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        * * *  次に眼が覚めた時には、すっかり夜が明けきっていた。カーテンが開いたままの大きな窓から雪景色が見えて、眼が痛いくらいだ。  隣にいたはずの冬馬はいない。  暖かい部屋の中に、冷たい空気の流れを感じた。部屋からウッドデッキに繋がる、テラス窓が少し開いている。ベッドを降り近づくと、窓の外に冬馬が見えた。上着も羽織らず、裸足のままスリッパを履いて雪の上に立っている。  秋穂は硝子の開き戸を外側に大きく開いて声をかけた。 「そんな格好のままじゃ寒いでしょ」  振り返った冬馬は煙草を咥えていたが、ばつの悪そうな顔をして、慌てて手摺に積もった雪で火を消した。  彼は秋穂の前では煙草を吸わない。子どもの頃に煙草を押しつけられてできた痕が、今でも残っているのを知っているから。もう今は煙草の火を見たくらいでは何ともないのは解っているが、それでも彼は秋穂の前では吸わなかった。やはり、まだ、いつもの精神状態ではないのだろう。 「アキ……外に出てみないか?、よく行った沼に行ってみないか?」 「いいよ、行ってみようよ」  ふたりはシャワーを浴び軽く食事を済ますと、コートを羽織って外に出た。  秋穂は傷の様子が気になっていた。先程冬馬の包帯を取り換えたが、まだ出血していた。それに、膿んできているように思えたのだ。 (帰ってきたら、やっぱり、病院に行くように言おうか……)  玄関前に立ち尽くし考えていると、冬馬の指が自分の指に絡んできた。驚いて冬馬の顔を見上げる。彼は黙って前を向き、秋穂の手を引いて歩き始めた。その顔には照れたような笑みが浮かんでいて、何だか少年のように見えた。 (手を繋いで歩いたことなかったな)  くすっと小さく笑う。  大人の男同士が手を繋いで歩くなど、他人からは奇異にも見えるだろう。でも今はふたりしかいない。誰も見ていない。手を繋いで歩き続けることができる。  秋穂もまた、少年のように、心躍る気持ちになった。  明け方まで降った真新しい雪の上に、ふたり分の足跡を残しながら歩いて行くと、木々の間にあの懐かしい場所が見えてくる。  手を繋いだまま沼の畔に立ち、 「ああ」  と、ふたり同時に吐息にも似た声を漏らす。  ふたりとも、今同じ景色を見たのかも知れない、と秋穂は思った。  雪の白ではなく、煌めく夏の陽の下の濃い緑を────。 「あの頃、よかったよなぁ。ふたりだけの世界だった」  そう言った冬馬の眼の端に水滴が見えた、ような気がした。 「もしも、あの頃、自分の気持ちに素直になっていたら、こんなに遠回りしないで済んだのか。早くお前を連れ出していれば、こんなに誰かを傷つけずに済んだのだろうか」  その傷は精神的肉体的の両方だ。自分たちも含め、何人かを巻き込み、傷つけてきた。  でも──と秋穂は思った。 「もしも……なんて、言っても意味がないか。この道を通らなければ、今はないような気がする」  冬馬は苦く笑った。  秋穂も同じことを考えていた。  彼は秋穂の両の手を取り、じっとその瞳を見つめた。それから、壊れ物にでもするように、そっと口づける。冷たい口づけだった。 「やっと、手に入れた──ずうっと、一緒にいよう、秋穂」 「うん、ずっと一緒に」  冬馬の顔は酷く青褪めて見え、その眼から涙を落としながら微笑んでいる。  ────そして、秋穂の眼の端に、赤い花が映った。白い雪の上に散っている、鮮やかな赤い花が。  ふたりは再び、沼を見た。 (夏の間も冷たすぎて入れなかった水。今はどれだけ、冷たいんだろう)  秋穂の脳裏に、ふと、そんな言葉が過る。昨夜感じた形にならない不安は、今はっきりと姿を現した。  秋穂はその時、自分の頬が濡れていることに、初めて気がついたのだ────。

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