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第1話

九月。 バカンスを終えた大人達が一様に憂鬱そうな、名残惜しそうな顔でそれぞれの職場に戻って行く月。彼等の日焼けした肌が、短い夏を堪能したその証が、一雨ごとに冷気を含んでいく風に晒され始める、そんな月。それがユーイの住む国での始まりの月だ。 煉瓦造りの壁と石の天井に、いくつもの琥珀色の電燈が灯って店内を照らしている。大学の近くにあるこのバーでは、仕事帰りにくつろぐ大人達よりも、下らない話題に花を咲かせる学生達の姿の方が多い。 外は雨。 ユーイは少し離れたカウンターから、酔って羽目を外し始めたキャンパスメイト達を遠巻きに眺めていた。大した話題もないのに、よくもこんなに毎回騒げるものだと感心してしまう。入学以来、ほぼ毎週のように、似たようなメンバーとここで呑んでいる。誰かこの無駄な集まりを牽制しないものかと毎回思うが、グループのリーダーのジギイには誰も意見できない。 「今日、いつもの店で会おう」 彼からそう云われた時、即座に場所を理解できるかどうかが、この勝ち組に所属している証となる。 ユーイの手許に二杯目のミラベルの果肉を使ったカクテルが届いた。女みたいだと揶揄(からか)われても、季節限定のこれだけは毎回呑む。ミラベルリキュールを使ったビールはオールシーズン呑めても、新鮮な果肉を使ったミラベルのカクテルがメニューに載る時期は限られている。呑む度に、これが今年最後にならないことを祈りながらユーイはグラスを口へ運ぶ。 つまみのグリーンオリーブが辛すぎる。そんなことを思っていると、不意に名前を呼ばれてユーイは仲間達の方を振り返った。輪の中心にいるジギイが笑顔でこちらを見ている。 「煙草切らした。一本くれ」 腰を沈めたソファ席から、微塵も立ち上がる様子を見せずに彼はそう云った。まるで世界の中心は自分だとでも云うみたいに。 「・・・いいけど」 ユーイは手許に置いてあった煙草の箱を開き、一本だけ引き抜いてこのいけ好かない友人に差し出した。箱ごと手渡すと、この男には数本かすめ取られる。既に何回かやられている。ジギイは当てが外れたような顔をした後、グループ最底辺メンバーのラキを呼んで煙草に火を点けさせた。毎度のことだが話に夢中でラキに礼すら云わない。 ラキはジギイの気分や命令次第で右往左往しなければならない立場、つまり負け犬だ。大学に入るずっと以前からいじめられ慣れていたらしく、彼にはどこか、不当な扱いを(うべな)うようなところがある。興味のない勉強以上に苦痛なのが、この人間関係というやつだ。どうしたってそこには力関係というやつが生まれる。 ユーイは元々、表情が豊かな方ではない。昔から愛想がないと周囲からは云われ続けていたし、大学でも無理に友達をつくるつもりもなかった。けれどこうしてグループに属してしまった以上、これでも反感だけは買わないように努めているつもりだ。 「ねえ、サリュは?今日は本当に来ないの?」 執拗に肩を抱き寄せてくるジギイの手を払いながら、ミュラニーはシグナルレッドの長い爪で器用に自分の携帯電話をチェックし、明らかに人工のものと思われる睫毛を瞬かせた。 ジギイとミュラニーは先週から付き合い始めたようだ。ジギイの方は念願叶ってということでこの数日、かなり機嫌がいい。既に彼の左上膊には、ミュラニーの名前のタトゥーが入っている。 ミュラニーは地元の高校でクイーンだったことが自慢で、学部内でも有名な美人だった。それも並みの美人ではなく、雑誌やテレビで見かけるモデルや女優と較べても引けをとらない容姿をしている。だが性格は最悪だ。自分の都合のいい時だけ他人を利用し、常に値踏みしたような視線を相手に向けてくる。特に、格下と認識した同性には眼もくれない。 ミュラニーに限らず、ヒエラルキーの頂点に立つ人気者というのは大抵性格が破綻している。 ジギイもそうだ。最初こそ分からなかったが、話をしていくうちにこの男の尖った雰囲気の正体がユーイにも掴めてきた。 ジギイは生まれながらの強者だった。物心ついた時からいつもヒエラルキーの頂点を牛耳るグループに属していて、弱い者を虐げ、侮蔑し、罵詈雑言を浴びせ、ストレス発散のために使い倒し、時には制裁と称してリンチを加える。そんな行為を何の疑いもなく、日常的にやってのけてきたらしい。だがこの男は目利きだった。動物的な勘に優れていた。まだ探り合いの段階の雑多な空気の中、キャンパスを行き交う同級生達の中から、次々と自分と同じ匂いのする猛者達を見つけ出してきてあっという間に学部内でのピラミッドの頂点の組織を作り上げてしまった。その末席にいるのが、ユーイなのだ。その下はラキだ。彼に席はない。常に使いっ走りにされている彼に、坐っている暇はない。 ジギイから逃げる機会はいくらでもあった。だが厚かましい人間相手に、自然にフェードアウトするというユーイが試みた手法は通用しなかった。日が経つにつれ、ユーイはジギイから本格的に逃れられなくなってしまった。ジギイのような男が何故自分に話しかけてきたのか、それはユーイにも分からない。意味などなかったのかも知れない。恐らく、新しい場所での軽いウォーミングアップに使われただけのことだったのだろう。

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