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15 ☆
水底のような仄蒼い部屋の中で、ゆらゆらと揺れる影。
上質のシーツに横たわる長身の男の上で、細く白い裸体がゆったりと反り返る。愛し合うふたりの顔は、快楽よりも何処か切羽詰まった切なさが浮かんでいた。
部屋の窓から見えるのは、深い木々と雪景色。他には誰もいない、ふたりだけの世界だった。
ほんの数時間前までは、都会の喧騒と光の海の中にいたというのに────。
* * *
マンションのエントランスを出てすぐの生垣に、横付けにされていた車に乗り込んだ。冬馬は、秋穂を迎えに行く少しの間だけのつもりで、駐車場には停めてはいなかったのだろう。
苦しげな冬馬を助手席に座らせ、運転は秋穂がした。十分程先のドラックストアで包帯や消毒液を買い、この時間には余り人通りがないだろうと思われる霊園の脇に車を停めて、手当てをした。
「冬馬……病院に行ったほうが……」
壱也のナイフは彼の脇腹を掠め、十センチ程の傷を作った。深く抉られた場所はないが、血は止まらず白い包帯を少しずつ赤く染めていく。
冬馬は頭 を振り、病院へ行くことを頑なに拒んだ。助手席に深く凭れかかり、眼を閉じた。
これから、どうするのか。どうなるのか。
不安に思いながらも、車を発進させる。バックミラーで霊園の門を見る。
(こんなお別れで……ごめんね。もう、たぶん、これが最後……)
ここには、紗香と沙穂が眠っていた。
愛おしかった。でも。心の奥底では、ずっと、裏切っていた。
もう二度と、ここには来ることができないような予感がして、最後の懺悔をした。もう後戻りはできない。
秋穂が運転する車には、余り乗ったことがない。何処かへ行く時は、自分が運転することがほとんどだ。秋穂らしい慎重な運転だと思った。特に今は怪我をしている者を慮って、余計に優しく走らせているのだろう。
身体的にも精神的にも酷く疲れていて、眠ってしまいたかった。しかし、痛みと極度の緊張状態で、眼を瞑っていても眠ることはできそうになかった。
車が走りだしてから数分が過ぎた頃、コートのポケットに入っていたスマホが震えるのを感じた。ポケットから出して画面を見ると、相手が詩雨であることを示していた。何かを話す気力があるはずもなかったが、指は反射的に通話を押してしまう。
言葉が出ない。
相手にも間があった。永遠のようにも思えたが、実際には数秒後にいつもの調子の声が聞こえてきた。
「やあっと出た。さっきから何度も電話してるのに。オフィスにもおまえのマンションにもいないし。今、どこにいるのぉ?」
「詩雨……」
声が掠れる。それを詩雨が聞き取れたのかどうかはわからない。
「オレ、今、秋穂のマンションの近くまで来てるんだけど、ふたりともそっちにいるのかな。ハルに用事ができて、撮影一旦中止になったから、いっしょにクリスマスしようと思ったんだけど」
詩雨は数日前から、モデルのハルと沖縄に撮影旅行に行っていた。本当ならまだ沖縄にいるはずで、今東京にいることに、酷く驚いた。
何故今日──いや、これは運命かも知れない。詩雨が秋穂のマンションの近くにいるのなら──。
「詩雨、俺たちは今、そこには、いない。でも、頼みがある。部屋に──」
──行って欲しい。壱也の様子を見てきて欲しい。
そう言おうとして飲み込んだ。もし、壱也が生きていなかったとしたら。何の関係もない詩雨に、何らかの傷が残ってしまうかも知れない。彼にそんな思いをさせたくはなかった。
「いや、やっぱりいい」
そう言い切って、黙り込む。
やや間があって。
「やっぱ、オレには言ってくれないか」
独り言のような呟きが聞こえた。そして、その声は泣いているように震えている。
「詩雨?」
「ごめん、嘘だから。オレ、今、秋穂の部屋にいるから」
やっぱり泣いている、と思ってから、彼の言葉を頭の中で反芻する。
(ごめん、って何が?何を謝っている?秋穂の部屋にいるって……?)
混乱してすぐに次の言葉が出ない。
「ほんとはもっと前から秋穂のマンションの前にいたんだ。おまえ全然捕まんないから。それで、あの男がマンションに入って行くのを、見た……」
あの男というのは、もちろん壱也のことだろう。内心驚愕していたが、今はただ黙って彼の話を聞く。
「オレはそのままそこにいた──おまえが車を置いて入って行くのも見ていたし、その後秋穂とふたりで出てきたのも、見た。──でも、アイツは出てこなかった。おまえも秋穂も様子がおかしかった。酷く慌てていて、オレが近くにいたのも気がつかなかったろ……?なんか、やな予感がして──管理人さんに入れて貰った」
そこで血を流して倒れている壱也を見た、という訳か。
詩雨は、興奮を無理やり抑え込もうとして、ずっと声が上擦っていた。いつもの調子に思えていたのは、そう装っていただけなのだ。
「ごめんっ」
また詩雨が謝る。
「詩雨が謝ること、ないだろ」
やっと、絞りだすように声が出た。
そうだ。詩雨が謝ることは何もない。しかし、彼は「違う」と言った。
「何が起きたのかはわからないよ──でも、アイツが入った後にオレがすぐ追っていたら、こんなことには、なってなかったんじゃないか?──冬馬もケガしてるだろ?秋穂の部屋に行く間、所々血が落ちてた。それに、車運転してたの、秋穂だった……」
興奮が抑えきれなくなったのか、次第にトーンが上がってくる。電話の向こうから嗚咽が漏れ始めた。
「大丈夫だ、詩雨。たいしたことない」
真実は言えない。市販の痛み止めなど、まったく効いていないのに。
「……アイツが戻って来てるの、驚いた。秋穂からはそんなこと、聞いてなかったから。知らないのか、それとも、もう、会っているのか。一瞬であれこれ頭の中に浮かんできたんだ」
あの事件の時、現場に居合わせた詩雨は、それまで秋穂が壱也に何をされてきたのか、察したのだろう。
「それで……もし、この後冬馬が来たらどうなるんだろう、と思ってしまったんだ。──もし、また、ふたりが関係を持っていたとして、そこに冬馬が出くわしたとしたら…………。ごめん、ほんとに……オレ、サイテー。そんなこと考えてないで、早く行ってれば…………」
最後の方は涙で声が掠れて、聞き取り辛いくらいだった。
「詩雨のせいじゃ、ない」
「でも……」
(──詩雨は、俺が好きだ)
出会った時から、ずっと、長い間。今も。子どもの頃は、友だちか兄弟のような感情で。いつしかそれは、性的な意味が含まれるようになった。
そのことに気がついていたのに、気がつかない振りをして「お前の音楽が好きだ。お前のことが大事だ」と言い続けてきた──性的な意味を含んでやれないまま。
詩雨以上に大切な人間ができた時、『応えられない』と伝えてやれば良かったのに、そうはしなかった。そうしないまま、大人になった。はっきりさせて、詩雨が離れて行くのが嫌だったのかも知れない。
(俺は──ずるい男だ。応えてやれないのに、傍にいて欲しいなんて)
だけど。あえて、今、また言う。
「詩雨……お前の音楽が好きだよ。お前のこと、とても大切に想っている」
これ以上ないくらいの甘い声で言う。
「お前は、俺の、初恋だから」
これは真実 だ。
くすっと、電話越しに小さく笑い声が聞こえた。
「オレのこと、女だと思ってたんだろ」
「ああ」
釣られて笑う。
「もし……もし、秋穂に会っていなかったら、俺は────」
「あ、天音くんとっ」
冬馬の言葉を遮るように、慌てて話しだす。
「天音くんと優馬くんに連絡取ったからっ。アイツ、天音くんの知り合いの病院に運ぶ。あ、聖愛の時の病院。このことは表に出ないように、優馬くんがしてくれるはず。じゃあ、また連絡するっ」
そこでブツッと電話は切れた。言葉の先を聞きたくなかったのだろう。
────あんなこと言って、何になる。これ以上傷つけて、どうする。
だけど──言わずにはいられなかった。もう二度と、伝えられなくなるような気がして。
「詩雨、さよなら」
冬馬はスマホの電源を落として、そのままダッシュボードに放り込んだ。
秋穂は静かに車を走らせていた。聞きたくない会話は、自然と耳に入ってしまう。
(やっぱり冬馬にとって、詩雨くんは特別なんだ)
肉体関係のない、なんと表現していいのか判らない、特別な、強い繋がり。
(ずっと、嫉妬してた)
でも、渡せない。すべてを曝けだしてしまった今、自分を抑えていた頃のようには、もうできないのだ。
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