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第2話 秘密と自覚

 花の香りがほんのりと鼻孔をくすぐる季節になった。  今日も祐司は深夜のコンビニに向かったが、いつもより足取りが重かった。 「祐司さん、今日なんか疲れてます?」  はっとして視界をはっきりさせると、心配そうな顔をした竜が祐司の顔を覗きこんでいた。 「いや、別に……」  癖でつい笑ってしまいそうになったが、竜の顔を見ているとごまかすのもすのも馬鹿馬鹿しくなってきた。 「四月から異動になったんだ。別の職場に」 「え……」  竜の顔にはっきりと戸惑いの色が映った。それに気づいた祐司は慌てて付け加える。 「遠くじゃないよ。引っ越しもしないし」 「あ、そうなんですか。……よかった」  竜は安心したように息をついた。祐司はそれがくすぐったくて意地悪な問いが喉元まで出かかったが、竜のほうが問いを投げてきたので、すんでのところで飲み込んだ。 「そういえば、祐司さんって何の仕事してるんですか」 「ああ、言ってなかったっけ────」  教師、と言い掛けて声が出なかった。  以前付き合っていた女の言葉を思い出したからだ。 『祐司って、就職してからつまんなくなっちゃったね』 「────会社員だよ、フツーの」  あ、顔引きつったかも。  祐司の心の中に影が射した。必死にいつも通りを装う。 「竜の仕事もちゃんと聞いたことなかったよね。土木系?」 「土木の現場作業員です。ここに来るのは夜勤の帰りで」 「ああ、なるほどね。そうかなとは思ってたんだ」  竜がもの言いたげにしていたので、祐司は言葉を促した。竜は少しためらった後、控えめな声を放った。 「やっぱり……違う場所に行くのって気が重いですか」  祐司は竜の真意をはかりかねたが、態度には出さない代わりにできるだけ明るく答えた。 「まあね。人間関係一からだし、初の異動だから。不安がないって言ったら嘘になるかな」  竜は目を泳がせて何を言おうか探しているようだった。 「祐司さんは……大丈夫だと、思います」  ピンと来てない祐司を見た竜は、どうにか言いたいことを説明しようとして考え込んでいる。その姿が全てを語っていた。元気付けようとしてくれている。祐司は心臓のあたりが急に熱くなったのを感じた。 「あの、俺、話聞くだけならできるんで。ちょっとはストレス発散になると思うから……」 「ありがとう。でもけっこうだらしないことも言うかも」 「むしろそういうつもりなんで」 「頼もしいね。じゃあ、そのときはよろしく」 「はい」  竜は照れくさそうに笑った。とても自然な笑顔だった。  別れ際、祐司は去っていく背中に声を投げた。 「竜」  鋭いが優しい目つきが祐司を捉え、数回瞬いた。それは後ろめたいほど純粋で、祐司は直接見ていられなかった。代わりに視界に入れた街灯がやけに眩しい。 「ありがとう────あと、ごめん」  竜は分かったような、分からないような返事をした。 「じゃあね、風邪引かないように気をつけて」  祐司は手を振って無理矢理見送った。竜の遠慮気味な手の振り方がやけに悲しかった。  ごめん、でも君には何者でもない俺でいたい。  心の中の懺悔はあのバンドの歌詞のようで、祐司は自分を嘲りながら古びたアパートに足を向けた。  春の兆しを含んだ風が頬をかすめた。  祐司が新たに赴任した学校は、家からの距離で言えば前の学校と変わりないところにあった。  心配していた人間関係は祐司が思っていたよりも上手くいっている。ほとんど。 「朝田先生、ここ来てそろそろ1ヶ月だよね。そろそろ」 「さすがに先輩にはタメで話せませんよ。それより仕事してください、藤野先生」 「まだ全部言ってないじゃん! 違わないけど!」  祐司たちの会話を聞いていた若い女性教師が「藤野先生、また振られたの?」とからかう。藤野は「そーそー、全敗中」とたいして気にした様子もなく笑う。朝田はその女性教師が藤野より数歳先輩であろうことに気づき、口調を咎められないかと慌てて教頭の机を伺った。幸い今は席を外しているようだ。藤野はしょっちゅう、態度が悪いだの生徒との距離が近すぎるだのと注意されている。祐司もはじめて会ったときはこんなのがよく教師をやっていられるなと思ったが、授業は生徒に好評で質問にも丁寧に答えている姿をよく見掛けるので、教師としての力量は本物らしい。ただ、誰とでも友達のように話そうとするのは、同僚としても一個人としても困るのでやめてほしいと祐司は密かに思っている。 「朝田先生、すごいよね」  急に真面目な口調で藤野が呟いたので、祐司は思わずキーボードを叩いていた手を止めた。 「どうしたんですか、突然」 「もうすっかり生徒と打ち解けてるじゃん。授業行かないクラスの子とも仲良いし。でもちゃんと教師と生徒って距離っていうか」  オレはこんなだからー、と藤野は冗談めかして頭をかいた。  それは当然だ、と祐司は思った。学校で見せる顔は教師の顔なんだから。むしろ大学時代と同じような顔して教師できてる藤野先生のほうが尊敬できますけど、というのは黙っておいた。なんにせよ先輩に真面目に褒められたので、素直に礼を言う。 「ありがとうございます」 「だからオレとも生徒と同じように仲良くなってほしいなーって」 「それとこれとは違います」 「つれないねぇ」  祐司はパソコンを閉じ、鞄に手を掛けた。 「それでは、お先に失礼します」 「今度飲み行こうね〜」  懲りない人だ。祐司は肯定も否定もせず、軽く会釈して職員室を後にした。 「って感じでさ。先輩にタメ口きけるわけないでしょって」 「なかなか……押しの強い人ですね」  この日の話題は『誰にでも友達みたいな距離で話し掛けてくる先輩』だ。もちろん、教師であることは隠して。 「あのままだと飲みに連れて行かれる……」 「飲めないんでしたっけ」 「いや、飲めるけどあの人と行きたくない」 「はっきり言うんですね」  このところ祐司はずっとこんな調子だ。宣告したとおり、だらしなく愚痴をこぼしている。 「いい人なんだけど、どうしても合わないんだよなぁ」 「難しいっすね」  祐司は缶コーヒーに口をつけた。  夜中はまだ涼しい季節だが、竜はすでに半袖姿だ。体力仕事なので汗をかくのだろう。対する祐司は薄手のジャージを羽織っている。 「五月病ってやつかな。体がだるいんだよね」  伸びをすると背骨が小さく悲鳴をあげた。  そういえば、と竜が思い出したように言った。 「祐司さんって煙草吸ってましたよね」 「うん」 「俺と話すようになってからここで吸ってませんよね」 「たしかに」 「俺に気遣って吸ってないなら、遠慮しないでください」  実際、祐司はコンビニ前でだけでなく、家でも煙草を全く吸わなくなっていた。しかしそれは竜に気を遣ったわけでも健康を気にしたわけでもなく、ただ単純に吸うことを忘れていたのだ。自分でも吸っていないことに気づかなかった。今竜に言われてはじめて、煙草の存在を思い出したほどだ。竜と出会うまではコンビニ前で時間を潰す道具としてコーヒーと一緒に買ったりしていたが、話し相手ができてその必要がなくなった。前の箱が家で空になってから、今度買おうと思っているうちに忘れ去ってしまっていたのだった。 「──ってわけ。元々好きでもなかったし、竜がいるならいいや」 「……そうですか」  二人の間に風が流れた。祐司は深く息を吸った。  竜と話すようになって5ヶ月が経っていた。はじめは外見の怖さから避けていたが、話してみると全くそんなことはなかったし、なにより楽しいと思える。煙草を忘れたのもコンビニ前で暇を感じる時間がなくなったからだ。竜と話す時間は1日の始まりのせいぜい1時間ほどだが、それだけで祐司の毎日は彩りを持ったのだった。  ふいに、祐司と竜の目が合った。  祐司はその双眸を見るたびに綺麗だと思う。淀みなく真っ直ぐに祐司を捉える瞳は、罪悪感にも似た感情を呼び起こす。たまらなくなって逸らしたくなるのに、祐司の目は鍵でも掛けられたかのようにカチリと固まってしまう。祐司はこの目が怖い。それははじめの怖さとは似てもつかない。この目の純粋なことを思うと、自分がついたほんのちょっとの嘘でもこの世にあってはならない大罪のように思えてくる。竜といるときの祐司は少しおかしかった。仕事で建前を言うのには慣れているのに、竜にはごまかしが効かなくなる。祐司の心臓は少しずつ、しかし確実に時間を速めていた。  気づいたときには、祐司の唇が竜の唇から離れたところだった。  互いの呼吸が止まっていた。 「今度、どっか行かない?」 「あ、はい、ぜひ」 「じゃあ連絡先、交換しよう」  祐司は眼鏡を押し上げ、携帯電話を取り出した。竜も慌てて作業着のポケットを探る。 「ガラケーなんだ」 「あ、はい、買い換える金ないんで」 「貸して。連絡先打つから」  操作を思い出しながら番号とメールアドレスと名前を手早く入力し折り畳んだ。パチン、と画面が閉じた音が祐司には懐かしく感じられた。 「空いてる日教えて。俺は土日基本休みだから」 「家で確認してみます」 「うん。またメールして」 「はい」  携帯電話の画面を見ると、午前4時前になっていた。辺りは薄明るくなり、車が一台駐車場に入ってきた。 「じゃ、今日はこの辺で。またね、竜」 「はい、また」  いつものように去って行く背中に、祐司は手を振った。  帰路につこうかと回れ右すると、さっきの感触がフラッシュバックした。  祐司は数分、その場に立ち尽くしていた。  メールはその日のうちに送られてきた。  職員室でバイブレーションを鳴らした携帯電話を開くと、画面にはシンプルな文面が映し出された。 『お誘いありがとうございました 再来週の土日はどっちも空いてます』  思わず緩みそうになった表情筋を慌てて引き締める。返信を打とうとした瞬間、祐司の背後から能天気な声が降ってきた。 「デートですか、あさだせーんせっ」 「うわっ」  振り返ると、藤野がなぜか嬉しそうに、にやにやして立っていた。にこにこというより、明らかににやにやしていた。 「人をバケモノみたいに言わないでよ。それにしても、オレの知らないところで他の女性とそんな仲になっていたとは! オレというものがありながらッ!」  藤野は身体をくねらせて泣き真似をしている。祐司は気づかれないようにため息をつき、できるだけ穏やかな態度をとるように努めた。 「デートじゃないですし、女性でもありません」  祐司の答えに、なぜか藤野は頬を膨らませた。 「じゃあ何さ、朝田先生がそわそわしながらメール待ってた相手はただのお友達ってこと?」 「藤野先生、お仕事は進んでおられますかな」  声のした方に顔を向けると、教頭が老眼鏡をずらしてこちらを見ていた。 「ええ! それはもうしっかりと!」  藤野は素早く自席に座り、パソコンを開いてキーボードを叩きだした。向かいの女性教師が思わず吹き出した。教頭はやれやれと首を振り、老眼鏡を掛け直した。  祐司はほっとして携帯電話の画面に目を戻した。返信を考えなくては。 「朝田先生も、私的な連絡は程々に」 「あ、はい」  祐司は仕方なく画面を閉じた。  次の授業の準備を進める祐司の頭の中では、藤野の言葉がぐるぐると回っていた。 『朝田先生がそわそわしながらメール待ってた相手はただのお友達ってこと?』  もしあのとき、教頭が藤野に声を掛けなかったら何と答えていただろう。  その後の授業はこなしながらも全く集中できず、問いの答えも見つからなかった。 「メールありがとう。土曜日の朝10時に駅で会おう。割引券があるから映画でいいかな? 観たい映画ある? ……だめだ、なんかうさんくさい」  夕食後、祐司はかれこれ1時間ほど文字を打っては消し打っては消し、返信を考えていた。伝えたいことは決まっているが、文字だけになるとどうも口下手になってしまう。いっそ明日会ったときに言ってしまおうかとも考えたが、そんなことをして「なんでこの人連絡先聞いてきたんだ……気持ち悪」などと思われれば、きっと祐司の心は粉々に砕け散るだろう。  メールありがとう。じゃあ土曜日の朝10時に駅前で。  映画のことはコンビニで会ったときに言うことにした。えいやと送信ボタンを押すと、ほどなくして画面に「送信完了」と表示された。 「はぁー……つかれた」  寝転がると、フローリングの冷たさが気持ちいい。 「竜と明るい時間に会うの、初めてだ」  言葉にしてみると変な感じがした。はじめは深夜のコンビニ前で話すだけの仲だったのに、今では映画に誘おうとまでしている。もっとも、祐司は映画に誘うよりも大胆なことをしたのだが。 「あのときの竜、なんか……」  はっとして祐司は何か言いかけた口を押さえた。熱が身体中を走る。どうしようもない衝動に駆られ、祐司はみっともなく全身をじたばたさせた。 「いやいやいやいや待って待って待って」  俺は今何を?  考えたくないのに、祐司の脳みそは珍しくフル回転している。 「だってあれは小動物的な、懐いた猫的なアレで」  鈍い音が祐司の思考を止めた。携帯電話が着信を知らせている。番号はタイミングが良いのか悪いのか、竜のものだった。祐司が深呼吸して通話ボタンを押すと、聞き慣れた声がこもった音に乗せられた。 「もしもし、山崎竜です。こんな時間にすみません」 「ああ、いや、全然大丈夫」 「その……再来週の土曜日はどこに行くのか、聞いておこうと思って」  竜は電話に慣れていないのか、少し声が固かった。 「ああ、うん。割引券があるから映画観ようと思ってるんだけど、それでいい?」  対する祐司も落ち着きがない。 「はい」 「何か観たいのある?」 「最近のはあまり知らないんで、祐司さんに任せます」  束の間考えた祐司が海外のアクション物の名前を挙げると、竜も名前だけは知っていたらしく快く了解してくれた。 「じゃあ、また後で……」 「あ、そのことなんですけど」  竜が早口で言ったので、祐司の言葉は虚空に消えた。竜は何か言い淀んでいるようだ。祐司は黙って待った。 「シフトが変わって、昼になったんです」  どういうことかすぐには理解できなかった祐司に、竜は慌てて付け加えた。 「何週間かだけなんで、すぐに戻してもらえます。けど……」  残念そうな声は、祐司にその表情をたやすく想像させた。 「日中ずっとなんで、コンビニは行けないです」  言わなくても、「午前3時頃の」コンビニを指しているのは分かった。  黙っている祐司に竜はぽつりと「すみません」と言った。しかし祐司には聞こえていなかった。 「────そっか。仕事、頑張って。次会うのは映画の日だね。楽しみにしてる」  祐司は明るい声色を繕ったが、いつもほど上手くできてはいなかった。竜が息をのむ音がした。 「俺も、楽しみにしてます」  じゃあね、と祐司は終話ボタンを押した。さっきまでフル回転していた脳みそは、今度はぼーっとして働こうとしない。  祐司は気づいてしまった。自分と竜はあの時間のあの場所でないと毎日会うことができない。予定して会ったとしても、何週間かに一回が良いところだろう。竜が夜に働いていなかったら彼とは出会うことすらなかったのだ。ラッキーな自分を喜ぶべきなのに、少しの期間毎日会えなくなっただけで祐司は悲しいような、虚しいような気持ちになる。心にぽっかりと穴が空いたようだった。  画面には《山崎竜 通話終了》と書かれている。  祐司は携帯電話をベッドに放り投げ、また床に身体を横たえた。 「……好きなんだなぁ」  どっと疲れが押し寄せ、祐司は自分の呟きを否定する間もなく眠りに落ちていった。

 それから祐司はコンビニに行ってもコーヒーを一本飲むだけで、10分もしないうちに帰るようになった。煙草を買った日もあったが、どうしても吸う気になれなかった。

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