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第1話 深夜の猛獣

 深夜のコンビニにいると、隠れているような気持ちになる。朝田祐司はそこへ行くたびにそのことを考える。しかし、何から隠れているのか聞かれると答えづらい。なんとなく、人の目を避ける逃亡犯になったような罪悪感と楽しさが混ざった気持ちになるのだ。午前0時に布団に入っても2、3時間で目が覚めてしまう祐司にとって、午前3時ごろのコンビニは恰好の暇つぶし場所であり、隠れ場所なのだ。  だがこの日、祐司のテリトリーは徹底的に破壊された。その青年が現れたとき、祐司の心の中にはまず驚きと戸惑い、次に苛立ち、そしてそれらは恐れへと変化した。  しんと張り詰めた真冬のコンビニ前に、熱烈なギターソロが響く。  音の主は店から出てきたところだ。さっき買ったであろう肉まんの包装を解いている。時々熱そうに指を縮めながらそれを頬張る。いいなぁ、と口に出そうになり、慌てて思い直した。今はそんなことを思言っている場合ではない。イヤホンが挿さっていないのを知らせてあげるべきだ、と。  しかし……と祐司は家用の眼鏡を押し上げ、敵を見る。その拍子に、祐司が手にした煙草の灰が地面に落ちた。  問題なのは、相手の見た目だ。  汚れた作業着の上に羽織ったスカジャン、髪色は明るく、頰には湿布が無造作に貼り付けられている。そしてなんといってもその目つき。睨みだけで人を気絶させたことがあると祐司には思えて仕方ない。見た目で人を判断するなとは言うが、君子危うきに近寄らずというのも真理だ。  祐司は最近、この青年をここで見かけるようになった。もともとこういうタイプを苦手としている祐司は、避けているのがばれないように避けてきた。  今こそ、新たな邂逅のときなのかもしれない。こうして見ると案外怖い人でもないかもしれないし、相手は人間だ。猛獣でも未確認生物でもない。見るからに日本人なので言葉も通じるはず。それに、未だに音漏れに気づかず肉まんを頬張っている姿が小動物を彷彿とさせ、祐司は可愛らしいとさえ思えてきた──その青年が声を発するまでは。 「なんすか」  気づいたときにはギターソロは停止され、代わりに、刃のような目つきが祐司を刺していた。  怖い。ただ単純に怖い。さっきまで小動物のようだと思いかけていたが、あれは嘘だ。こいつは小動物じゃない。草食動物の肉をむさぼる猛獣だ。  祐司は蛇に睨まれた蛙、ライオンに睨まれた兎のごとく震えだした。きっと寒さもあったのだろうが、このときの祐司にそんなことに気づく余裕があるはずがなかった。  無理やり自分を奮い立たせ、精一杯平静を装いながら祐司は言った。 「その……イヤホン、挿さってないんじゃないかなって」  最後の方はほとんど虫の声だった。恐る恐る相手の反応を伺う。きっと「俺に恥をかかせるたぁ、お前何様じゃあ!」と怒鳴りつけられて殴られる。そして明日の朝刊に《成人男性、コンビニ前で暴行を受ける》という見出しで被害者の朝田祐司(25)の名前が載る……特に目立たない小さな記事で。祐司の妄想はこの辺りまで展開したが、猛獣の反応は彼の予想を大いに外れた。 「あ、すいません、俺、全然気づかなくて」  赤面した。猛獣は赤面した。  祐司の脳内はちょっとしたパニックを起こしていた。多くを占めているのはかなり失礼なことを考えていた罪悪感だが、同時に、なんとも言えない気持ちが湧いてきていた。細かいニュアンスはさておき、一言で言ってしまえば「愛でたい」だ。言うなれば、そっけない猫がちょっと甘えてくれただけでぞっこんになってしまった、そういうときに湧いてくる感情だ。 「いや、大丈夫。いい曲だったし」  祐司はギリギリの平静を装って返答をしたが、後で考えてみるとかなりトンチンカンな返しだった。いい曲だったから音漏れしても大丈夫なんて、いつもの彼には到底思いつきそうもないロジックだ。  祐司は猛獣──もとい、ちょっと甘えてくれたそっけない猫に俄然興味が湧いてきた。 「その曲、なんだっけ」  ふた口ほどしか吸っていない煙草を吸い殻入れに捨て、その青年に歩み寄る。青年は警戒心を見せつつもすぐにバンドの名前を挙げた。 「あー、ちょっと前に別の曲が流行った。俺もたまに聴いてる」 「そうなんですか」 「『つぐない』とか『ウォーク・イン・ザ・レイン』とか」 「切ない曲好きなんですね」 「はは、知り合いには意外って言われるけどね」  話していると、青年が見掛けによらず丁寧な言葉づかいをすることに祐司は気づいた。はじめの印象が悪かったせいで、それがかなり好印象に映った。  仲良くなりたい。祐司は社会人になってからはじめて、純粋にそう思った。  その日、名前を聞き忘れたのに気づいたのは別れた後だった。 「まあいいか」  またここで会うだろうし。  家に向かう足取りは、驚くほど軽かった。  それから、祐司は深夜のコンビニで青年と話すようになった。  はじめはバンドの話ばかりしていた。 「へぇ、じゃあ元々はお母さんが聴いてたんだ」 「はい。今は俺のほうが聴いてますけど」 「歌詞がかっこいいよね。熱烈すぎて、実際人に言うのは恥ずかしいけど」 「ですよね」  たまに、しかも決まった曲しか聴かなかったそのバンドに祐司はすっかり詳しくなった。  そしてどうやら、話すようになる前から青年も祐司のことを認識していたようだ。 「いつもここでコーヒー飲んでましたよね、煙草と」 「知ってたんだ」 「他に客いないんで」 「たしかに」  今日の気温の話やコンビニの新商品の話から、次第に互いの話もするようになった。  「おつかれ」 「おつかれさまっす。これどうぞ。あったかいうちに」 「あ、美味そう。ありがとね。じゃ、こっちからもこれどうぞ」 「でも俺のは昨日相談に乗ってもらったお返しで」 「いいって。年上にいい顔させてよ」 「……ありがとうございます」  青年は山崎竜といった。祐司がかっこいい名前だと褒めると、竜は恥ずかしそうに礼を言った。初対面のときの鋭い視線は緊張していたから、ということも話してくれた。祐司にとって、竜と会う時間が一日の中で最も楽しみになっていた。 「朝田先生、なんか最近楽しそうすね。彼女でもできました?」  たいして仲良くもない同僚にそう言われたとき、祐司は面食らった。 「そんな風に見えましたか。でも、特になにかあったわけじゃないんです」 「またまた、そんなこと言って〜。ほんとのところモテるんでしょ?」  うっせぇクソ野郎、お前みたいなデリカシーない男は一生モテねぇよ。  と言えるはずもなく、ただ薄っぺらい笑顔を貼りつけて流した。  祐司は高校で数学を教えている。仕事場として見える景色は生徒だったころ見ていたそれとはかなり違っていて、色々な人から色々なことを期待される。元の真面目な性格が災いし、勤めて数年経つと祐司にはすっかり外面が身についていた。学校では《人当たりのいい朝田先生》のキャラクターを確立している。  しかし、あの鈍感なデリカシーなし男にまで浮かれた気分が伝わっているとは……と祐司は思案する。すでに察しのいい生徒の中では噂になっているかもしれない。着任してから一度もそういう話がなかった朝田先生が急にお花畑となっては、騒がれてもおかしくはない。  案の定、祐司は彼の生徒にもこんな言葉をかけられた。 「朝ちゃん彼女できたん?」 「まじ? 拡散していい?」 「待て、嘘を広めるな」 「えーでもみんな言ってるよ。朝ちゃん最近機嫌いいって。もっと機嫌よくなって。んで、テスト悪くても怒らないで」 「お前はいつも赤点スレスレだろ。せめて平均目指せよ」  きゃははは、と女子生徒たちは笑っている。祐司は小さく、その日で何度目かのため息をついた。

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