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 昔は、こんなにきつく抱き締めたことはなかった。  そう思い、腕の力を抜く。彼の身体全体を、ゆったりと包み込むような抱き方をした。彼の感触を確かめるように、ゆるゆると腕を動かす。 (細さはあの頃と変わらない。でも、背も伸びて、大人の身体になった……)  最初は真実慰めるだけのつもりだった。  自分よりもずっと小さくて細くて子どものような肉体(からだ)だった。そのせいか庇護欲の方が勝っていた。しかし、彼もいつまでも子どもの肉体ではないし、自分の心もいつまでも幼いままではなかった。  秋穂に出逢った時、初めて他人(ひと)に欲情した。すぐに胸の奥底に押し込めたは、いつまでも燻り続け、あの夏の日に一気に噴き出した。  十五歳の夏。  雷を怖がって縋りつく、少年と大人の狭間にある肉体に、それまでになく欲情した。それを詩雨に言い当てられ、初めて自分の気持ちを自覚した。秋穂に対する想いは、友情でもなければ、ただの庇護欲でもない。肉体関係も含めた恋なのだと。  自覚したところで、どうすることもできない。  家族に恵まれなかった彼に、当たり前のごく普通の幸せを、男の自分が与えられるわけがない。かといって、あの男のように力尽くで奪うこともできない。  秋穂の婚約をきっかけに距離を取ろうとした。それでもその想いは、自分の内から消えることはなく、文字通り“幸せな家庭”を手に入れた秋穂を見続けることなど、到底できはしなかった。 (それが、どうだ……今、またこうして、腕の中にいる)  冬馬のその手は秋穂の背だけではなく、他の場所へと彷徨い始めた。次第に自身が昂ってくるのを感じた。  秋穂がこの行為の意味に気がついているのか、いないのか。 「…………最初に壱也さんに乱暴された日……冬馬が僕を抱き締めてくれたこと……すごく嬉しかった────実の母親にさえ与えられなかった、優しさや温かさを貰った…………。それからはどんなに壱也さんに酷いことをされても……冬馬が温めてくれるって思ったら耐えられた────」  ゆっくりと柔らかく紡がれる言葉。しかし、その後に続く言葉はそれまでと違って、酷く声が震えていた。 「違う……違うんだ──最初は、確かにだったんだけど──でも……だんだん違ってきた、冬馬が僕を抱き締めてくれる意味と。────僕は、冬馬に抱き締めて貰う為に、義兄さんに酷くされたい、と思うようになったんだ…………」 (何……?何を言っているんだ?)  冬馬は無意識に動かしていた手を止めた。 「────義兄さんが日本を離れ、冬馬が理由もなくなった──その頃から……少しずつ、冬馬が僕から離れていくのを、感じていたよ。──それまでと変わらず接してくれているようでいて、少しずつ少しずつ、変わっていった…………」 (泣いて……るのか……?)  肩口に寄せていた顔を上げ、秋穂の顔を覗き込む。  ずっと伏せていた瞳は、大きく見開かれ、今度こそ涙が溢れ出ていた。 「──それでも、学園にいる間は良かった。卒業して僕が結婚してからは、それまでと比べようもなく、会えなくなったよね…………沙穂が産まれてからは、もっと……。────最初はここにも来てくれてたけど、そのうち僕の誕生日とクリスマスだけになって……去年は、クリスマスも来なかった…………それなのに────」  声にやや恨みがましさが滲む。 「僕の誕生日の前日、『冬馬は行けないんだ』って詩雨くんから電話を貰ったよ。もう、一年も会っていないのに。楽しみにしてたのに。────それに、なんで……詩雨くんから連絡くるの?冬馬じゃなくて?」  口を挟む間もなく捲し立てる。こんな口調の秋穂を初めてだと思った。そして、こんな風に泣くのも見たことがない。 「僕は……冬馬の周りにいる誰にでも嫉妬していたよ、詩雨くんにさえも──ううん、違う。ほんとは、一番、詩雨くんに、嫉妬してたんだっ。冬馬の彼女にじゃなくて、詩雨くんにっ。ずっと、ずーっと!」 「アキ、アキ?こっち、見て」  軽く肩を揺さぶりながら声をかける。自分の顔を凝視しているのに、何も見えていない秋穂を、自分に向かせる為に。 「────冬馬はもう、僕から完全に離れて行くつもりなんだと感じたよ。あの時、一瞬思ったんだ────冬馬がいないなら、もう何もいらないって……紗香や沙穂もいらない……あの秘密基地にいた頃の……ふたりだけの世界に戻りたいって。────そしたら…………紗香も沙穂も死んじゃった…………」  秋穂の顔が奇妙に歪む。他人を蔑むような、酷薄そうな、今までに見たこともない顔だった。そして、それは恐らく、秋穂自身に向けられたものだろう。 「秋穂っ!俺を見ろっ!」  その表情にも告白にも、内心動揺しながら、先程よりも強く肩を揺さぶる。 「冬馬……」  今度こそふたりの眼が合ったように感じた。  秋穂の表情が変わる。 「わかってる……そんなの、単なる偶然だって…………。僕がそう思ったから死んだ、なんてことはない。でも。────余りにも強烈な想いだったんだ……自分でも怖いくらいに……。ふたりの存在自体無くしたいなんて────そして、その直後に、ほんとにふたりはいなくなって…………自分のせいだって思わずにはいられなかった」 「アキ……」  冬馬の前でさえ薄い膜に覆われていたこの男が、その膜を破り捨てて何もかも曝けだした姿に、最後の理性も砕かれる。この男のすべてが欲しいという、欲望に突き動かされる。  この流れる涙さえも──。  冬馬は彼の目許に唇を寄せた。そして、涙を吸い上げる。口内に塩気が広がる。 「────全部忘れてしまいたかった。あんな酷いことを考えてしまった自分も、何もかもすべて、ないものにしたかった。────そんな風に振る舞っているうちに……錯覚し始めたんだ……冬馬が毎日のように傍にいてくれて、あの頃に戻ったんだって──本当は忘れてなんかいなかったのに………………」  秋穂の声を近くに聞きながら、冬馬は溢れ出る涙を吸い続けた。やがてそれが止まると、頬に残る涙の跡を上から下へと舐め上げた。 「ん……」  小さく吐息が漏れた。秋穂は表情をまた変え、すべてを自分に委ねているように見えた。伏せた睫毛は細かく震えているが、先程までの哀しげな様子はなく、薄く色づいた唇は誘うように半開きになっている。  冬馬は更に自分の身体が熱くなっていくのを感じた。かつて誰かと抱き合って、こんなに興奮したことがあっただろうか。  誘われるままに自分の唇で塞いだ。  初めて触れる場所だった。 (だめだっ、もう止められない)

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