな」
刻印をするということは、もうサイズ直しなんてできないだろう。僕は指輪なんて持っていないから、自分のサイズでさえ知らないのに。
「だって二人きりの時は――ベッドの中でもよく、指をつないでいるでしょう。それで指の太さは俺と同じ、16号ぐらいだなと」
そう言って、蒼生は指を絡めてきた。蒼生は「売り場の人は内心、相手の人は太めの女性なんだなと思ったでしょうね」なんてクスクス笑う。
そうか、刻印の名前の“アオイ”を、女性の名だと思ったかもしれないな。
「まったく…サプライズもいいけど、大事なことは僕にも相談してくれ。指輪の代金も、半分は僕が払うからな。そうしないと、受け取れない」
わかりましたよ、となおもクスクス笑う蒼生。新婚旅行の行き先はいっしょに決めましょうね、なんて言ってたのに。
それからは日取りをいつにする、衣装はモーニングとフロックコートのどっちにする、鳩や風船を飛ばしたりするのか、BGMの結婚行進曲はメンデルスゾーンだと盛大すぎて照れくさいからワーグナーの方にするか、などと毎日結婚式の話ばかりをしていた。
ある日――
風呂から上がりバスタオルで髪を拭いていると、蒼生がバスタオルをそっとめくり、キスしてきた。
「どうしたんだ、蒼生?」
また甘えているんだなと、僕は蒼生の頬を撫でた。
「結婚式の予行演習ですよ」
蒼生は、はにかんだ笑みを見せた。
…ということは、バスタオルは花嫁のヴェールに見立てて?
「あのなぁ蒼生、僕はドレスは着ないぞ」
お前が着るか? とバスタオルを蒼生の頭に引っ掛けてやった。
蒼生は「隆倖さんから誓いのキスをもらうなら、それもいいですね」とクスクス笑っている。そのうち、イタズラを思いついたような表情になった。
「どうせなら、俺たちテニス部で出会ったから、お互い頭にスポーツタオルでも掛けましょうか」
そんなバカなことを言って笑いあった。
それで毎日が幸せだった。喧嘩をしたこともあったけど、すぐに仲直りできた。蒼生がいてくれるだけで、日常のどんなことでも楽しかった。
サプライズが大好きで、何でも勝手に決めてしまう蒼生は、勝手に死んでしまったんだ。
クリスマス・イヴ、デパートに行った蒼生と、その後夜にはいっしょに外で食事をする約束だった。
《指輪を受け取りました。七時に駅で待ってます》
それが蒼生からの最後のメールだった。
蒼生は居眠り運転のトラックに轢かれ、意識不明の重体になった。住民票に僕の名前もあったため、事故の連絡を警察からもらい、僕は急いで病院に駆けつけた。
蒼生は集中治療室に運ばれていた。扉自体は透明だがいやに重々しく見えるその向こうは、肉親しか入ることを許されない。いくら同居していても恋人でも、肉親以上にお互いを愛し理解していても、病院側も蒼生のご両親も、僕を“他人”とみなす。
このまま蒼生が目覚めなかったら…そんな不安を抱えながら、僕は扉の向こうで待っていた。組んだ手が震える。僕はこのとき生まれて初めて、神様に祈った。蒼生を元気にしてくれるなら、僕はどうなってもいい。両手両足でもこの目でも、何でもささげる。だから、蒼生をもとの元気な姿に戻してほしい――
どれだけの時間、僕は震えていただろうか。やがて扉が開き、看護士が僕に「どうぞ」とだけ言って入室を促した。奇跡が起きて、部屋の中では意識が戻った蒼生が僕に「心配かけて、ごめんなさい」なんて笑みを向けてくれたら、僕は「バカ野郎、どれだけ心配したと思ってるんだ」って叱ってやる――たった数歩の間に、そんな奇跡を願っていた。
しかし、奇跡なんて起こるはずもなく、ベッドの上には帰らぬ人となった蒼生がいる。二十八年という、短い生涯を閉じた最愛の人が――
僕は、生まれて初めて祈りをささげた神様を恨んだ。後で聞いたが、蒼生をはねたトラックの運転手は重傷だが生きている。蒼生の…僕のいちばん大事な人の命を、居眠り運転という不注意で奪った張本人は生きている。事故でどんな後遺症が残るか知らないし、その後どれほど罪悪感にさいなまれるのか知らないが、それでも生きてるんだ。何の罪も無い蒼生が亡くなったというのに…!
涙で見えない。蒼生はどんな顔で眠っているのだろうか。僕がよく知っている寝顔ではないだろう。
そばに駆け寄って「蒼生、約束の七時はとっくに過ぎてるんだぞ」と、揺さぶり起こしたかった。だが、そばにはご両親とお兄さんがいて、僕は近づくこともできずにいた。
泣きくずれるご両親に、警察官は遠慮がちに遺品を渡していた。その中に、少し潰れた小さな紙製のバッグがあった。白く光沢のある、とても小さなその袋は蒼生の血がこびりついて固まっていた。
結婚指輪だ!
お兄さんが中を確かめた。黒いビロード張りのケースを開けると、二つのプラチナリング。
誰が見てもひと目で結婚指輪とわかる。
言うべきか、黙っているべきか。今までどちらの家族にも、自分がゲイで同棲してるなどと話したことは無い。今この状況で、息子が亡くなったショックの上に、その息子がゲイだったと教えるのか。
だが、指輪の刻印は僕たちの関係を物語っている。すぐにわかることだ。僕は悲しみを堪え、箱を開けたお兄さんに勇気を出して打ち明けた。
「…その一つは…僕の物です」
お兄さんは僕を見て驚いた。ご両親も僕を振り返る。
その後は――思い出すのもつらい。蒼生のお母さんは僕につかみかかって泣きながら、何を言ってるのかも聞き取れないぐらい取り乱してしまった。それを押さえる蒼生のお父さんも「出て行ってくれないか」と涙ながらに訴え、僕は追い立てられるように集中治療室を出た。
僕は大事な人も失い、最期の顔を見てあげることもできず、二人をつなぐ証も失った。
翌日、蒼生のお兄さんがマンションに来た。
「蒼生の葬儀には出ないでください。両親はまだ、心の整理がついてませんし…万が一、親戚や周囲の人に知られたら困るので」
そう告げられた。僕は何も言い返せず、黙ってうなずいた。正確には、うなだれたまま顔を上げることができなかった。
通夜と告別式は友人である金森が行ってくれた。金森から場所を教わったので斎場の近くまで行き、そこから蒼生を見送った。蒼生の遺影を持ったお父さんが出てきたが、どんな写真かわからない。涙でぼやけて見えなかったのだ。出棺の時が一番つらかった。あの中に蒼生がいると思うと、飛びついてしまいそうになる体を抑えるのに必死だった。
車を見送ったあと、僕の存在に気づいた金森は僕のそばに来た。僕はただ、泣きじゃくっていた。蒼生の名を声が枯れるまで、喉が裂けるまで叫び続けたかった。叫び続けたせいで声を失っても構わない。これから蒼生と言葉を交わせないなら、声なんていっそいらない。けど、周囲の人に聞かれるわけにはいかない。金森が僕の肩を支え、いっしょに泣いてくれる。あの時、金森の手がどれだけ支えになってくれただろうか。帰り道、どこをどう歩いたのかさえも覚えていないほど、僕は精神的にボロボロになっていた。
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