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 過去(ゆめ)現在(いま)を曖昧に浮遊している心を、この男は、無理やり現実に引き戻そうとしている。 「お前が、真実(ほんとう)に、愛しているのは──」 「しらないっ」  壱也の言葉を強い口調で遮る。  秋穂はけして壱也に逆らうことはない。しかし壱也が、“その名”を口にした時だけは違う。お前がその名を口にするな、と言わんばかりに反抗する。  その強い眼差しを見るのが面白くて、彼は時々わざと“その名”を口にしてみる。余り逆らわれても腹立たしくなるので、その遊びはすぐに止めてしまうのだが。 「まあ……いいや」  唇の端を少し歪めて嗤う。高級そうなスーツに包まれた片腕が上がり、その指先で秋穂の蒼白い頬に触れる。  その途端、頭の騒めきはまた別なものへと変化した。  その変化を壱也は即座に感じ取り、指をゆっくりと頬から首筋へと下ろしていく。 「何?もう感じた?──ほんと、淫乱だなな、お前は。母親そっくりだ」  否定できなかった。自分を蔑んだ眼で見るその男の冷たい指先は、確かに身体の奥の熱を上げていく。  顔も体格(からだ)も声も、何ひとつ“彼”と似ているところがない壱也に抱かれながら、“彼”に抱かれている妄想に浸っていた。そうすることで、けして逆らうことのできない苦痛に耐えてきた。 (貴方に、感じているわけじゃない。でも……)  肉体は心を裏切る。慣らされた身体は、壱也に触れられて、条件反射のように熱を持つ。  そんな恥知らずな自分を忘れてしまいたかったのに、壱也の指先に何もかも思いだして、白い肌が紅潮していく。 「誰のこと、考えてる?」  黙って耐えている秋穂を面白そうに眺めている。答えなど別に欲しいわけでもない。  アイボリーのセーターから覗く、僅かに紅みを帯びた白い首筋に唇を寄せると、思い切り歯を立てた。 「つ……」  鋭い痛みに呻きを漏らした瞬間、セーターの裾から冷たい手が入り込む。直に肌に触れられ、身体が震える。歯を立てたその場所を吸い上げられ、舌先で嬲られると、我知らず吐息が漏れた。  不意に。  バンッと何かを叩く音と、パリンと何かが割れる音がして、行為の途中で二人同時に振り返る。  リビングのドアの傍らに、背の高い黒いコートの男が立っていた。足許には、ドアに嵌め込まれていた硝子の破片が散っている。 「冬馬……」  秋穂は茫然と呟き、壱也は秋穂から手を離した。 「は……。もうちょい遅く来ると思ったのにな。まだ外は明るい。お仕事はどうしたの、Citrus のオーナーさん」  冬馬はそれには答えず、ただ黙って壱也を睨みつける。青白い炎が揺らめいているようだ。 「出ていけ」  数秒二人の男は睨み合っていたが、壱也の方がその均衡を崩す。 「ハイハイ、そんな顔しない。今日は出てくよ。またケガさせられたら堪らない」  両の手を上げて、降参のポーズをする。足早に去ろうとするが、冬馬の脇を通り過ぎる間際立ち止まる。 「でもね、橘くん。秋穂は石蕗家のモノだよ」  その言葉が更に冬馬を煽る。無言で壱也の襟を締め上げた。 「なあ、秋穂。お前にはまだ、石蕗家の為にやるべきことがあるんだよなぁ」  壱也は少し苦しそうにしながらも、意味ありげに嗤う。 「アキ……」  冬馬の手が緩んだ瞬間、壱也が素早く離れた。 「また来るよ、秋穂」  そう言い捨てて、今度こそ立ち去った。  バタンとドアが閉まる音がした。

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