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特別編第1話 午後四時のBPM

 季節はまた、桃色の気配を含んでいた。  祐司は緊張した面持ちで古びたアパートのインターホンを押した。部屋の中で確かに呼び出し音が響いた。その音に祐司の心臓の鼓動はBPMを10ほど上げた。  数秒か、数十秒か、数分か。  祐司の時間の感覚が鈍り始めたところで、目の前のドアが錆びついた音を立てた。 「あ、どうぞ上がってください」 「……お邪魔します」  一歩踏み出す。嗅ぎ慣れた柔軟剤の香りが濃く、祐司の鼻孔に届いた。  またBPMが上がる。祐司はなんとか元に戻そうと深呼吸をしてみるが効果は薄そうだ。 「祐司さん、緊張してます?」  先を行くこの部屋の住人────祐司の恋人、山崎竜が立ち止まって尋ねた。 「いや、そんなことは、ない、けど」 「はは、ガッチガチじゃないですか」 「そう言う竜はいつになくリラックスしてるよね……」  恨めしげな目を向けたが、竜は素知らぬ顔で「そりゃあ自宅ですから」と言った。  今日、祐司は重大な用事で竜の家を訪ねた。  竜の母親であり、ただ一人の肉親である山崎寧に挨拶をしに来たのだ。  竜から聞いた印象ではかなり豪快な人で、祐司は太刀打ちできなさそうだと思った。太刀打ちできても困るのだが、なんだか気圧されそうだ。息子の恋人が情けない男だと思われるのは祐司としては避けたい。頼りになる奴だと思われなくても、せめて、悪い奴だと思われないようにしたかった。  祐司は手元の洋菓子店の紙袋に目を落とす。これで少しでもいい印象をつけられますように。そんな下心のこもった手土産はよくないかもしれないが、今の祐司は藁にもすがりたい思いだった。  頼むぞ、そこそこいい値段のプリン。 「こっちです」  祐司は紙袋を持つ手に力を入れた。 「失礼します……」  通されたのは小さな畳の一間だった。祐司は視線の先に彼女を認める。その人は部屋の真ん中に置かれた座卓の向こうで胡座をかき、腕組みをしていた。そして、閉じていた目を見開いて言い放った。 「あんたにうちの竜はやらんぞ!」  祐司の思考は一時停止した。  力を入れた拳が解けそうになり、我に返った祐司は慌てて紙袋の持ち手を握り直した。 「あの」 「母さん、悪ふざけはよせよ」  なんとか言葉を絞り出そうとした祐司を竜がさえぎった。『悪ふざけ』という言葉に祐司の身体は固まった。  寧は険しい顔をさらに険しくして────花が咲くように笑った。 「いや〜ちょっとしたジョークだって! きっと緊張してるだろうなーって思って場の雰囲気を和ませようとしたっていうか。ごめんね、びっくりさせちゃって。まあ汚いところだけどその辺座りなよ」 「母さん」 「『祐司さん』だよね、いっつも竜から話聞いてるよー。ほとんど惚気だけど。あ、これ言っちゃいけなかった? まあいいや」 「母さん!」 「ん?」  寧は白々しい顔でまぶたを数回上下させた。彼女の視線の先の竜の顔は茹で上がったように真っ赤だ。それは怒りのせいか恥ずかしさのせいか、側から見ている祐司には分からなかった。 「急に喋りすぎだから。祐司さんも困ってるし。すいません、なんか舞い上がってるみたいで」 「舞い上がってるのはあんたでしょ? 朝っぱらから部屋の掃除してさ。叩き起こされた私の身にも……」 「どうぞ、座ってください」  あべこべな山崎親子がおかしくて、祐司の頬は自然と緩んだ。努めて小さくなった祐司の隣に竜が座る。三者面談を思わせる配置だ。 「あの、これ、つまらないものですが」 「うわ、いいところのお菓子じゃないですか。これはこれは、気を遣わせてしまって……」  寧はにこにこして紙袋を受け取った。嘘のない、純粋な嬉しさが祐司にまで伝わり、少しくすぐったいような気持ちになった。  彼ら親子は似ている。祐司は直感的にそう思った。嘘や建前がなく、それ故にあたたかい気持ちがこちらにも流れ込んでくる。口数や話すテンションが違っていても、やっぱり親子だ。  寧はそうね、と何か納得したように頷いて言った。 「祐司くん、真面目そうだし大丈夫だね。竜のことは任せた」 「え?」  祐司と竜の声が重なった。二人とも間の抜けた声だった。 「女遊びも男遊びもしなさそうだし。なにより、顔つきがいいからね。これから二人でどうするかは分かんないけど、一緒に決めたことなら私は賛成するから」  法に触れなければね、と寧は冗談めかした。  祐司は拍子抜けしていた。こんなにもあっさり認めてもらえるのか。なんなら、最初のまま「竜はやらん」の一点張りの方が安心できたかもしれない。上手くいきすぎて不安になる。 「っ、祐司さん」  隣から弾んだ声がする。見ると、竜の顔にも寧と同じ花が咲いていた。祐司は胸のあたりが急に熱くなったように感じた。その熱は、祐司の口から言葉を飛び出させるのに十分だった。 「お母さん。俺、幸せにしますから。竜のこと。これからどんなことが起こるか分からないですけど、竜を愛してるって気持ちだけは変わりませんから、だから……」  続く言葉が見当たらない。家で何度もシミュレーションしてきたはずなのに。  ただ竜が好きで、愛していて。ずっと大事にしたいと思っていて。情けない自分でも竜が必要としてくれるならそばにいたくて。  これほど自分が国語の教師だったらよかったのにと思うことはなかった。咄嗟の言葉は陳腐なものばかりだ。 「竜を生んでくれて、出会わせてくれて────ありがとうございました」  祐司は自分でも何を言っているのか分からなかった。BPMを数えている余裕もない。寧の反応を待つばかりの祐司は、耳から心臓が出そうなほど鼓動を感じていた。 「これ聞いてどうよ、竜」  寧の不躾な問いに竜はぴくりと身体を震わせた。 「どうって……なんか、俺、すげぇ人と付き合ってんだなって」 「ふうん。他には?」 「……とにかく嬉しい」 「あとは?」 「あとって何だよ。……………………俺も、愛してます、祐司さんのこと」  寧は満足げに何度もうなずき、目がなくなるほどの笑顔を見せた。 「そう。それでいいんだよ。あんたらがお互いのこと同じくらい愛してる。それ以上に何の条件がいる? 自分の子どもが選んだ人だよ。親の私が応援しなくてどうするのさ」 「母さん……」 「ま、そういうことだから。二人で仲良くやってちょうだいな」  ただし祐司くん、と寧のはつらつとした指が祐司を指した。 「うちの息子を再起不能なくらい傷つけたら、容赦しないから」  にこやかだが鋭い目つきに、祐司の背筋は否応なく伸ばされた。やっぱり親子だ、とまた同じ感想を抱く。 「肝に命じておきます……!」  寧の豪快な笑い声が、狭い一間に響いた。

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