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後編

 蒼生が亡くなって二週間。まだあいつの荷物も整理できず、あいつの食器もスリッパも歯ブラシもそのまま。あいつの部屋に置いているダブルベッドの広さにも慣れない。そんな時、蒼生のご両親が訪ねてきた。 「この部屋は息子の名義でしたが、私たちが相続したので――ここを処分します」 「そんな…! 僕もローンを支払っているし、だいいち住む所が無くなるじゃないですか!」  僕の言い分は聞き入れてもらえなかった。すべては、法定相続人の一存で決められる。 仮に僕が全額支払っていようと、名義が御崎蒼生なら、本人が亡くなっている以上は僕ではなく、蒼生の遺族が相続する。僕は蒼生とは婚姻関係にもなく家族でもなく、ただの同居人なんだ。  そしてご両親は蒼生の持ち物をすべて引き取って行った。  蒼生の最期を看取ることもできず。  二人の契りの証も取り上げられ。  見送ってやることもできず。  思い出の品も何ひとつ残らず。  住む家も奪われた。  同性愛者である僕はこんなにも無力なのかと思い知らされた。婚姻届などただの紙切れ一枚。僕たちの繋がりにそんなものは必要ないと思っていたが、法律は僕たちの前に立ちはだかり、何もかも奪っていった。  四十九日の法要にももちろん出ることは許されない。僕は新しく引っ越した1DKの部屋で、あいつの写真に手を合わせるぐらいしかできない。 月命日の二月二十四日、僕も金森も有給休暇を取って、蒼生の墓参りにいっしょに行った。霊園の場所も、もちろん金森に聞いた。  駐車場に車を止め、花束を持って金森とスロープを上がると、蒼生のご両親がいた。幸い向こうには気づかれなかったが、今会うわけにはいかない。僕は金森に花束を渡し、変わりに供えてくれ、蒼生によろしく、と頼んで走り去り車に戻った。  それからは月命日にいちばん近い日曜日に金森と僕は都合を合わせ、僕が用意した花束を金森が供えるようになった。  僕は怖かった。蒼生のご両親と鉢合わせしてしまうことが。今月は初盆は終わっているから、今日はご両親も誰も来ないんじゃないかと金森は言ってくれたが、それでも僕は怖かった。 金森の代理の墓参りは、蒼生との挙式の予定日――四月を過ぎ、八月の今日まで続いた。 だが…。  コンコン、と窓を叩く音に気づいた。汗だくの金森が戻ってきた。ポロシャツの胸元にも汗がしみている。 「お疲れ。暑かっただろ、何か冷たい物でも飲みに行くか。僕が奢るから」 「助かるよ~。やっぱり車の中は涼しいな」  車を発進させ、僕は金森に「今までありがとう」と礼を言った。  金森は来月から海外転勤になるため、こうして墓参りに来られない。これが最後になる。 「古川、来月からどうするんだ?」  ハンドタオルで汗を拭きながら、金森は僕に尋ねた。 「…あきらめるよ」 「あきらめるって、お前――」   金森の言いたいことはわかる。だが、僕にはどうしようもない。ご両親や親戚の人たちが来なさそうな頃を見計らって、こっそり墓参りすればいいかもしれない。  けれど、初めての日に鉢合わせしそうになってからは、僕は逃げ腰になっていた。 「これからは一人で、遠く離れた所から蒼生を想ってる。…蒼生も、住む家も指輪もすべて失ったけど、蒼生を好きな気持ちは消えないから」  金森はしばらく何も言わなかった。が、 「古川、運転変われ」 「え?」 「いいから、変われッ!」  その強い口調に、僕は訳がわからないまま道路脇に停車させ、金森と交代した。 「どこに行くつもりなんだ?」  と聞いた僕に、車を走らせながら金森は言った。 「お前…このままでいいのかよ?」  いいわけがない。だが、自分の力ではどうにもできない。僕は黙ったまま、窓の外の西日に染まる景色を見つめていた。 「このまま、御崎の墓参りにも行けず、指輪も奪われたままでいいのかよ」  指輪――  蒼生からもらったプレゼント、メール、いっしょに撮した写真。形として残っている蒼生の思い出は、それだけしか無い。せめて、蒼生が選んでくれた名前入りの指輪だけでも欲しい。そのためなら全財産を失ってもいい。気持ちの上ではそうだが、あきらめるしかないんだ。何もできない僕には。 「でも…僕にはどうしようもないんだ! 僕は蒼生の両親に認められない存在なんだから…」 「あきらめんなよっ! 御崎のこと、そんないい加減な想いで好きになったんじゃないんだろっ!」  金森はそう怒鳴って、車を走らせ続けた。  静かな住宅街の二階建ての一軒家、「御崎」の表札がかかっている。着いた所は蒼生の実家だった。門の前で車を止めると、僕にも降りるように言った。僕は助手席に縛られたように動けなかったが、金森が僕を引きずり出すように無理やり降ろした。  金森がインターホンを押す。玄関に出たのは、蒼生のお母さんだった。 告別式にも四十九日にも来ていて、初めての墓参りの日にも会っているから、お母さんは金森を知っている。蒼生の友人で――毎月花を供えてくれていると。 「あの…今日もあいつの墓に行ってきたんですが…実は毎月のあの花束、俺からじゃないんです」  そう言って金森は僕の腕を取り、玄関先まで引っ張った。  蒼生のお母さんからすれば、二度と見たくない顔だろう。案の定、顔色が変わった。 僕は礼をしたまま、顔を上げることができなかった。 「あなた…! 帰ってください! あなたと蒼生の仲を思い出させないで!」  金切り声に気づいた蒼生のお父さんも奥から出てきた。 「母さん、ご近所に聞こえるだろう」 「だって…せっかく忘れようとしていたのにまた…今になって」  やはり僕はご両親の前に出るべきではなかったのだろうか。金森の熱心さはありがたいが、失敗なのではないかと思った。それほど僕は、何もかもから逃げ出そうとしていた。 「本来なら、こいつが…古川が御崎のお墓参りに行くのを、俺が代理で毎月行ってました。あの花はこいつからだったんです。けど、来月から海外転勤で行けなくなるんです。どうか…古川がお墓参りに行くことを許してください」  頭を下げる金森の隣で、僕はずっとうつむいたままだった。 「どうか…お願いします」  勇気を振りしぼって、やっとそれだけ言って顔を上げた。  お父さんは老眼鏡を外し、顔をしかめて言った。 「…母さん、墓参りぐらいならいいだろう」 「お父さん!」 「ただし、…古川くんといったね。蒼生の“友人”として、だ。誰かに聞かれたら、そう言ってくれ。それが条件だ」  胸がズキンと痛んだ。僕は友人としてしか、まわりには認めてもらえない。  それでも僕が墓参りをする許可をもらえたんだ…! 「あ、ありがとうございます! お約束は必ず守ります!」  よかったな、と金森が頭を下げる僕の背中を軽く叩く。僕が顔を上げて金森の方を向くと、“ゆびわ”と口だけを動かして僕に伝えていた。返してもらえるだろうか。息子がゲイであるという証拠の品を、ご両親は捨てずに残しているだろうか。不安にかられながらも、思い切って口にしてみた。 「あの、もう一つお願いがあります」  お父さんは難しい顔をしている。お母さんは「今度は何です?」と、眉をひそめる。 「あの日…蒼生が持っていた指輪は…一つは僕の物です。どうか、返していただけませんでしょうか?」  ご両親は顔を見合わせている。  お願いします、と深く頭を下げる僕の隣で、金森も助け舟を出してくれた。 「俺からもお願いします。お二人にはご理解いただけないでしょうが…二人とも、お互いのことを真剣に想っていたんです。いい加減な気持ちで結婚式なんて挙げようとはしませんよ」  金森はつらそうに話す。息子が亡くなったショックから立ち直れない今、それに加えてこんな話はしづらいはずだ。しかし僕からご両親に話したりすると、神経を逆撫でしてしまう。金森にはすまないと思う。 「異性にだらしない人間や、妥協で付き合うやつらよりも、ずっと立派ですよ。こいつらは本当にお互いを大切にしていました。大学時代から、俺は二人を見てきたんです。だから、二人のことをずっと応援してきました。一時的な感情で、どちらかがたぶらかしたようなものだとしたら、俺は今日まで友達づきあいなんてしません」  ご両親はただ黙って金森の話を聞いている。 「…お二人が大事にされていた御崎蒼生が生涯でただ一人、ご家族以外で愛した人が、この古川隆倖です」  金森の手が、僕の肩に乗った。それは力強く、僕を信頼して力を貸してくれる、そんな強さだった。 「それに――古川が生まれて初めて愛した人が、お二人が大事にされていた御崎蒼生です」  ご両親は難しい顔をして小声で話し合っていたが、お母さんは目頭を押さえて奥に消えた。聞くに耐えられなくてその場を去ったのだろうと思った。  だが、しばらくして再び戻ってきた時には、黒いリングケースを手にしていた。 「…お返しします」  指輪ができたのは去年のクリスマス・イヴ。八ヶ月たち、ようやく僕の手に結婚指輪が戻った。黒いビロードに包まれた小さな小箱が、やけに重い気がした。 「あ…ありがとうございます!」  僕は何度も頭を下げた。涙もそれに合わせて落ちていく。金森もご両親に丁寧にお礼を言うと、よかったなと僕の肩を軽く叩いた。  再び礼を言ってから玄関を出ると、お父さんに呼び止められた。 「…君がもし女性なら、私たちは喜んで結婚を認めていた。差別だと怒っているだろうが…私たちはまだ息子の死も、同性愛者だったことのショックからも立ち直れていなくてね」  いえ、と僕は首を横に振った。墓参りを許してもらい、指輪が手元に返った。それだけでありがたかった。 「まだ私たちは君を認められないが――息子が世話になった。ありがとう」  その言葉がどれほど僕の背中を押してくれただろう。  深くお辞儀をし、僕はその時…蒼生が死んでから、初めて自発的に微笑んだ。  金森にはどれだけ感謝の言葉を並べても足りないぐらいだ。今までの分と今日のお礼、それに送別も兼ねて金森に、少し早い時間だったがイタリア料理店で晩飯を奢った。車だから僕はノンアルコールのカクテルにしたが、金森には奮発して少しいいワインをご馳走した。 「古川、よかったな」 「ありがと。金森がいてくれなかったら、僕はずっとあきらめたままだったよ」 グラスを傾けながら、金森は自分のことのように嬉しそうに笑った。 「なあ、あの指輪、はめてみろよ」 金森の前ではなんとなく照れくさかったが、こいつが一生懸命になって返してくれた指輪だ。見せてやりたい。 ケースの蓋を開けると、プラチナの指輪が二つ並んでいた。両方とも裏側に刻印がある。 『Aoi to Takayuki』 『Takayuki to Aoi』 これが僕の、いや、僕たちの結婚指輪なんだ。 蒼生から隆倖へ、と刻まれた方を左手の薬指にはめる。本当ならこれは正装をした蒼生にはめてもらって、もう一つを僕が蒼生にはめてあげたんだ。 蒼生のバカ、サイズが合ってないよ。 指輪が大きくて、回ってしまうじゃないか。 …違う。蒼生は僕の指の太さを知っていてくれた。あれだけ手をつないだんだから。 蒼生が死んでから、僕は精神的に参ってしまい、食欲が落ちて痩せてしまったんだ。指輪のサイズが変わるほどに――  嬉しい反面、ケースに残された指輪を見ると喪失感がわき起こり、店内だというのに僕は涙が止まらなかった。  パーテーションで区切られた窓際の席だからよかったけど。  金森はそんなみっともない僕に何も言わず、窓の外を眺めていた。  それから一ヶ月。  まだまだ蒸し暑い日が続く。僕は花束を持って霊園に行った。もう何度も来ているけど、初めて足を踏み入れる。ちょうど彼岸の入りで休日ということもあって、人がかなり多い。事務所で桶とひしゃくを借り、蒼生が眠る場所に着いた。蒼生のお墓を初めて見た。よく手入れされてきれいに磨かれている。  花と線香を供え、手を合わせる。  蒼生、これがお前が選んでくれた指輪だよ。お前のお願いなんか聞いてやらない。僕はこれからも蒼生を失った悲しみとともに生きて、いい人なんか見つけない。  蒼生は何でも勝手に決めてきた。だから僕も、勝手に生きていく。  正直、後を追おうと考えたり、トラックの運転手を殺したいとか酷いことは何度も思ったけど、僕は決めたことがある。やりたいことがあるんだ。 「古川さん、西丸デパートからファックスです」 「ありがとう」  オフィスで女子社員から用紙を受け取ったとき、彼女は僕の指輪に気づいたようで、明るい笑顔になった。 「あれ…? 古川さん、結婚してらっしゃったんですか?」  無意識に右手が左の薬指にはまった指輪を回す。最近、どうもこんな癖がついたようだ。 「いや…、婚約者だった人は亡くなったんだけどね」 「えっ?! あ、あのっ、すみません。無神経なこと聞いてしまって…」  さきほどの笑顔から一変して慌てた彼女は、すまなそうに頭を下げた。彼女は何も悪くない。謝るのは僕の方だ。僕は精一杯の笑顔で答えてあげた。 「いいんだよ、気にしないで。僕の方こそ、気を遣わせてしまってごめんね」  こうして気遣われることもあるから、会社では指輪をしないほうがいいだろうか。だけど、蒼生といっしょにいたい。式を挙げることはできなくても、法律上認められなくても、蒼生との大事な絆の証だから。この指輪さえあれば、ほかには何もいらない。だから、これは僕の生涯で一つだけどうしても譲れない、わがままなんだ。  金森はあれから慣れないアメリカでの生活でいろいろと苦労はあるようだが、彼女もできて幸せのようだ。そんな中、今でも僕のことを心配して気遣ってくれている。  僕は、同性婚を実現化させる運動を推進しているNPOに加入した。僕のように悲しい思いをする人がいなくなるように。そして僕の体験を手記にして、多くの人に見てもらおうと思う。  蒼生、もうしばらくこっちで頑張りたいから、待たせるけどごめん。天国で再会するときには僕は年を取って、蒼生は僕が誰だかわからなくって。そのときには逆に、僕が蒼生を驚かせてやる。  そして――僕から指輪をはめてあげよう。 ー完ー

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