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11 ☆

 冬馬は閉じられたドアを、じっと見つめた。  冷静になれ、と自分に言い聞かせる。  高一の冬に自分が壱也に怪我を負わせるまで、彼が秋穂に肉体関係を強要していたことは知っていたし、そんな秋穂をずっと慰めてきた。あの日、ひどく乱暴された秋穂を見て、激昂し自分を抑えられなくなった。  ──今は、それとはまた違った感情が渦を巻く。  実際眼の前で行為を見せつけられた憤りは、あの時の比でないことは間違いない。  しかし、それ以上に秋穂を自分のものにしたい欲望に駆られた。その欲望は、秋穂に初めて逢った時から、胸の奥に燻り続けていた。  気づいていた──でも、気づかない振りをして、胸の奥底に封じ込めていた。  冷静になれ。もう一度、自分に言う。俺は彼奴とは違うんだ、と。  いったん眼を閉じ、大きく息を吐く。再び眼を開けると、床の上に座り込んで放心している秋穂が見えた。  冬馬はゆっくりと彼に近づき、自分も片膝を突いて視線を合わせる。 「アキ」  耳許で優しく名を呼ぶ。 「冬馬……」  秋穂は冬馬の眼を見た。しかし、触れようとするその手を拒むように、座ったまま後退った。 「ごめんな……ドア、弁償するから」  安心させるように穏やかな声音で言い、床に置かれた両の手の上に、そっと自分の手を重ねた。今度は拒まれない。冬馬はその手を取って、秋穂を立ち上がらせた。そのままゆっくりとソファに座らせ、自分もその隣に腰を下ろした。  楽しい夜になるはずの部屋が、重い沈黙に包まれる。どちらも口を開きかけては、また閉じる。何度もそんなことを繰り返した。  長い沈黙の間にどうしても眼に入ってしまう、襟ぐりの開いたセーターから覗く首筋。  白い肌に紅い噛み痕。滲み出る血。  冬馬は無意識に指を伸ばし、傷口に触れる。それから、襟に指をかけ、素肌との間に僅かな隙間を作る。そこから覗く肌にも、無数の痕──。 (今になって、気がつくなんて──) 「奴と……会っていたのか?」  低く押し殺した声。しかし、その胸中にあるのは、今にも溢れ出そうな激情だった。  秋穂は僅かに顎を下げる。 「……僕が結婚してすぐ、日本に戻されたらしい……」  冬馬の眼を正面から見ることができず、伏し目がちに答える。 「義父は元から壱也さんを本社に呼び戻したがっていた。あれから、もう何年も経っているし、僕も結婚して、壱也さんの僕への興味も薄れただろう、と……義母も納得して──」  一旦言葉を切り「でも」と続けようとして口籠る。 「来たんだな……彼奴、ここに」  秋穂の代わりに冬馬が言い、それに秋穂も小さく頷く。 「壱也さんが来たのは、僕が結婚して一年を過ぎた頃だった、と思う」  その頃紗香は妊娠三ヶ月目に入っていた。元々余り身体が丈夫ではなかった彼女は、体調を崩し入院することになった。  そのことを偶然小耳に挟んだ壱也が、自宅に秋穂独りであることを知り、姿を現した。  きつく握っている手をずっと見つめながら、秋穂はぽつりぽつりと話す。長い睫毛は微かに震えていて、冬馬には泣いているかのように見えた。しかし、涙は流れてはいなかった。 「義父からの用事だと言われれば、中に入れないわけにもいかない。それに──彼はただ僕のような出自の人間が石蕗家にいるのが許せなくて、嫌がらせをしていただけ。結婚して家も出た僕に今更何かすることはないだろう、と思ったんだ」  だから、壱也を部屋に上げた。  その後何が起きたかは、容易に想像がついた。  冬馬は堪らない気持ちになって、その細い肩を抱き寄せた。もっと強く抱き潰してしまいたいのを必死で堪えながら、優しく抱き締める。  そんな彼の欲望には少しも気がつかず、秋穂は話を続けた。 「その日から、壱也さんは頻繁に僕に接触するようになった。紗香たちがいない時に自宅(ここ)に来たり、職場の前で待ち伏せしたり。……昔以上に僕に執着しているようで……怖かった。呼び出しの電話も拒めない程……怖かった……」 「五年間……っ」  秋穂を抱き締める腕に力が入る。そのままその身体をソファに倒した。彼の肩口に顔を寄せる。 「五年間……気がつかなかった」  低く呟く。 (なんで気がつかなかったんだ。アキが辛い目に合っていたのに)  すべて自分が逃げだしたせいだと、冬馬は思った。  日々形作られていく秋穂の幸せを、見ているのが辛かった。次第に秋穂の家から足が遠退き、秋穂自身に会うことも避けるようになった。 (そんな自分が気づくはずがない)  胸の奥から苦いものが込み上げてくる。  ふっ……と、耳許で小さく笑う声がした。今の雰囲気にそぐわない穏やかな声に、冬馬は訝しんだ。 「アキ?」 「懐かしいね。あの頃も、こんな風に抱き締めて慰めてくれていたよね。義兄さんに酷いことされた後、いつも」 「そう……だな」

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