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特別編第2話 日の出前に乾杯
祐司は錆びついた音で目を覚ました。顔をしかめながら携帯電話の画面を点けると、午前5時前だった。いつもより眠りが深かったせいか、まだ頭が重い。しかしもう一度寝られそうにもなかったので、眼鏡を掛けてもぞもぞと布団から這い出る。隣の竜はまだぐっすり眠っている。気持ち良さそうな寝顔だった。祐司は無意識に笑みをこぼした。
音のした方に目を向けると、そこはベランダらしかった。透けたカーテンの向こうに人影が見える。祐司は乾いた唇を舐め、上着を引っ掛けてベランダへと続くサッシを横に引いた。さっき祐司を起こした音と同じものが静かな早朝にこだました。
ベランダの人影は柵にもたれたまま、煙をひとつ吐いた。
「お仕事、お疲れ様です」
澄みきった冷たい風に髪を揺らすその人は祐司の言葉にも振り向かず、今度は片手の缶をあおった。
「早起きって聞いてたけどほんとなんだね」
「ええ、まあ」
「1本どう? こっちでも、こっちでも。両方でもいいよ」
寧は身体ごと振り向き、右手の煙草と左手の缶ビールを掲げた。
「じゃあ、そっちで」
寧は微笑み、足元に置いていた新しい缶ビールを祐司に渡した。こんな時間に酒を飲むのをためらったが今更断るのもよくないかと思い直し、えいやとプルタブを起こした。爽やかな音と共に新鮮な泡があふれる。ぐいと喉に流し込めば、心地よい刺激を感じた。
「いい飲みっぷり」
寧に促されるまま祐司は彼女の横に立った。アルコールがふわりと脳を侵し、夢見心地になる。酒には強い方だと思っていたが、今日はやけに回るのが早い。
冷え切った風が、並ぶ二人の頬を撫ぜた。
祐司は沈黙に気まずさを覚え始めた。寧の様子をチラリと伺うと、飄々と煙草をふかしている。化粧を載せたまつ毛が上下する。改めて、寧はあんな大きな子どもがいるとは思えないくらい若々しい見た目をしている。一体どういう仕組みなのか、失礼とは分かっていながら祐司は少し聞いてみたいような気がした。
「見惚れてた?」
寧の言葉に祐司は慌てて目を逸らした。
「いえ、その……若いなって」
言ってしまってからしまったと思ったがもう遅い。祐司は本音を隠すのが少しばかり下手になっていた。それもこれも、この人の息子のせいだが。
「はは、言うねぇ。秘訣は若い子と触れ合うことよ」
「なるほど……」
寧はまたビールを一口、煙草を一口、そして一息ついた。
「さっきまでやめてたんだけどね」
「?」
「煙草。竜を妊娠した時から────実際吸ってたのは数ヶ月くらいだけど、親になるんだからっていう決意のつもりでね。その時には、あの子の父親はあの子を育ててくれないって分かってたし。一人で全部やってやる! って、今思えば強気で無謀だった。それからはもう一生懸命働くしかなかった。ストレス発散しようにも煙草吸えないし。あの子にやめさせられたようなもんだからさ、何度腹が立ったか分かんない。けど────」
祐司はそのとき、寧の目尻に光るものを見た気がした。
「結局、自分の子どもだもんね。愛さずにはいられないよ」
祐司は返す言葉が見つからず、ただ立ち尽くしていた。握った缶がぬるくなっていたがそんなことを気に留める余裕はなかった。
「だからさ、今日くらいは吸ってもいいよね」
寧は短くなった煙草にもう一度口をつけた。まだ辺りは暗く、吐かれた煙が街頭を取り巻く。遠くで電車が走っている。
「俺が煙草やめたのも、竜のせいなんですよ」
祐司はベランダの柵に軽くもたれかかった。刺激が少なくなったビールを缶の中で回す。
「似た者同士、ですね」
寧は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして、それから吹き出した。
「確かに。そうかもね」
最後まで吸われた煙草を足元に置いた灰皿に押しつけ、寧が尋ねた。
「あんたら、これからどうすんの」
祐司が質問の真意を掴めずにいると、寧はわざとらしく頭を掻きため息をついた。
「同棲したりすんのってこと。言わせないでよ。これでも息子の独り立ちが寂しいんだから。応援するけどさぁ」
「え、まあ、その」
「どーなのよ」
寧に距離を詰められ祐司は半歩下がった。よく見ると寧の顔は紅潮していて、数本目のビールでかなり酔っているらしい。
「一緒に住みたいとは思ってますよ。もちろん、竜とお母さんがよければですけど」
あくまでそちらの都合に合わせる、という意思を伝えたつもりだったが、寧の顔は不服そうにしかめられていた。
「その、お母さんっての禁止! あんたのお母さんじゃない! お前にお母さんと呼ばれる筋合いはなーい!」
完全に絡み酒のノリである。
「だったら何て呼べば……」
「寧さんと呼びな! もしくはきれいなおねーさん!」
「分かりました、寧さん」
「……ゆーじさぁ」
いつの間にか、祐司から離れた寧は次の缶を開けようとしている。しかし祐司はそれよりも、急な呼び捨てに驚いていた。
寧は祐司にとろんとした目つきを向けて言った。
「竜を、よろしくねぇ」
目を細めてビールをあおる姿は、どこか幼くも見えた。
きっとこの人は前に進んだのだ、と祐司にはなんとなく分かった。
「はい」
肌を刺すような風が吹き抜けた。寧がくしゃみをしたところで、錆びついた音がした。竜が目をこすりながらサッシを横にすべらせている。
「おーおはよー」
「何してんの、寒いのに」
祐司と寧は顔を見合わせた。
寧はにかっと笑って、ビール缶を祐司と竜に向けて掲げた。
「若人の明るい未来に!」
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