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第42話

何となくサリュが先に起き出している気配は察していた。あまりにも室内が寒かったからだろう、エアコンのスイッチを入れる音が聞こえた。その後で、室温そのものを上げるために、ハロゲンヒーターの電源を入れ、カーペットの電源を入れていた。全ての音を、ユーイは夢現に聞いていた。その後も、サリュはキッチンでかちゃかちゃ何かやっていた。 少し経って彼が近づいて来る気配がして、背中に毛布をかけて直してくれた。その後すぐに顔の上に屈み込むのが分かった。 右の瞼の上にキスが下りてきた。左にも。額にも。口唇にもしてくるのかと思いきや、唐突に頬から目尻を舐められた。 「何するんだ」 甘いおはようの挨拶もなしにユーイはそう云って顔を背けた。サリュは悪戯が成功した子供のように笑った。 「昔、ノアがこうしてくれた。納屋で昼寝から醒めた時なんかに」 サリュはホットチョコレートを作ってくれていた。昨晩の雨は深夜、みぞれに変わり、今朝は晴れていた。窓に霜が降りるほどの寒い朝で、乾いた喉に熱いチョコレートがしみるようだった。 素裸に丈の長いカーディガンを羽織った状態でサリュはユーイの隣に腰かけた。髪を梳くように頭を撫でてくる。 「平気?どこも痛くない?」 ユーイはマグカップを口につけたまま頷いた。本当は嘘だった。気を抜くと鈍い痛みが後孔を襲う。腰もだるい。それに昨晩、本当は少し怖かった。頭では分かっていても、どうしてもあの恐ろしい体験のことを考えてしまう。 これは一生ついてまわるのだろうか。サリュと何度体を重ねても、癒しきれないかも知れない。それでも繋がりたいと思った。我慢できなかった。 いつもの休日の朝のようにテレビを点ける気分にはなれず、そのままチョコレートを啜っていると、髪を撫でていたサリュの手が毛布越しにユーイの背中に触れた。 「昨日は俺も少し恥ずかしかった」 「何が?」 「あんな早くいくなんて、自分でも思わなかった。普段はもうちょっと我慢できるし、タイミングだってコントロールできるんだよ」 サリュはいつも困った時に浮かべる笑顔をユーイに向けてきた。屈託のなさは普段通りだったが、まるで自分の不覚を認めるような、内省的な発言だった。 「やっぱり誘われてするのとは別だね。気持ちがあるのとないのとでは感じ方が全然違うって話には聞いてたけどちょっと疑ってたんだ。でもユーイの体に触ってたら、それが本当なんだって分かったよ」 そして更に突っ込んだ話をしようとする気配がサリュの真面目な顔から感じられた。 「昨晩、ああなるとは思ってなかったから、あまり余裕がなくて」 「別にそういうことは、云わなくていい」 ユーイはサリュの話を遮った。 「え、何で?」 沈黙。 細かい話なんか聞きたくない。そんなことは恥ずかしすぎる。それにこうなってみて初めてユーイはサリュと床を共にしてきた数多の存在に嫉妬を覚えた。彼等彼女等を匂わす発言など聞きたくない。勝手に一人で反省会を始めないで欲しい。ユーイは答えずに寝台横にあるサイドテーブルにマグを置いて、何の用もないのに携帯電話をいじり始めた。 「昨日俺がどうだったかも、その他の大勢がどうだったかも知りたくない」 「きれいだったよ、君は。今まで見た誰よりも」 その言葉にユーイは顔を上げた。 「あのさ、君ともしそうなった時は、しっかりリードしようって決めてたのに、いざああいう場面になったら抑えが利かなくて・・・多分、強く掴んだり、引っ張ったりしたと思う。ごめん」 「・・・お前が実はSだってことぐらい、とっくに分かってる」 サリュは微笑んで、ユーイと同じようにサイドテーブルにマグを置こうとした。サリュにとってその台はユーイの後ろにあったため、若干遠かった。だが、片手を伸ばせば何とか届いた。その際、二人の距離がより近くなった。サリュのもう片方の手は、ユーイの手に重なり絡みつこうとしていた。 「・・・期待外れだったとか、思ってないか?」 ユーイはサリュに訊いた。聞きたくないと云っておきながら矛盾していたが、自分がこの男に捧げられる唯一のものが彼の誠意に匹敵しているか 知りたかった。 「まさか。人生で最高の体験だったよ。死んでもいいって思えるぐらいに」 サリュはユーイの携帯電話を優しく手から取り、脇に置いた。そしてチョコレート味のするキスをしてきた。首筋に吸いつかれて寝台に崩れると、窓からよく晴れた空が見えた。サリュと初めて触れ合ったあの十月の日を思い出す。窓外から降り注ぐ冬の陽光が、二人の汗に塗れた寝台を神々しいもののように見せていた。その光の中にサリュの髪の金色が溶けて消えていきそうだった。 サリュはユーイの体の上にもキスを落としてきた。前触れもなく胸の先端を口に含み舌先で転がし始めたので、ユーイの体は痙攣するようにそれに応えた。初めて彼に口淫をされたあの十月の日よりも、そこに対する刺激にずっと敏感になっていた。素直に恍惚の声を漏らすと、サリュは起こしてきた時と同じように瞼にキスをしてきた。一瞬後に眼を開くと、抜けるような青空を湛えた二つの瞳に捉えられた。 ユーイはサリュの大きなホリゾンブルーの瞳を本当に美しいと思った。そんな眼で見られたら、たとえ愛情深い家族の元へであってもこの男を帰したくないと思ってしまう。ほんの一週間とちょっとだ。我慢しなければ。人間らしく我慢する。犬と違って自分は、彼が帰って来ることが分かっているのだから。時間になったら彼を寝台から追い出して、何の名残惜しさも未練も感じさせずに、少しぐらい素直に笑って彼を送り出そう。後追いなんかしない。人間の自分には簡単なはずだ。 昨夜とは反対に、朝から昼間にかけてのセックスは穏やかで優しいものだった。 まるで日照り雨を降らす天を仰ぎながら、海を揺蕩うような経験だった。全身に降りかかる光芒の金髪と雨だれのような温い指先に誘われて、長い間、愛撫の快楽の中を遊泳した。囁いたり舐めたり甘咬みしたりといった中で、優しく粘膜を掻き乱されながら時折口唇を啄ばまれ、胸の突起を舌先で転がされると正気ではいられなくなってきた。緩急に従って快感の波が乱高下した。声を押し殺して時折やってくる大きな波に耐えつつ、相手の顔を見上げた時、もう他の誰ともこんなことはしないと思った。 時々、サリュは苦しげに息を吐く。こんなに熱く、必死で、痛々しい呼吸をユーイは聞いたことがない。胸が詰まる。全身に彼の余熱を感じながら、氷を抱くような切なさに苛まれる。彼に訊こうとしていたことも訊くのも忘れる。与えているのに満たされる。だから彼から与えられるともう溢れんばかりにいっぱいいっぱいになってしまって、それが涙になってしまう。その涙を堪えるために、狂ったように愛している、と繰り返す。 この体を形づくる部品全てがお前のものだ。本当なら、同じものになりたい。お前と同じ目線で、同じ指先で、同じ口唇で、全ての感覚を共有したい。それができないなら、この体を焼いて残ったその骨をずっと胸につけていてくれたらと思う。 でもそうなったら、燃えるような口唇の熱も感じることはないのかとふと我に返る。 サリュは自分と出会った時、一匹の犬の亡霊をこの身が醸し出す孤独に見たのだろうか。あるいは千分の一秒の中で何かを感じてくれたのか、それは分からない。これほどまでに迷いなく強く切実に二つの命が結びつくという運命は、一体いつ、何が、生み出したものなのだろう。 遠くで怪物の咆哮を聞きながら、ユーイは持っている全てをかけてサリュと触れ合った。 もし今、あの怪物がやって来て、肋骨の檻を拉ぎ、踏み折って、この体と共にサリュを喰い殺しそうとしたら? お前にサリュは殺させない。 この命を喰い散らすなんてことを、お前にさせて堪るか。こいつの命を、お前が踏み躙ることなど許さない。 ユーイは体の中の怪物に向かって吠えた。 自分は絶対に負けない。お前がこの体の何を支配しようとも、もう誰も傷つけさせはしない。もう孤独には戻らない。いくつ傷を負っても、お前を抱えたままのこの体でも、溢れるほどの幸福に満たされて、最後まで生きていってやる。 自分にはサリュがいる。 命を賭けなければ、命を賭けてもらえなければ抱き合えない。そういう恋しか自分にはできない。 恋。そう呼ぶべきだろうか?違う。これは破綻した者同士の魂の交歓だ。 この太陽のような男はいずれ、その狂熱でこの身を()くだろう。あるいはその指先から滴る生温く夥しい熱情の雨に溺れるのが先か。その時までずっと傍にいる。その姿がこの眼に見えなくなるまでずっとずっと傍にいる。  ユーイは眼を閉じて、自身に降り注ぐ命の粒子に触れた。

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